アンジェの聖マウリリウス
St. Maurilius / Maurile / Maurille d'Angers, 363 - 453
(上) 前任のアンジェ司教から出迎えを受ける聖マウリリウス アンジェ司教座聖堂サン=モーリスのフレスコ画(部分)
アンジェ(Angers)はフランス北西部、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ・エ・ロワール県の中心都市です。アンジェの聖マウリリウス(聖モリール)は四世紀前半から半ばにかけてここで司教を務めたた実在の人物です。
古代及び中世初期の聖人の常として、巷間に流布する聖マウリリウス伝は史実と伝説が相半ばしています。聖マウリリウスが司教であったときから時代があまり下らず、歴史的事実を最も忠実に伝えると思われるのは、七世紀前半から半ばにかけてアンジェ司教であった聖マグノボドゥス(聖マンブフ)が残した聖マウリリウス伝です。
本稿では同書に基づいて聖マウリリウスの生涯を略述するとともに、中世の聖人伝を特徴づける数々の奇跡譚にも言及します。また「フェリア・アンデガウェンシス」の起源説話である聖母の出現と、聖母出現の地に建てられているノートル=ダム・デュ・マリレ聖堂についても解説します。
【聖マグノボドゥスが伝える聖マウリリウスの生涯】
アンジェの聖マウリリウス(聖モリール St. Maurilius / Maurile / Maurille d'Angers, 363 -
453)はミラノに生まれ、423年から 453年までアンジェ司教を務めました。聖マウリリウスの生涯は、610年から 660年までアンジェ司教であった聖マグノボドゥス(聖マンブフ Magnobodus
/ Mainbeuf / Maimbœf d'Angers)が 619年ないし 620年頃に著した「聖マウリリウス伝」(
"Vita Maurilio")に述べられています(註1)。聖マグノボドゥスの「聖マウリリウス伝」に基づいて、聖人の生涯を略述します。
聖マウリリウスはミラノに生まれました。ミラノには
聖マルタンが創設した修道院があって、マウリリウスはごく幼い時にこの修道院に入り、聖マルタンの弟子となりました。ミラノの修道院は、イリュリアのアリウス派を逃れた聖マルタンが、当地の若者たちのために作ったものでした(註2)。しかしながらアリウス派は聖マルタンをミラノからも追放し、聖マルタンは止むを得ずトゥールに移りました。師と別れてミラノに残った若者マウリリウスは、聖アンブロシウスの下でレークトル(羅
LECTOR 読師 下級聖品第二級の聖職者)になりました。
二十歳の頃、マウリリウスはミラノの家族を離れ、師である聖マルタンが司教を務めるトゥールに赴きました。マルタンはマウリリウスを司祭に叙し、アンジェに遣わしました。アンジェの南西近郊シャロンヌ=シュル=ロワール(Chalonnes-sur-Loire)には異教の祭祀が行われる神殿がありました。神がこの神殿を破壊し給うことを願ってマウリリウスが祈ったところ、神殿は落雷によって全焼しました。マウリリウスは神殿の跡地に教会堂を建て、十二年をこの教会で過ごしました(註3)。
423年にアンジェ司教が没すると、当地の人々はマウリリウスが新司教になることを望みました。アンジェに来たマウリリウスが教会堂に入ると、
鳩が頭上に降り立ったと伝えられます。マウリリウスはトゥール司教聖マルタンにより、アンジェ司教に叙せられました。マウリリウスは三十年間当地の司教を務め、453年に亡くなると、自らが創建した教会堂に葬られました(註4)。
【聖マウリリウスに出現した聖母】
アンジェから西に四十キロメートルほど離れたロワール川の左岸にモン・グロン(Mont Glonne)と呼ばれる小高い丘があり、隠者聖フロラン(Florent
d'Anjou 註5)が庵を構えていました。
ある日聖マウリリウスが聖フロランを訪ねるためにアンジェを発ち、エーヴル川(l'Èvre)を越えて湿地の多い森に入ると、幼子を腕に抱いた白い衣の女性がポプラの木の上に現れました。女性は自らの誕生の日である九月八日を毎年祝うように、聖マウリリウスに求めました。アンジェ司教であった聖マウリリウスは、女性の求めに従い、九月八日を聖母生誕の祝日としました。こうして祝い始められた祝日は
「フェリア・アンデガウェンシス」(羅 FERIA ANDEGAVENSIS アンジェの祝日、またはアンジューの祝日)と呼ばれ、やがてキリスト教世界全体に広まりました。
