ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー作 「ティンタン修道院 ― ワイ川の月あかり」 ふたりの芸術家の出会いによる最高水準のスティール・インタリオ 1875年

"Tintern Abbey - moonlight on the Wye"


原画の作者 ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー(Benjamin Williams Leader, R. A., 1831- 1923)

版の作者 チャールズ・カズン (Charles Cousen, c. 1813 - 1889)


画面サイズ  縦 250 mm  横 168 mm


イギリス  1875年



 ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー(Benjamin Williams Leader, 1831- 1923)の風景画に基づき、高名なエングレーヴァー、チャールズ・カズン(Charles Cousen, c. 1813 - 1889)が制作したスティールのインタリオ。驚くべき細密さのエッチングエングレーヴィングを併用し、1875年に制作された傑作です。


《本品のテーマについて》

 全長 215キロメートルのワイ川(the Wye)は連合王国で五番目に長い河川で、大西洋からグレート・ブリテン島南部に入り込むブリストル・チャネル(the Bristol Channel)の奥、セヴァン河口の浅瀬(The Severn Estuary)に注ぎ込みます。ワイ川は、連合王国で最長のセヴァン川と同様に、ウェールズ中西部ケレディジョン(Ceredigion)の東端、カンブリア山地のプリンリモン(Plynlimon)を源とします。プリンリモンに発したワイ川は東向きにウェールズを流れた後、イングランドのヘレフォードシャーに入って南に向きを変え、最後の約三十キロメートルはイングランドとウェールズの国境を為します。ワイ川の河口から数十キロメートル遡ったあたりまでは、この川が石灰岩を浸食してできた渓谷「ザ・ワイ・ヴァリ」(the Wye Valley ワイ渓谷)となっており、ヨーロッパでも屈指の美しい風景を誇ります。

 ティンタン(Tintern)は人口数百人の村で、ワイ川を河口から十数キロメートル遡ったウェールズ側の岸辺にあります。ティンタンにあるシトー会修道院の遺跡は、ワイ渓谷のなかでもとりわけ風光明媚な場所の一つです。

 ティンタン修道院は、フランス中部ブロワ(Blois)司教区のシトー会修道院ロモーヌ(l'abbaye de l'Aumône)、別名ル・プチ=シトー(le petit-Cîteaux)から招かれた修道士たちにより、 1128年に創建されました。 創建時の建物はほとんどが次の十三世紀に建て直され、今日遺跡として残る付属聖堂は、1301年に献堂されています。この付属聖堂はゴシック様式で建てられ、東西六十八メートル、南北四十五メートルの大きさを誇る立派な建物でした。

 イングランド国内のカトリック教会と修道院は、1534年、国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491 - 1509 - 1547)を教会の長と定める「国王至上法」(Act of Supremacy)によって、すべての土地と建物と財産を失いました。イングランド国内にあった他の修道院と同様に、ティンタン修道院もこれによって廃院となり、四百年以上の歴史を閉じました。修道院の宝物は国庫に入り、部材が運び去られて廃墟となった修道院の建物には、勝手に人が住み着きました。




(上) Thomas Gainsborough, "Tintern Abbey", 1782, Graphite on paper, Support: 186 x 230 mm, Tate




(上) J. M. W. Turner, "The West Front of Tintern Abbey", c. 1794, watercolor, the British Museum


 しかしながら十八世紀の半ばに上流階級の間で旅行が流行し、風光明媚なワイ渓谷を訪れる人が増えると、蔦に覆われたティンタン修道院の廃墟は人々を魅了し、数多くの詩人や画家、版画家たちが、ティンタン修道院の廃墟を作品の主題に取り上げました。上の写真は一枚目がトーマス・ゲインズバラのスケッチで、1782年、ゲインズバラがティンタン修道院を訪れた際のものです。二点目はターナーの水彩画で、修道院付属聖堂の西側正面を描いています。ターナーは 1794年頃にティンタン修道院を訪れ、それに基づいて何点もの水彩画を制作しています。


