版画とは何か? ― 版画の価値についての試論
Qu'est-ce que c'est, une gravure? - un essai sur sa valeur




(上) チャールズ・エドワード・ペルジーニ作 「ア・シエスタ 午後のまどろみ」 フランシス・ホルによるエングレーヴィング 1882年 当店の商品です。


 この小論では、版画の本質と存在意義について考察します。


【或る経験から】

 以前、お客様に版画をお見せしたときに、「これ、版画ですか? 印刷じゃないんですか?」 と言われて絶句したことがあります。このお客様の考えによると、本当の版画であれば絵の部分が余白に比べて一段低く窪(くぼ)んでいて、絵の下には版画家のサインと 15/200、20/25等の分数が鉛筆で書き込んであるはずです。ところが私がお見せした商品には、そのような特徴が見られません。ですから「これは版画ではなくて、ただの印刷でしょう?」と仰(おっしゃ)るのです。

 このような無理解は多くの人に見られることであろうと思われます。そこで一般の方々の疑問に答えるべく、「版画とは何か」について考えてみることにします、


【版画は印刷物か】

 まずはっきりさせておきたいのですが、版画は印刷物です。さらに言うと、日本語では「印刷物」とは別に「版画」という言葉がありますが、英語やフランス語ではどちらも同じ言葉です。「版画」も、上のお客様が仰る「ただの印刷」も、英語では「プリント」(print 原意「捺したもの」)、フランス語では「グラヴュール」(gravure 原意「溝を彫ったもの」)で、言葉の上では区別がありません。アンティーク版画も現代の版画も、すべての版画は印刷物です。


【版画を刷った部分は窪(くぼ)んでいるか】

 次に絵の部分の窪みについて。版画の窪みの縁を為す線を英語で「プレイト・マーク」(plate mark)といいますが、これは版画が印刷される際に、平たい版が大きな圧力で紙に押し付けられた跡です。「プレイト・マーク」は版画を印刷するときに、どうしても紙に付いてしまう版の痕跡にすぎず、「プレイト・マーク」が版画の価値を生み出すわけではありません。

 プレイト・マークが無い「ただの印刷物」、つまり輪転機による大量印刷物は、大抵の場合、版画よりも価値が低いと考えられます(註1)。それゆえ上の逸話に登場するお客様がプレイト・マークの有無を気にするのは、一定の合理性があるといえましょう(註2)。

 しかしながら平版であっても、石版画は版が常に紙よりも大きいので、プレイト・マークができません。またエングレーヴィングやエッチングのようなインタリオの場合も、余白を含めた版全体のサイズが紙よりも大きければ、当然のことながらプレイト・マークはできません。本論冒頭のお客様にご覧に入れた当店の商品はエングレーヴィングとエッチングでしたが、版が紙よりも大きかったために、プレイトマークは付いていなかったのです。このことからもお分かりいただけるように、プレイト・マークの有無は、その印刷物を「版画」と呼べるかどうかの判断基準になり得ません。




(上) ピエール=ルイ=ジョゼフ・ド・コナンク作 「タンバリン」 ハーバート・ボーンによる丁寧かつ細密なスティール・エングレーヴィング 1872年 当店の商品です。


【エディション・ナンバーが無い版画は、いくらでも手に入る「ただの印刷」なのか】

 15/200、20/25等、分数で表示されている数字を「エディション・ナンバー」といいます。現代の版画家の作品には、版画家のサインとエディション・ナンバーを、鉛筆で書くのが慣行になっています。この慣行がいつから始まったのか、筆者(広川)は正確に知らないのですが、せいぜい数十年前に始まったことです。鉛筆によるサインやエディション・ナンバーが、十九世紀以前の版画に記入されることはありません。

 鉛筆によるサインとエディション・ナンバーを記入する目的は、版画の稀少性を目に見える形で分かりやすく強調し、購買意欲をそそるためです。アンティーク版画にはそのような記入がありませんが、版画、つまり「版画」と呼べる美術品水準の印刷物は、そもそも刷られた枚数が限られています(註3)。また戦災や火事、湿気やカビ、版画を相続した人の無関心など、あらゆる原因によって膨大な数の作品が失われています。それゆえ百数十年以上も後の現代に購入できるアンティーク版画は、ごく僅かです。