(上) ノートル=ダム・デュ・マリレ(Notre-Dame du Marillais) フランスの古い絵はがき
聖マウリリウスに対して聖母が出現した場所には礼拝堂が建てられ、現在の
ノートル=ダム・デュ・マリレ聖堂(Notre-Dame du Marillais)へと発展しました。上の写真の下部中央と下部右に写っているのがノートル=ダム・デュ・マリレ聖堂の外観、下部左が聖堂内部です。上部左の彫刻は同聖堂の脇祭壇にあるもので、聖マウリリウスに対する聖母出現の場面を彫っています。
上部右の愛らしい人形は乳児マリアの像ですが、この写真に写っているのはミラノの「幼きマリア姉妹会」本部礼拝堂主祭壇に安置されている幼きマリア「サンティッシマ・バンビーナ」(Santissima
Bambina)で、下の小聖画に写っているのと同じものです。ミラノは聖マウリリウスの出身地であることが思い起こされます。
(下)
コロタイプによる小聖画「いとも聖なる幼女マリア」 Maria Santissima Bambina, Miracolosa Effigie che si
venera nellla Casa Madre delle Suore di Carità (Soure di Maria Bambina)
in Milano
下の写真はノートル=ダム・デュ・マリレ聖堂の「いとも聖なる幼女マリア」像で、同聖堂右脇祭壇に安置されています。「いとも聖なる幼女マリア」像はフランスでは極めて珍しいものです。この像の台座にはイタリア語で「マリア・サンティッシマ・バンビーナ」(伊
Maria Santissima Bambina いとも聖なる幼女マリア)と記されており、イタリアで制作されたことをうかがわせます。
【聖マウリリウスにまつわる諸々の奇跡】
聖母の出現を受けたこと以外にも、聖マウリリウスにまつわる次のような奇跡が伝えられています。
■ 生前に起こした奇跡
・アンジェ南西郊ラ・ポソニエール(la Possonnière)に、両手が麻痺した人がいました。聖マウリリウスが徹夜で祈ると、この人の両手は回復しました。
・悪魔に憑かれて盲目になった女性がいましたが、悪魔は聖マウリリウスに睨まれただけで女性から出てゆきました。聖人が女性の目の上で十字を切ると、女性は視力を回復しました。
・アンジェに住むある女性が子供の無いまま高齢になっていましたが、聖マウリリウスが祈ると子供が授かりました。
・シャロンヌ=シュル=ロワール近郊に異教の神殿があって、「プリスキアクス」(Prisciacus 註6)と呼ばれていました。聖マウリリウスは抗弁する悪魔どもを追い払い、偶像を積み上げて火を放ちました。聖人は神殿の跡地にサン=ピエール修道院を建てました。
・聖マウリリウスはある日、奴隷商人に引き立てられてスペインに向かう人々に出会いました。そのうちのひとりが列を離れ、聖人の足下に伏して解放を願いました。聖人は人々を解放させようとして商人の説得を試みましたが、商人は同意しません。そこで聖人が祈ると、商人は突然高熱を発してその場で亡くなりました。これを見た捕らわれ人たちは、商人が死んだせいで自分たちが罰せられることを恐れて、商人のために祈るように聖人に願いました。聖マウリリウスが身を投げ出して神に祈ると、奴隷商人は生き返りました。生き返った商人は人々を解放し、聖マウリリウスに多額の喜捨をしました。
■ 死後に起こした奇跡
ネフィングス(Nefingus / Néfingue)は 948年ないし954年頃から 973年に亡くなるまでアンジェ司教を務めた人物です。この人が司教であった時代に聖マウリリウスの
聖遺物(遺体)が新しい棺に移されましたが、その際にも数件の奇跡が報告されています。このとき起こった奇跡については、
ボランディスト協会の資料(
"Analecta Bollandiana", vol. 18, 1899)に記録があります。
註1 これよりも後の時代にも、幾つかの「聖マウリリウス伝」が成立しています。そのうちで特によく知られているのが、アルカナルドゥス(Archanaldus)なる人物が
905年頃に書いた「聖マウリリウス伝」です。アルカナルドゥスは自身が創作した「聖マウリリウス伝」を、ラテン詩人フォルトゥナートゥス(Venantius
Honorius Clementianus Fortunatus, c. 530 - 609)が著し、トゥールのグレゴリウス(
Georgius Florentius Gregorius, 538/539 - 594)が校訂したものと称して流布させました。