《原画の作者について》

 ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー 自画像


 本品の原画を描いたベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー(Benjamin Williams Leader, R. A., 1831- 1923)は、1831年3月21日、イングランド西部のウスター(Worcester)に生まれました。もともとの名前はベンジャミン・ウィリアムズ(Benjamin Williams)でしたが、のちに「ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー」を名乗るようになりました。

 ベンジャミンの父は設計士でしたが、風景画家ジョン・コンスタブル(John Constable, 1776 - 1837)とも交流がある美術愛好家で、自身も風景画を描きました。息子ベンジャミンも父の写生についてゆき、やがて画家になりたいという希望を抱きます。十四歳になったベンジャミンは父の方針により設計事務所に入りますが、美術への志は無くなりませんでした。およそ五年後、ベンジャミンはようやく父の許しを得てウスターの美術学校に入学し、1853年には王立美術アカデミーに仮入学を果たします。美術アカデミー在学中にベンジャミンが展示した作品("Cottage Children Blowing Bubbles")は買い手が付き、その後に制作した作品も、ウスターの上流階級に次々と買い求められました。ベンジャミンは王立美術アカデミーに加え、ロンドンのナショナル・インスティテューション(The National Institution of Fine Arts, 1847 - 1861)、ロンドンのブリティッシュ・インスティテューション(the British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom, 1805 - 1867)、バーミンガム美術協会(the Royal Birmingham Society of Artists, 1821 - )、リヴァプール・アカデミー(Liverpool Academy of Arts, 1810 - c. 1860)でも作品を展示し、いち早く名声を確立しました。

 ベンジャミン・ウィリアムズの初期の作品はラファエル前派の影響の下、鮮やかな色彩が多用され、また細部が正確に描き出されています。しかしながらベンジャミンは名声を確立して後も自らの作風に満足せず、鮮やかな色を多用して人為的な画面となるのを避けるために、自然の光と影がもたらす効果を追究しました。

 1857年、ベンジャミン・ウィリアムズは「ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー」と改名しました。当時ロンドンではウィリアムズという名前の別の画家一族が活動していたので、この人たちと混同されるのを避けるために、父のミドル・ネームからリーダーという名を採ったのです。「ジ・アート・ジャーナル」("The Art Journal"の編集者サミュエル・カーター・ホール(Samuel Carter Hall, 1800 - 1889)はリーダーの作品を高く評価し、1860年代から 1870年代にかけて、リーダーに好意的な批評を同誌に掲載します。「ジ・アート・ジャーナル」は十九世紀のイギリスで最も影響力が強い美術雑誌でしたから、これはリーダーにとってたいへん幸運なことでした。




(上) Benjamin Williams Leader, R. A., "February Fill Dyke", 1881


 リーダーの作品は自然光、とりわけ夕陽の効果を重視するのが特徴で、この画風は 1880年代までに確立されました。とりわけ 1881年に描いた「フェブリュアリー・フィル・ダイク」(February Fill Dyke, 1881)はリーダーの最高傑作と激賞され、この作品を複製した数多くの版画が販売されました。

 「フェブリュアリー・フィル・ダイク」(溝満たしの二月)とは田舎の人が使う表現で、雪融け水が溝の水位を上げる二月、すなわち「雪融けの二月」という意味です。リーダーが描いた風景でも、冬の間に積もった雪や地面の氷が融けて、方々にぬかるみができています。明るい夕陽が水たまりに映り込み、春の訪れを感じさせる明るい画面に仕上がっています。




(上) Benjamin Williams Leader, R. A., ""In the evening it shall be light", 1882


 リーダーは 1882年に制作した「晴れゆく夕刻」("In the evening it shall be light", 1882)を、1889年のパリ万博に出品しました。この作品は同万博で金メダルを獲得し、画家はレジオン・ドヌール章シュヴァリエを授与されました。1891年、リーダーは王立アカデミー会員に選ばれ、作品の評価はさらに高まりました。1914年には「ベトゥス=イ=コイド、スルグイのほとり」("On the Llugwy, Bettws-y-coed")がイギリス王室に買い上げられました。


 ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダーの作品は 1854年から 1923年までの六十九年間に王立アカデミーで二百十六枚が展示されたほか、ロンドン、ウスター、バーミンガム、マンチェスター、リヴァプール、グラスゴウだけではなく、パリ及びアメリカ合衆国とフランスでも展示されました。現在ではテート・ブリテンやヴィクトリア・アンド・アルバート美術館をはじめ、各地の美術館で作品を目にすることができます。


《版の作者について》

 ジョン・カズン(John Cousen, 1803-1880)とチャールズ・カズン(Charles Cousen, 1819-1889)の兄弟はイングランド北東部、ヨークシャーに生まれた画家で、高名なエングレーヴァーでもあります。ターナー作品をはじめ、フィンデン兄弟(Edward Francis Finden, 1791-1858, William Finden, 1787-1852)が中心になって制作した非常に豪華な画集「ロイヤル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」(Royal Gallery of British Art, 1838-49)やエディンバラの出版社ブラック(Adam & Charles Black)が出した美しい画集「絵入りスコットランド旅行案内」(Picturesque Tourist of Scotland, 1849)、またウォルター・スコット作品のための挿絵など、多数の優れたエングレーヴィングで知られています。

 チャールズ・カズンによる1870年代の作品は、エッチングを多用していることが特徴です。チャールズ・カズンは 1879年にエングレーヴィングを重視する作風に回帰しますが、1875年に制作された本品「ティンタン修道院 ― ワイ川の月あかり」("Tintern Abbey - moonlight on the Wye", 1875)は、空以外のほぼ全面に細密なエッチングが用いられています。1874年に制作された「トワイライト・イン・ザ・ウッド」("Twilight in the Wood", 1874)、1876年に制作された「にわか雨」("Showery Weather", 1876)にも、同様の傾向が見られます。


≪この作品について≫




 風光明媚なワイ渓谷にあって最も美しい場所のひとつ、シトー会修道院の廃墟があるティンタンの村を、月明かりの下で描いた美しいインタリオ。ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダーが 1872年に描いた原画に基づいてチャールズ・カズンが制作し、1875年の「ジ・アート・ジャーナル」に収録された作品です。この版画は極めて細密であり、版の制作にはおよそ二年を要しています。

 本品は「ティンタン修道院 ― ワイ川の月あかり」("Tintern Abbey - moonlight on the Wye")と題されています。「ワイ川の月あかり」という副題が示すように、本品は建築画ではなく、月明かりに照らされる雲と陸地、ワイ川を含む風景全体の美が主題となっています。インタリオに関しては遠い山の一部、及び空と雲がエングレーヴィングで表されていますが、それ以外はすべてエッチングで描かれており、この時期のチャールズ・カズン作品の特徴がよく表れています。





 版画画面の上方左寄り、夜空の最も明るい部分に、満月が煌々と輝いています。明るい月光に照らされて、夜の山は一本一本の木が判別可能です。穏やかに流れるワイ川のせせらぎは月あかりをきらきらと反射させ、ダイヤモンドをちりばめたように輝いています。

 本品の実物を見るとあまりにも美しい月の光に目を奪われて、細部を見落としがちです。しかしながら夜を迎えた風景の暗部にも、極めて細密なインタリオによって多くのものが描き込まれています。





 修道院付属聖堂の手前にはいくつもの民家が建っており、村人たちの姿も見えます。家々の窓には明かりがともり、右端の家の煙突からは煙が出ています。ほとんど風が無い穏やかな夜で、煙はほぼ真上に立ち昇っています。





