フェリア・アンデガウェンシス ― メーヌ・エ・ロワールにおける聖母崇敬と地母神信仰
FERIA ANDEGAVENSIS, la fête angevine




(上) 稀少品 ル・マリレ(le Marillais)の聖母 《ノートル=ダム・アンジュヴィーヌ》 聖母生誕を祝う「アンジェの祝日」の小聖画 120 x 70 mm フランス、メーヌ・エ・ロワール 1932年 当店の商品です。


 アンジェ(Angers)はフランス北西部、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ・エ・ロワール県の中心都市です。アンジェとメーヌ・エ・ロワール県に幾つかの周辺地域を加えた地域の歴史的名称を、アンジュー地方(Anjou)と言います。アンジューは総主教十字の一種であるアンジュー十字でも知られていますが、何よりもまず聖母への崇敬に関して大きな文化的貢献をした地方です。

 本稿ではガロ・ロマン期のアンジューにおける聖母出現の伝承、及びシャルトルのノートル=ダム・ド・ス=テールの伝承に基づき、ケルトの地母神信仰と聖母崇敬の関連性、及びフェリア・アンデガウェンシスの起源について考察します。


【フェリア・アンデガウェンシス ― ガリアにおける最初期の聖母崇敬】

 アンジェの歴史家ルネ・ショパン(René Choppin)によると、五世紀のアンジェ司教聖マウリリウス(聖モリール St. Maurilius / Maurile / Maurille d'Angers, 363 - 453)は、九月八日の聖母生誕を司教区を挙げて祝うべきことを、429年頃に定めました(註1)。伝承によると、幼子イエスを腕に抱いた聖母が聖マウリリウスに出現してこの日付を伝え、これを祝うように求めたのでした。

 429年はエフェソス公会議(431年)と同時期です。エフェソス公会議では聖母マリアに「テオトコス」(希 Θεοτόκος 神の母)の称号が認められましたが、聖母生誕の記念日に関する議論は行われていません。東方教会では東ローマ皇帝マウリキウス(Flavius Mauricius Tiberius Mauricius, 539 - 582 - 602)による布告を承け、聖母生誕の記念日がシュナクサリオン(Συναξάριον, Synaxarium 聖人伝集)に初出します。皇帝マウリキウスが在位したのは、582年から 602年です。西方教会において聖母生誕の記念日が初めて明確に言及されるのは、アンジェの伝承を除けば、教皇セルギウス一世(Sergius I, c. 650 - 687 - 701)のときです。セルギウス一世の在位は、687年から 701年です。

 これに対して少なくとも伝承による限り、アンジェでは早くも 430年頃に、「フェリア・アンデガウェンシス」(羅 Feria Andegavensis アンジェの祭日、またはアンジューの祝日)として、九月八日の聖母生誕が祝われていました。これはアンジェにおける聖母崇敬が他のどこよりも先進的であったことを意味するとともに、聖母生誕の祝日がアンジェからコンスタンティノープルへ、次いでコンスタンティノープルからローマへと伝播した可能性を示唆します。


【シャルトルの聖母に見る地母神とマリアの習合】

 キリスト教以前のガリアに住んだケルト民族(ガリア人)は、「ウィルゴー・パリトゥーラ」(羅 VIRGO PARITURA 子を産む処女)である地母神を信仰していました。


 二代目のノートル=ダム・ド・ス=テール


 シャルトル司教座聖堂のクリプトには聖母子像「ノートル=ダム・ド・ス=テール」(仏 Notre-Dame de Sous-Terre 地下の聖母)が安置されています。最初の「ノートル=ダム・ド・ス=テール」は十一世紀に制作された上智の座の聖母で、ロマネスク様式による梨材の像でした。この像はフランス革命のときに焼却されてしまい、現在は見ることができませんが、台座に「ウィルギニー・パリトゥーラエ」(羅 VIRGINI PARITURAE)の文字が彫られていました。「ウィルギニー・パリトゥーラエ」は「ウィルゴー・パリトゥーラ」の与格で、「子を産む処女に」という意味です。シャルトル聖パウロ修道女会 (Sœurs de St. Paul de Chartres, Congregatio Sororum Carnutensium a S. Paulo, S.C.S.) が 1857年に寄進した二代目のノートル=ダム・ド・ス=テールにも、二十世紀になって作り直された現行の像にも、台座にはこれと同じ言葉が刻まれています。