アルカナルドゥスの「聖マウリリウス伝」が史実に基づかない創作と判明したのは、1649年のことでした。この聖人伝は七百数十年に亙りフォルトゥナートゥスの真作と看做されて権威を保っていたため、聖マウリリウスの図像学的特徴は多くを同書に拠っています。聖マウリリウスが墓から復活させたと言われる七歳の子供、聖ルネ(Saint
René d'Angers)も、アルカナルドゥスの創作です。下の写真はヴァンサン・ド・ボーヴェ(Vincent de Beauvais, 1184-1194
- 1264)による「スペクルム・ヒストリアーレ」(羅 Speculum historiale 歴史の鏡)の写本挿絵で、十五世紀の作品です。聖マウリリウスが聖ルネを復活させる様子が前景に描かれています。
フランス語の男性名ルネ(René)、ラテン語の男性名レナートゥス(RENATUS)は、それぞれ動詞ルネートル(renaître)、レナースコル(RENASCOR)の完了分詞で、「再び生まれた人」「生まれ変わった人」という意味です。ルネはフランス語圏において特段珍しい人名ではありませんが、聖マウリリウスが復活させた子供の名前としては、説話に特徴的な作為が認められます。
註2
聖マルタンはパンノニアのサバリア(Sabaria)、現代の地名でいえばハンガリー西端のソンバトヘイ(Szombathely)に生まれ、若者時代にはローマ軍人としてアレマニア(現在のドイツ)とガリア(現在のフランス)に駐屯しました。軍を辞してトゥールに行き、ポワチエの聖イレールの弟子になった後、聖マルタンは宣教のためにイリュリア(アドリア海東岸、現在のクロアチア、セルビア、ボスミア=ヘルツェゴビナなど)に赴きます。しかしながら当時イリュリアではアリウス派が優勢で、聖マルタンは捕らえられ、鞭打たれて追放されました。マルタンはイリュリアからミラノに移り、当地の若者のために修道院を作ります。幼いマウリリウスが入ったのは、この修道院です。
註3 教会の周囲には人が集まって住むようになり、これが町に発展して、後のシャロンヌ=シュル=ロワール(Chalonnes-sur-Loire ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ・エ・ロワール県)になりました。
註4 この教会堂はマウリリウスが創建し、聖母に捧げた聖堂です。したがってもともとはノートル=ダム聖堂と呼ばれていましたが、聖マウリリウスの墓所となって間もない時代に、サン=モリール参事会聖堂(le
Collégiale Saint-Maurille d'Angers)と呼ばれるようになりました。
(上) フランス革命前のサン=モリール参事会聖堂 L'Eglise Collégiale de Saint Maurille. Elévation
nord, par J. Ballain, 1716. Bibliothèque Municipale, Angers
フランス革命期の 1791年に、サン=モリール参事会聖堂は近隣にあったふたつの参事会聖堂、すなわち聖マンブフ参事会聖堂(Saint-Mainboeuf)、聖ピエール参事会聖堂(Saint-Pierre)とともに、いずれも国家に接収された後、取り壊されました。三つの参事会聖堂が建っていた跡地は、広場(place
du Ralliement)と道路(la rue Saint-Maurille)になりました。
註5 フロラン・ダンジュー(仏 St. Florent d'Anjou アンジューの聖フロラン)は、フロリアン・フォン・ロルヒ(独 Hl. Florian
von Lorch ロルヒの聖フロリアン)の兄弟と伝えられます。後者は消防士の守護聖人としてよく知られています。
註6 「プリスキアクス」(Prisciacus)とは氏族名「プリスキウス」(Priscius)に接尾辞「アクス」(-acus)を付した人名あるいは地名です。十世紀の文書においてフランス中部の町プリジ(Prizy ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)が、1024年の文書においてプレシ=ス=ティル(Précy-sous-Thil ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏コート=ドール県)が、いずれもこのラテン語名で記録されています。
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