 上の写真の右端に写る定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。家々の窓のサイズは一ミリメートル以下、手前に立つ村人たちの身長は二ミリメートル足らずです。月光を浴びる聖堂は、逆光のためシルエットになっています。こちらに正面を向けているのは翼廊の北端で、繊細なトレイサリー(石造りの窓枠)が実物通りの正確さで描かれています。ここから聖堂の左端(西側正面)に至る中間付近が少し明るくなっています。手前の建物に隠れてよく見えませんが、野外で火を焚いているのでしょう。





 煙突から煙が出ている家の手前には、パンス船(panse オランダの漁船)に似た川舟が帆を下ろして停泊しており、船尾には船頭の姿が見えます。船頭はこれから下船し、船を舫(もや)って家路に就こうとしています。





 パンス船の向かって右側には背の高い木があり、そのさらに右には大きな二階家が建っています。二階家は鎧戸が閉じられているらしく、窓に光が見えませんが、煙が煙突から立ち上っているので、中に人がいることがわかります。おそらく夕食の調理をしているのでしょう。

 家の前には火が焚かれ、戸口を明るく照らしています。火の傍には男性が座っており、少し離れたところには赤ん坊を抱いた女性らしき姿が見えます。女性の背は明るい月光を浴びています。足元には犬がいます。犬のサイズは全高一ミリメートルほどですが、頭も脚も良く判別できます。少し離れた右側には二頭の馬が立っています。奥の馬は白馬です。人も馬も犬も一日の労働を終えて、いまは心地よい夕闇に溶け込み、くつろぎのひと時を過ごしています。





 二階家の煙突の拡大写真です。定規のひと目盛りは一ミリメートルです。ここは暗部ですので、溝の密度は一ミリメートルあたり約六本に及びます。月光を浴びる屋根の片側や、煙突から出てたなびく煙は、エッチングの溝の深さを変えることで表現されています。





 二階家よりもずっと手前の近景では、一艘の手漕ぎ舟が川べりに舫(もや)われています。この小舟は一見したところエングレーヴィングのように見えますが、細心かつ慎重に平行線を引いて描いたエッチングです。

 小舟の縁(へり)と櫓(ろ)、腰かけ板は月に照らされています。先端が明るく輝くクラッチは、金属でできているのでしょう。

 小舟の艫(とも)と船体の手前には月光が当たらず、ほぼ完全な暗部となっています。実際の風景を高感度フィルムで写真撮影すると、このような部分は真っ黒に潰れてしまいます。しかしながらチャールズ・カズンは驚くべき正確さで間隔を詰めた平行線を引き、月光が当たらない部分にもわずかな明るさを確保しています。溝と溝の間隔は、数十分の一ミリメートルしかありません。チャールズ・カズンが本品において駆使するエッチングの細密さには、言葉を失います。





 夜空と雲はエングレーヴィングで制作されています。エングレーヴィングの溝は版画の右端から左端まで一直線につながっていますが、エングレーヴァーは彫刻刀に込める力を調整することで、溝の太さと深さを自在にコントロールし、意図したとおりの明暗のグラデーションを生み出します。

 われわれは紙に刷られた状態の作品を見ていますが、版を制作している最中のエングレーヴァーには、当然のことながら、金属の板しか見えていません。それにもかかわらずインタリオの溝に入るべきインクの量を常に完全に把握し、幅と深さを制御しながら溝を彫るエングレーヴァーの腕前は、常人の想像を超えています。

 夜空に浮かぶ雲が月明かりを浴びると、雲が濃い部分は明るく輝きますが、雲が薄いと月光の反射率が下がります。チャールズ・カズンは雲が薄い部分の明度を落とすために、溝を広く深くする方法とならんで、浅いクロスハッチを併用しています。ふわふわとした雲の質感を失わないためには、浅いクロスハッチを加えるのが最適であるからです。