 十四世紀の奇跡譚は、シャルトルのノートル=ダム・ド・ス=テールがその起源を異教時代に遡ると主張しています。すなわち「異教時代のシャルトルにおいて、預言者が領主に『処女が救い主を産むであろう』と語り、領主はウィルゴー・パリトゥーラ(子を産む処女)像を立てて崇敬した。これがシャルトル司教座聖堂ノートル=ダムの起源である。すなわちシャルトルこそが聖母の嘉(よみ)し給う地であり、キリスト教の到来以前から聖母に捧げられている」というのです。

 中世の奇跡譚は大抵が荒唐無稽な作り話であり、この説話の主張も鵜呑みにすることはできません。しかしながらガリアの地母神が「子を産む処女」であったのは事実であり、シャルトルの地下に安置された「ウィルゴー・パリトゥーラ」像は地母神信仰との強い関連性を示唆します。パリ大学総長を務めた神学者ジャン・ド・ジェルソン (Jean Charlier de Gerson, 1363 - 1429) は、シャルトル司教座聖堂が建つ場所が、もともとは「子を産む処女」に捧げられたケルト宗教の聖地であったと指摘しています。ガリア人のキリスト教への改宗は、ドルイドをはじめとする指導者層から始まりました。異教の祭司であるドルイドが率先してキリスト教を受容するのは奇妙に思えますが、これはウィルゴー・パリトゥーラのケルト的信仰が、キリスト教受容の素地となったためと考えられます。




(上) ル・ピュイ=ノートル=ダムの聖母 1920/30年代のメダイ 直径 18.8ミリメートル ノートル=ダム・アンジュヴィーヌ(仏 Notre-Dame angevine アンジューの聖母)の例。当店の商品です。


 ヴィルゴー・パリトゥーラは全ケルトの信仰であり、地母神の聖地はシャルトルやアンジェに限られません。それゆえフェリア・アンデガウェンシスの起源を説明するには、聖母生誕の祝日がガリアの他の場所ではなくアンジューで祝われ始めた理由を解明する必要があります。しかしながら古い時代の資料はほとんどが失われており、フェリア・アンデガウェンシスの起源の解明は簡単な事ではありません。

 フェリア・アンデガウェンシスの日付、すなわち聖母生誕の祝日はなぜ九月八日なのかという疑問に関しては、占星術に答えを求める説があります。すなわち南中時の太陽は、見かけ上、「黄道」に沿って日々少しずつ移動し、一年かけて天球を一周します。南中時の太陽は、8月24日から9月23日まで、おとめ座に位置しています。おとめ座の「おとめ」(VIRGO)とは地母神デーメーテール Δημήτηρ(ケレース CERES)のことであり、聖母マリアのことではありません。しかしながら地母神とマリアが習合した場合、両者の間には当然のことながら同一性が生まれます。それゆえフェリア・アンデガウェンシスが九月八日である理由を占星術に求める説に、筆者(広川)は一定の説得力を感じます。


 「なぜアンジューにおいて聖母誕生の祝日が祝われ始めたのか」、「聖母生誕の祝日はなぜ九月八日なのか」という興味深い問題が、将来の発掘や新資料の発見によって少しずつ解明に近づくことが期待されます。



註1 Renati Choppini De sacra politia forensi, libri III, Apud N. Chesneau

註2 ギリシア語「テオトコス」(θεοτόκος)は、名詞「テオス」(θεός 神)の語幹(θεο-)に動詞「ティクトー」(τίκτω 生む)の分詞を繋げた語で、直訳すると「神を生んだ人」という意味です。日本語では「神の母」と訳されています。



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