ルイ・ショーヴェ神父とシャルトル聖パウロ修道女会
P. Louis Chauvet et les Sœurs de St. Paul de Chartres, Congregatio Sororum Carnutensium a S. Paulo, S.C.S.




(上) 「誰かが弱っているなら、わたしも弱らないでいられるでしょうか」 シャルトル聖パウロ修道女会のカニヴェ (ブアス=ルベル 672) 105 x 67 mm フランス、1850 - 60年代 当店の商品


 パリの南西約80キロメートル、シャルトルの近郊に、ルヴェヴィール=ラ=シュナール(Levesville-la-Chenard サントル地域圏ウール=エ=ロワール県)という小さな村があります。この村の主任司祭であったルイ・ショーヴェ神父 (P. Louis Chauvet, 1664 - 1710) が 1696年に組織した「フィーユ・ド・レコール」(Filles de l'Ecole) が元になり、1708年、「シャルトル聖パウロ修道女会」 (la congrégation des Sœurs de St. Paul de Chartres, Congregatio Sororum Carnutensium a S. Paulo, S.C.S) が設立されました。


【17世紀のフランスにおける民衆の困窮と、初等教育実現への動き】

 ショーヴェ神父が生きた17世紀は、フランスが絶対君主ルイ14世を戴く中央集権国家への道のりを歩んだ時代でした。三十年戦争(1618 - 48年)、及び三十年戦争終結後も続いた対スペイン戦争の戦費を調達するために、ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) の摂政である母后アンヌ・ドートリシュ (Anne d'Autriche, 1601 - 1666) と宰相マザラン (Jules Mazarin, 1602 - 1661) は貴族と民衆に重税を課し、そのために「フロンドの乱」(la Fronde, 1648 - 1653) と呼ばれる内乱が起こって、フランスは荒廃しました。

 民衆のなかに身を置いた聖職者たちの中には、民衆の窮乏に心を動かされ、また民衆の無知に初等教育の必要性を痛感して行動を起こす人々が多く現れました。「聖なる幼子イエズス姉妹会」(la Congrégation des Sœurs du Saint Enfant-Jésus) の福者ニコラ・ロラン (Bx. Nicolas Roland, 1642 - 1678) や、「ラ・サール会」(l'institut des Frères des Écoles chrétiennes) の聖ジャン=バティスト・ド・ラ・サール (St. Jean-Baptiste de La Salle, 1651 - 1719) は良く知られています。ルイ・ショーヴェ師も、そのような神父たちのひとりです。


【ルイ・ショーヴェ神父の生涯】

 ルイ・ショーヴェ師は、1664年2月16日、エク=サン=プロヴァンスに近いフランス南東部の町ペルテュイ(Pertuis プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ヴォクリューズ県)に、九人きょうだいの第七子として生まれました。父ノエ (Noë Chauvet) は二軒の家と地所、葡萄畑を所有する裕福な紡績業者で、町の評議員、施療院院長、聖オノラ信心会会員でもあり、聖アントワーヌ及び聖ブレーズ信心会でも要職を占めていました。

 若きルイ・ショーヴェは、1685年、司祭になるために故郷を離れ、1688年3月13日、アヴィニョンで叙階されました。1690年からパリの北西30キロメートル足らずに位置する町セルジ(Cergy イール・ド・フランス地域圏ヴァル=ドワーズ県)の主任司祭、次いでシャルトルの西約30キロメートルに位置する村シャンプロン=ダン=ガティヌ(Champrond-en-Gâtine サントル地域圏ウール=エ=ロワール県)の主任司祭を務めました。