 当店で扱っているアンティーク版画は、大英博物館やテート・ブリテン、ヴィクトリア・アルバート美術館、オルセー美術館等に、同じ作品が収蔵されています。美術館に収蔵されているアンティーク版画については枚数が確実にわかりますが、それ以外に残っているアンティーク版画の枚数は、誰も具体的に把握していません。版画を研究し、商品としても取り扱っている筆者自身の経験に基づけば、現時点で在庫しているものが売れた場合、再び入手できない作品が多くあります。十数年前までは比較的容易に見つかった作品が、現在では二年、三年をかけて探しても、一点も見つかりません。


 以上、版画全般及びアンティーク版画に関して、最初のエピソードのお客様に答える形で解説しました。以下の部分では、版画に関してよく尋ねられる質問に答えます。


【要するに「版画」と「ふつうの印刷物」では、何が違うのですか?】

 わが国では価値ある美術品として扱われる印刷物を「版画」と呼び、一般の印刷物はもちろん、高品位の美術印刷からも区別しています。ある印刷物が版画、すなわち美術品であるためには、次の二つの条件を満たす必要があります。


・印刷物が美術品(版画)であるための第一の条件 品格と美しさ

 版画は美術品と呼ばれるにふさわしい品格と美しさを備えています。美の基準は文化や時代によっても個人によっても異なるので、美しいものと美しくないものの間にはっきりとした線を引くことはできません。また必ずしも美しい物のみが芸術品ではないという考え方も有り得るでしょう。しかしながら芸術品が品格を備えるべきであることに、異論を唱える人はいないでしょう。

 純粋な観賞用に制作された作品のみならず、実用の目的で刷られた作品にも、芸術品と呼べる水準の品格と美しさを備えた作品はたくさんあります。中世の教会や修道院で巡礼者に配られた木版画、美術品水準の劇場プログラムやポスター、レストランのメニューなどに、数多くの美しい作品があります。

 下の写真に写っているアール・ヌーヴォーのメニュー用紙は、パリの版画工房ルヴェラ(Revella)が二十世紀初頭に制作した作品です。ルヴェラはエッチングを専門とし、純粋な観賞用の版画とともに、本品のようなメニュー用紙や蔵書票も制作していました。メニュー用紙や蔵書票のような実用品を含め、ルヴェラによる丁寧かつ細密な作品はいずれもたいへん美しく、芸術品の名に十分に値します。


(下) un menu en eau-forte, Revellat, 25, Quai des Augustins, Paris 当店の商品です。




・印刷物が美術品(版画)であるための第二の条件 制作に要する職人技と労力

 版画の製版と印刷には、手作業が大きな役割を果たします。エングレーヴィングメゾティントでは、版画家が全面的に手作業で版を制作します。エッチングは酸の腐食作用でインクの溝を刻みますが、蝋を引いた金属板に描画を行うのは版画家自身です。フォトグラヴュアは原理的には写真を応用した技法であっても、実際の製版はすべて手作業であるうえに、酸による腐食の完了後にも、大抵の場合はエングレーヴィング用ビュラン(彫刻刀)やメゾティント用ロッカーを使って版を手直しする必要があります。エッチング及びフォトグラヴュアの製版に必要な酸への暴露は、版画家自身または専門職人が熟練技で時間を調整します。

 これに対して輪転機による印刷は、美術印刷を含め、色の調整作業や検品作業を除けば、ほぼ全ての過程が機械化されています。


【私は裕福だから、名画の原画にしか興味がありません。印刷物を買うなど、沽券に関わります】

 版画は原画の単なる複製を超えて、版画独自の価値を持っているのですが、この説明は次の項目に回します。ここではひとまず「版画は原画の複製品にすぎない」と仮定してみましょう。その場合、原画こそが手に入れるべき物であって、版画は価値が無いのでしょうか。

 版画がもとの絵の複製である場合、その「もとの絵」は素晴らしい名画です。しかるにそのような名画を手に入れることは、いくら裕福であっても不可能です。なぜならばそのような絵はほぼ例外なく博物館や美術館に収蔵されていて、市場に出ることがないからです。版画で複製されている名画が、どこの美術館にも収蔵されていない場合が稀にあります。しかしその場合、その絵は既に収集家の手に渡っているか、戦災や火災、船の沈没等によって永久に失われています()。したがって版画の原画を手に入れることは、いくら裕福であってもまず不可能です。


【でも、版画は複製品にすぎないでしょう?】

 これは知っておいていただきたいことですが、そもそも版画は原画の複製とはかぎりません。ご自身が子供のときに学校の授業で版画を制作されたときのことを思い出してください。別の人が描いた原画を複製するために、版画を作ったのではないはずです。

