ヌルシアの聖ベネディクトゥス
St. BENEDICTUS NURSIENSIS




(上) ヌルシアの聖ベネディクトゥス ハンス・メムリンクによる 1487年の作品(部分) 図像において、聖ベネディクトゥスはベネディクト会の黒い修道衣を着、しばしば聖書と修道院長の杖または十字架を持った姿で表される。


 ヌルシアの聖ベネディクトゥス(St. Benedictus Nursiensis / de Nursia, c. 480 - 547)は 1220年に列聖されたイタリアの聖人です。529年頃までにスビヤコ周辺の十二箇所に男子修道院を創設し、後にモンテカッシーノに移りました。この聖人が定めた聖ベネディクト戒律は西ヨーロッパにおける修道制の基礎であり、ひいては西ヨーロッパのキリスト教文明の基礎ともなりました。

 ヌルシアの聖ベネディクトゥスはヨーロッパの守護聖人であり、農夫、建築家、機械の操作手、騎士、難民、洞窟探検家の守護聖人でもあります。1970年以前は 3月21日が祝日でしたが、これは聖人が亡くなった日に当たります。現在の祝日は 7月11日で、聖人の遺体がベネディクト会フルリ修道院(l'abbaye de Fleury 註1)に移葬された日を記念しています。


【聖ベネディクトゥス伝】

 ヌルシアの聖ベネディクトゥスの生涯を聖人伝に沿って記述すると、おおよそ次のようになります。、


・幼少期からローマ時代



(上) 少年ベネディクトゥス 逸名彫刻家による優れた作例 当店の商品です。


 ヌルシアの聖ベネディクトゥスは 480年頃、イタリア中部アペニン山中の小さな町ヌルシア(Nursia ウンブリア州ペルージャ県 註2)で、高貴な身分の家に生まれました。子供に与えられたベネディクトゥス(羅 BENEDICTUS)という名は、ラテン語で「祝福された子」という意味です。ベネディクトゥスにはスコラスティカ(SCHOLASTICA 註3)という名の妹がいました。

 ベネディクトゥスは子供時代を両親と共にヌルシアで過ごしました。当時、良家の子弟の教育は奴隷身分の家庭教師に任されていて、ベネディクトゥスの場合も奴隷から充分な初期教育を受けたと考えられます。思春期になるとベネディクトゥスは両親の元を離れ、古典文学と法学をはじめとする自由学芸七科を学ぶため、養育係の女性と共に、495年頃ローマに赴きました。伝承によると、このときベネディクトゥスと養育係はアヴェンティーノ丘(羅 MONS AVENTINUS)に居を定めました。同所には後に聖ベネディクトゥス教会が建てられています。

 495年当時のローマは東ゴートのテオドリック大王(Theodoric, 454 - 526 註4)が支配しており、およそ四十五万人の人口を擁していました。大王の下でローマは平和と繁栄を取り戻しましたが、その一方で道徳的退廃も進んでいました。ローマの雰囲気に感化されることを恐れた若きベネディクトゥスは、立身出世の道を捨てて宗教を選び、養育係と共にローマを脱出しました。




(上) Il Sodoma, Come benedetto risalda lo capistero ch'era rotto, c. 1502, affresco, l'Abbazia di Monte Oliveto Maggiore, Chiusdino (Asciano) 註5


 二人はローマの東八十三キロメートルにあるアッフィーレ(Affile ラツィオ州ローマ県)の教会に辿り着きました。ここで養育係の女性が近所から借りた器(capistèro/capisteo 木でできた長方形の器で、穀物や野菜、ときには洗濯物を運ぶのに使う)を誤って割ってしまいましたが、ベネディクトゥスが祈るとひとりでに直り、割れた形跡は見当たらなかったと伝えられます。この奇跡によってベネディクトゥスは有名になったので、さらに逃れる場所を求め、ローマの東七十キロメートルにあるスビヤコ(Subiaco ラツィオ州ローマ県)付近に移り、隠修の生活を始めました。


・スビヤコでの隠修時代



(上) 人々に福音を説く聖ベネディクトゥス affresco, l'Abbazia di Monte Oliveto Maggiore, Chiusdino (Asciano)


 ローマで出会った美女を思い出したベネディクトゥスは、彼女のことばかりを考えるようになりました。俗世に戻る誘惑に駆られたベネディクトゥスは、裸になって茨とイラクサの茂みを転げ、誘惑に耐えました。ベネディクトゥスはスビヤコで知り合ったロマーノ修道士に、いっそう近づき難い場所について尋ね、断崖の下に洞窟があることを教わって移り住みました(註6)。ロマーノ修道士は断崖を定期的に訪れて縄に結んだ籠を下ろし、食料や信仰の書物を差し入れました。さらにロマーノ修道士はベネディクトゥスを下級聖職者とし、修道服を与えています。