 上の写真は版画右下の隅部分です。チャールズ・カズンの目は一枚の草の葉、一個の小石に至るまで、あらゆる小さな物を大切にして、慈しむように描き出しています。

 十九世紀のインタリオは、画面の左下に原画の作者名、右下に版の作者名を刻みます。原画の作者名に続く "PINXT" はラテン語ピーンクシット(PINXIT)の略記で、「描いた」という意味です。版の作者名に続く "SCULPT" はラテン語スクルプシット(SCULPSIT)の略記で、「彫った」という意味です。本品はベンジャミン・ウィリアムズ・リーダーの原画に基づくチャールズ・カズンの作品ですので、版画の左下にリーダーの名前と "PINXT" の表記が、右下にカズンの名前と "SCULPT" の表記が、それぞれ刻まれています。




(上) Benjamin Williams Leader, R. A., "Tintern Abbey", 1900


 「ジ・アート・ジャーナル」の 1901年クリスマス号で、ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダーは次のように語っています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     The subjects of my pictures are mostly English.  I have painted in Switzerland, Scotland, and a great deal of North Wales, but I prefer our English home scenes.  Riversides at evening time, country lanes and commons, and the village church, are subjects that I love and am never tired of painting     作品に描くのは、ほとんどの場合、イングランドの風景だ。これまでにスイスやスコットランドも描き、ウェールズの北部も多く描いたが、やはり故郷イングランドの風景が好きなのだ。夕暮れの川べり、田舎の小道や雑木林、村の教会堂。わたしが好きなのはこういう画題で、いくら描いても飽きることがない。


 リーダーの故郷ウスターに近いワイ河畔のティンタンは、まさにこの画家が好んだ画題となりました。上の写真は、1872年に描いた作品と同じ主題に基づいて、1900年に描き直された「ティンタン修道院」です。この作品は過去の業績に安住せず、光の効果を追及し続けるリーダーの熱意を示すとともに、「ティンタン修道院 ― ワイ川の月あかり」("Tintern Abbey - moonlight on the Wye")が、ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダーにとって、何度でも描きたい風景であったことを証しています。

 インタリオの名手チャールズ・カズンが、おそらくおよそ二年を費やして、あたかも何かに憑かれたかのように制作したこの版画は、十九世紀のイギリスが誇るふたりの芸術家、すなわち最も高く評価された風景画家ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダーと、天才的なランスケイプ・エングレーヴァーであるチャールズ・カズンが、同じ時代に同じ国に生れて出会うことで生み出された稀有な作例であり、十九世紀の風景画インタリオにおける最高傑作のひとつです。


《額装について》

 版画は未額装のシートとしてご購入いただくことも可能ですが、当店では無酸のマットと無酸の挿間紙を使用し、美術館水準の保存額装を行っています。下の写真は本品の額装例で、外寸 40 x 31センチメートルの木製額に、青色ヴェルヴェットを張った無酸マットを使用しています。この額装の本体価格は 24,800円です。





 額の色やデザインを変更したり、マットを替えたりすることも可能です。白や各色の無酸カラー・マットが使えますし、赤や緑、ベージュ等のヴェルヴェットを無酸マットに張ることもできます。下の写真では額を変更しています。







 アンティーク・インタリオ(エッチング及びエングレーヴィング)の細密さは、原寸大の写真によって再現することができません。コンピューターのモニターで表示するために、版画の全体像を把握しやすいサイズまで画素数を落とすと、細部はすべて失われます。細部がどのように彫られているかを示すためには、版画の数か所を選んで接写し、顕微鏡写真のような拡大写真で示すしかありませんが、拡大写真は現物のサイズとかけ離れています。これに加えて、現物のアンティーク・エングレーヴィングは、拡大写真でも判別が困難な細密さを有しており、それらの細部は版画作品の全体を肉眼で見たときの驚くべき写実性に貢献しています。

 私がここに書いていることを理解するには、現物をご覧いただくしかありません。アンティーク・エングレーヴィングの現物は写真で見るよりもはるかに美しく、購入された方には必ずご満足いただけます。


 版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。このリンクをクリックしてお読みください。





エングレーヴィングの本体価格 58,800円 (額装別) 在庫切れ 取り寄せの可否はお問い合わせください。

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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