 美術を職業とする版画家が作品を作る場合でも、「オリジナル版画」と呼ばれるものは原画を複製するために作られるのではなく、初めから版画として企画・制作されています。下の写真はオリジナル版画の例です。


 佐藤恵美作 「しぶき」 メゾティント 355 x 295 mm 2004年


 オリジナル版画の場合、対応する原画がもともと存在しないだけではなく、一点のみを刷るために版が制作されることもあります。モノタイプは版画でありながら、その方法からして一点しか制作できません。さらに版をそのまま使って複数の版画を刷れる技法であっても、敢えて一点のみがすられる場合さえあります。下の写真はそのような作品の例で、技法はエッチングです。




(上) リチャード・パークス 「ファースト・アメイズメント」 エッチング ただ一点のみ制作された作品 非売品


 ドライポイントという技法の版画は、その特性上、十枚程度しか刷ることができず、しかもその一枚一枚が異なった表情を見せます。ドライポイント作品は印刷物でありながら、その一枚一枚が同時に「一点もの」であるといえます。下の写真はドライポイントによる版画です。


(下) 門坂流 「ブラック・キャット」 ドライポイント 88 x 118 mm 当店の販売済み商品です。





 版画と絵画の関係について、稀少版画を巡るユニークな例を取り上げます。ヴェネツィア生まれの版画家ヤーコポ・デ・バルバリ(Jacopo de' Barbari, 1460/70 - c. 1516)は 1510年頃にコッパー・エングレーヴィング「クレオパトラ」を制作しています。この作品は高く評価された版画ですが、これまでに現存が確認された点数は七枚に過ぎず、うち一枚は大英博物館に収蔵されています。そして面白いことに、大英博物館にはこれとそっくり同じ作品がもう一点収蔵されているのですが、これはエングレーヴィングの線と点をペンで丁寧に複写した手描き作品です。すなわちこの場合、絵画を版画で複製しているのではなく、版画を絵画で複製しているのです。版画が独自の価値を持つ芸術作品として高く評価されていることは、この一例を取ってもよく理解できます。


(下) Jacopo de' Barbari, "Cleopatra", c. 1510, copper engraving on paper, 179 x 117 mm, the British Museum




(下) 上の作品をペンで複製した同サイズの作品。大英博物館蔵。




【版画が原画の複製である場合、そのような版画には独自の価値があるのですか? 写真と同じことではないですか?】

 原画の複製としての版画制作が始まったのは、写真が無い時代でした。名画を複製する版画が、写真の役割を果たしていたのは事実です。しかしながら版画は原画の単なる複製ではなく、原画とは別の芸術作品として、独自の価値と存在意義を有します。

 下の写真はJ. M. W. ターナー(Joseph Mallord William Turner, 1775 - 1851)が 1832年に描いた水彩画「ル・アーヴル」(テート・ブリテン蔵)と、これに基づいてジェイムズ・ベイリス・アレン(James Baylis Allen, 1803 - 1979)が 1834年に完成したスティール・エングレーヴィング(テート・ブリテン、大英博物館、当店等にて収蔵)です。この時期のターナーは輪郭をぼかした画風になってきていますが、アレンの版画は原画に比べて細部がシャープであり、版画が原画の単なる複製ではないことが理解できます。


 J. M. W. ターナー 「ル・アーヴル」 1832年頃 紙にグワッシュと水彩

 J. M. W. ターナー 「ル・アーヴル」に基づく J. B. アレンのエングレーヴィング 1834年 当店蔵


 ちなみにターナーは版画の制作時にあれこれと口出しすることで有名でした。逆に言えば、このエングレーヴィングに表れた版画家アレンの作風を、ターナーは承認していたことになります。またテート・ブリテンはターナーの原画を収蔵していますが、アレンの版画も同様に収蔵しています。これらの事実から、たとえ版画がオリジナルではなく、元になった原画が存在する場合であっても、版画は単なる複製ではなく、原画とは別の芸術作品として、独自の価値と存在意義を有することがわかります。

 「写真があるのだから、版画は不要だ」と考えるのは、「写真があるのだから、絵画は不要だ」と考えるのに似ています。肖像画や風景画は、たとえ実在するモデルや風景を基に制作された作品であっても、写真とは異なる独自の芸術的価値を有します。「原画」と「原画を複製したアンティーク版画」の関係も、これと同様に考えることができます。


【でもモノクロームの版画は、色が無いから、やっぱり寂しいですね】

 単色(モノクローム)の絵が好きではないというのなら、それは個人の趣味ですので、どうしようもありません。そのような考え方、感じ方が間違っているとは誰にも言えません。