 1694年6月にルヴェヴィール=ラ=シュナールの主任司祭となったショーヴェ師は、村民の物質的窮乏と恐るべき無知に直面し、村民の生活を物心両面で人間らしい水準に引き上げることを決意します。ショーヴェ師はこれまで教育の機会を与えられなかった村民の娘たちのための学校を計画し、ティリ=シュル=ソル(Tilly-sur-Seulles バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)の領主の家柄である女性マリ=アンヌ・ド・ティリ (Marie-Anne de Tilly, 1665 - 1703) を長として、いくつかの小規模な修道会から教師役を務める数名の若い女性たち、「フィーユ・ド・レコール」(Filles de l'Ecole) を集めました。この女性たちは裁縫や刺繍の仕事をしつつ、子供たちの教育と、病者の看護、老人の介護に取り組みました。また神学博士であったショーヴェ師自身も男子生徒を教えました。男子生徒のうちの三名はショーヴェ師の甥で、ペルテュイからルヴェヴィール=ラ=シュナールに移ってショーヴェ師の授業を受けました。この三名も後に司祭になりました。

 「フィーユ・ド・レコール」の活動はわずかな人数で始まりましたが、1708年頃にはルヴェヴィール=ラ=シュナール以外の村にも活動の場が広がりつつありました。この年、シャルトル司教ポール・ゴデ・デ・マレ師 (Mgr. Paul Godet des Marais, 1647 - 1690 - 1709) は、ショーヴェ師の「フィーユ・ド・レコール」のためにシャルトル近郊のサン=モーリス (Saint-Maurice) 教区に建物を用意し、活動の本拠をルヴェヴィール=ラ=シュナールからサン=モーリスに移すよう求めました。司教は使徒パウロを会の守護聖人として、「シャルトル聖パウロ修道女会」という名称を定めました。(註1)

 ルイ・ショーヴェ師は、1710年6月21日、46歳の若さで亡くなり、ルヴェヴィール=ラ=シュナールの教会墓地に埋葬されました。師が亡くなった時点で、「シャルトル聖パウロ修道女会」の会員数はおよそ二十名でした。


【「シャルトル聖パウロ修道女会」の女子孤児院と救貧院】

 ルイ・ショーヴェ師は慈善に対する篤い志を生涯の終わりまで持ち続けていました。「シャルトル聖パウロ修道女会」は創設者の志に応え、サン=モーリスにおいて二歳から十八歳までの女児の孤児院を運営しました。孤児院では生活力を得させる教育に力を注ぎ、麻や羊毛の紡ぎ方、裁縫、編み物、料理を教えました。

 修道女会が運営する孤児院及び救貧院はシャルトル以外の数多くの教区へと広がってゆき、サン=モーリスに移ってわずか 19年後の 1727年にはサントル一帯に十五の支部を有するとともに、仏領ギアナにも支部を設けました。フランス国内においても修道会の活動範囲は広がり、1734年にはストラスブールに支部ができています。


(下) インドシナ(ヴェトナム)にて救癩(きゅうらい)活動に取り組む「シャルトル聖パウロ修道女会」のスールたち。パリ外国宣教会発行の石版画。




 「シャルトル聖パウロ修道女会」は革命期の 1791年まで、サン=モーリス教区を本拠地として活動し、革命の嵐が過ぎ去った後には一層の発展を遂げました。「シャルトル聖パウロ修道女会」は、現在では約四千名の会員を数え、わが国を含む三十五か国に活動の場を広げています。わが国では十二か所に修道院を有し、学校法人「白百合学園」を運営しています。


註1 「シャルトル聖パウロ修道女会」の会員は「スール・サボット」(sœurs sabotes 木靴のスールたち、木靴の修道女たち)、「フィーユ・サボチエール」(filles sabotières 木靴の娘たち)、「フィーユ・ド・サン=モーリス」(filles de Saint Maurice サン=モーリスの娘たち)、「スール・グリーズ」(sœurs grises 灰色のスールたち)とも呼ばれました。最後の愛称は会の修道衣が灰色であることによります。



関連商品

 「誰かが弱っているなら、わたしも弱らないでいられるでしょうか」 シャルトル聖パウロ修道女会のカニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号 672) "Sœur de St. Paul de Chartres", Bouasse-Lebel, No. 672, 105 x 67 mm




修道会と信心会 インデックスに戻る

キリスト教に関するレファレンス インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する

キリスト教関連品 その他の商品 一覧表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する




Ἀναστασία ἡ Οὐτοπία τῶν αἰλούρων ANASTASIA KOBENSIS, ANTIQUARUM RERUM LOCUS NON INVENIENDUS