 しかしながら単色の芸術作品は版画だけではなくて、ほかにもたくさんあります。近世以降に西洋で制作された丸彫り彫刻や浮き彫り彫刻は、ブロンズの場合も、大理石の場合も、木彫の場合も、彩色しないのが普通です。写真においても、素人のスナップ写真はカラーですが、芸術写真家による作品はしばしばモノクロームで撮影されます。芸術映画のなかには、「シャーターンタンゴ」("Sátántangó", 1994)のように全編モノクロームで撮影され、最高の評価を得ている作品があります。彫刻や写真、映画がモノクロームであるのは、表現すべき内容に肉薄するうえで色彩が邪魔になるからです。

 絵画においても同様に、デッサンで捉える形態を、色彩よりも重要視する思想が、古代から現在までずっと受け継がれています。西洋の伝統的美術思想において、形態が色彩に優先するのは、色彩が移ろいやすいこと、褪色しやすいこと、光の種類によって見え方が全く異なるゆえに、事物の本質を表さないと考えられたことによります。

 「物の見え方は光の種類によって全く異なる」という現象に、美術史上はじめて積極的な関心を抱いたのは印象派の画家たちです。わが国では印象派が非常に大きな人気を集めており、ともすれば印象派絵画こそが近代美術の本流であるかのように錯覚されています。私は印象派の業績を貶めるつもりは毛頭ありません。しかしながら美術史全体を通してみれば、印象派が現れたのはごく最近であり、その仕事も美術史全体において本流に位置づけられるほど重要なものでも、芸術全体に影響するほどの広がりを持つものでもありません。実際、印象派が存在しうるのは、彩色絵画においてのみです。印象派デッサンとか印象派彫刻などというものはあり得ません。印象派陶芸、印象派書道等もありません。要するに色彩の役割を過大に評価し、色が塗られていなければ芸術ではないと見做すのは、たいへん偏った考え方です。

 東洋に目を移せば、水墨画は単色の絵画です。水墨画は多彩画から分離発展した技法です。多彩の顔料が手に入らなかったから、仕方なく墨を用いたのではありません。また書道の墨も、黒のみです。水墨画も書道もわが国では禅宗と結びついて発展しました。色彩を敢えて排した水墨画や書道が、存在の本質を見極めようとする禅宗と結びついた事実は、これらの芸術の方向性を端的に指し示しています。




(上) Sir Joshua Reynolds,"The Age of Innocence", c. 1775, Oil on canvas, 63.8 x 76.5 cm, Tate


 以上に述べたのは、美術の歴史においてモノクロームの作品が有する理念的な意義ですが、翻って実際上の問題に目を向けると、モノクロームの版画は経年劣化に対する耐性が非常に優れています。このことは版画において重要な存在意義のひとつになっています。

 油彩画であれ、水彩画であれ、多色刷りの印刷物であれ、経年による変色や褪色は避けることができない問題です。上の写真はサー・ジョシュア・レノルズ(ジョシュア・レノルズ卿 Sir Joshua Reynolds, 1723 - 1792)が 1775年または 1778年に描いた油彩画です。この作品はテート・ブリテンに収蔵されていますが、劣化が進んでいます。美術品の劣化を止めることは、どのような技術を以てしても不可能ですから、百年後、二百年後には、残念ながら、原画を見ることはできなくなりそうです。

 これに対して、単色の版画は保存性がたいへん優れています。下の写真は、ジャン・フェルディナン・ジュベール・ド・ラ・フェルテ(Jean Ferdinand Joubert de la Ferté, 1810 - 1883)が 1850年に制作したスティール・エングレーヴィングです。この版画は良質の中性紙に刷られているため、適切な状態で保存すれば半永久的に劣化せず、数千年に亙って美しい状態を保ちます。


(下) Sir Joshua Reynolds, "The Age of Innocemce", a steel engraving by Jean Ferdinand Joubert de la Ferté 当店の商品です。




 以上、版画の価値と存在意義について論じてきました。版画は印刷物ですが、稀少価値においても、品格においても、歴とした美術品です。オリジナル版画はいうまでもなく、原画の複製として制作された版画であっても、原画とは別に、版画独自の地位と存在意義を有しています。一言でいえば版画は全くの美術品であって、決して「ただの印刷物」ではないのです(註4)。




註1 輪転機による印刷物には、プレイト・マークはできません。

 印刷物の価値の高低が、版の様式や印刷方法に規定されるのかどうかは、哲学や心理学、経済学のテーマになるような大問題です。これを厳密に論じようとすれば、価値とは何に起因する価値であるのか、何によって測られる価値であるか、誰にとっての価値であるのか等を、あらかじめはっきりさせる必要があります。そのように大きな問題をこの場できちんと扱うことはできないので、いまは「稀少価値」と「紙及び印刷の品質」の二点に議論の範囲を限定して、「版画」と「輪転機による大量印刷物」が有する価値の高低を考えることにしましょう。

 まず稀少価値についてですが、輪転機による大量印刷物は、確かに、たいていの場合は稀少価値が少ないといえます。輪転機による大量印刷が始まったのは産業革命の頃であって、比較的新しい時代のことですし、そもそも大量に印刷されているので、現在まで失われずに残っている点数は比較的多いと推測されます。これに対して近世以前の印刷物は、たとえたくさんの枚数が刷られたとしても、長い歳月の間にほとんどが失われて、ごくわずかな点数しか残っていません。また平版は近代以降のものであっても少ない点数しか刷られていません。詳しく言うと、銅版は摩滅しやすいので大量印刷ができません。鋼版はほとんど摩滅しませんが、美術版画の印刷点数は、後述するように、極めて限られています。したがって近代以降の平版は、中世の町々を巡回して販売されたり巡礼地に売られたりした木版画などよりも、はるかに少ない枚数しか印刷されていません。しかもそれらは、近世以前の品物と同様に、長い歳月の間にほとんどが失われています。以上のような理由によって、近世以前の印刷物や、近代以降の平版による版画は、いずれも稀少です。これらと比べれば、輪転機による大量印刷物は稀少価値が劣ります。

 輪転機による大量印刷物は、紙の品質、及び印刷の品質においても、近世以前の印刷物や、近代以降の平版による版画に劣る場合が多いと言えます。紙の品質に関して言えば、近世以前の印刷物は劣化しない中性紙に刷られており、それゆえに数百年後の現代まで残っています。また近代の版画が刷られている紙も、やはり良質の中性紙です。しかるに輪転機による大量印刷物にはしばしば酸性紙が使われており、長期保存ができません。印刷の品質に関して言えば、オフセットによる印刷物は網点で構成されていますが、オフセットの網点は粗くて、美術印刷に向いているとは思えません。ロトグラヴュア rotogravure(エリオグラヴュール héliogravure)の網点はオフセットよりも格段に細かいので、印刷品質上の大きな問題はありませんが、紙の品質の問題は残ります。また製版も手仕事ではなく機械的に行われるので、やはり芸術品とは言えないでしょう。

 以上の理由により、輪転機による大量印刷物は、「稀少価値」と「紙及び印刷の品質」のいずれにおいても、平版による印刷物(版画)に比べて価値が低いといえるでしょう。


註2 版画の手法とプレイト・マークの関係に関して、一般の人は知識を持っていません。この無知を逆手に利用すれば、プレイト・マーク風の窪みを大量印刷物の周囲にエンボス(型押し)し、通常よりも高値で販売することができます。このような方法で大量印刷物を版画に見せかけた商品を、筆者はこれまでに何度も見たことがあります。


註3 1839年にロンドンで創刊され、1912年まで存続した豪華美術誌「ジ・アート・ジャーナル」("The Art Journal"は、数多くの優れた版画が発表される場となりました。当店が扱う版画にも「ジ・アート・ジャーナル」から採られた作品が多くあります。この雑誌を例にとると、創刊号の発行部数は七百五十部でした。創刊以降の各号の部数は未詳ですが、多い号でもおそらく千部ぐらいで、廃刊が近づくにつれて部数は減少したであろうと思われます。

 数百枚から千枚という印刷枚数は、現代の版画より多いと思われるかもしれません。しかしながらこれは百数十年前に発行されたときの枚数であって、現在までにほとんどが失われています。仮に八割から九割が失われているとして、残った版画の半数が美術館に納められていれば、美術市場に出る数は数十枚ですが、そのほとんどはすでに購入された後で、現在ではもう手に入りません。


註4 以上の論考では、いくつかの場面において版画と大量印刷物を対比しました。しかしながら産業的な方法による大量印刷物であっても、美しく、かつ現存する部数が少ない場合や、歴史的な意義がある場合には、アンティーク品として評価されます。版画とは呼べない大量印刷物であっても、あらゆる点で価値が無いわけではないことを、念のために申し添えます。






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