 しかしながらおよそ三年が経った頃、ロマーノ修道士はおそらく死去したせいで、ベネディクトゥスのもとを訪れることができなくなりました。この年の復活祭頃、村の司祭が夢のお告げでベネディクトゥスに食物を持って行くように命じられ、周囲の人々にもその出来事を話しました。こうしてベネディクトゥスは人に知られるようになり、洞窟がある崖を人々が訪れるようになりました。間もなくロマーノが属していた修道院の院長が亡くなったので、修道士たちは新院長になってくれるよう、ベネディクトゥスに頼みました。ベネディクトゥスは最初断りましたが、やがて説得されて洞窟を出、ヴィコヴァーロ(Vicovaro ラツィオ州ローマ県 註7)の修道院に移りました。


・修道院長ベネディクトゥス

 ヴィコヴァーロの修道院は聖パコミオスの会則(註8)に基づいて設立されていましたが、ベネディクトゥスが院長となった 510年頃には規律の緩みが目につくようになっており、ベネディクトゥスは院長の権威によって規律を回復させようとしました。反発する修道士たちは院長の葡萄酒に毒を入れて殺害を試みましたが、院長が食前の祈りを唱えて十字を切ると、葡萄酒の器がひとりでに割れました。ベネディクトゥスは修道院を去り、再び孤独な隠修士となりました。


・十二の修道院をスビヤコに設立する



(上) El Greco, San Benito, 1577 - 1579, Óleo sobre lienzo, 116 x 81 cm, Sala 008B, Museo del Prado


 洞窟で隠修士として暮らすベネディクトゥスを、神に仕えたいと望む大勢の弟子たちが訪れました。そこでベネディクトゥスはスビヤコの湖畔(註9)に共住修道院を設立し、弟子たちと共に修道生活を営みました。ベネディクトゥスはスビヤコ周辺に十二の修道院を設立し、各修道院にひとりの院長と十二人の修道士を配置しました。ベネディクトゥス自身は十三番目の修道院に住んで、新人修道士の教育に勤しみました。ベネディクトゥスが自ら教育した新人には、聖マウルス(註10)や聖プラキドゥス(Placidus 註11)が含まれます。

 ベネディクトゥスの名声が高まるにつれ、それを嫉む者も現れました。フロレンティウスという司祭はベネディクトゥスを中傷し、教区民がベネディクトゥスに会いに行くことを禁じました。さらに毒入りのパンを修道院に贈り、ベネディクトゥスと弟子たちに食べさせようとしました。しかしながらベネディクトゥスはフロレンティウスの悪意を感じ取ってパンをカラスに投げ、カラスはパンを遠くに運び去りました(註12)。さらにフロレンティウスはベネディクトゥスの葡萄酒に蛇の毒を居れましたが、ベネディクトゥスが祈りを捧げると器がひとりでに割れ、毒入りの葡萄酒はすべて流れてしまいました。これらの試みが失敗すると、フロレンティウスは異教徒の娘を裸にし、修道院の前で踊らせて、若い修道僧を堕落させようと試みました。

 このような出来事が続いたので、ベネディクトゥスは修道院をマウルスに任せ、スビヤコを去る決心を固めました。スビヤコを去る日、フロレンティウスが崩れた家の下敷きになって亡くなったとの知らせが届き、ベネディクトゥスは敵のために涙を流しました。ベネディクトゥスの敵はこうしていなくなりましたが、スビヤコを去る決心は変わらず、ベネディクトゥスはモンテカッシーノに移り住みました。これは 529年頃のことと考えられます。


・モンテカッシーノ修道院の建設

 モンテカッシーノ(Montecassino カッシーノ山)は荒涼とした山で、軍の砦が築かれていました。近くの森にはマルティヌスという隠修士がいて、俗世の誘惑に抗うために、自らの体を鎖で木に繋いでいました。ベネディクトゥスはマルティヌスの許を訪れ、俗世への恐れゆえでなく、むしろ神への愛ゆえに生きることを勧め、マルティヌスは鎖を解いてベネディクトゥスの弟子になりました。

 モンテカッシーノは僻陬の地であるゆえ未だキリスト教化が進まず、数か所の森はローマの神々の聖所となっていました。そのためベネディクトゥスと修道士たちは、周辺地域への宣教にも力を入れました。修道院を建てる際、壁の崩落が何度も起こりました。聖人伝はこれを悪魔すなわち異教の神々のしわざとし、その場で見つかったユピテル像とアポロン像が破壊された後、工事は無事進捗したと語っています。神々の聖所に使われていた石は、トゥールの聖マルタンに捧げた礼拝堂や、洗礼者ヨハネに捧げた祈祷室を造るために転用されました。


・テッラチーナ修道院の建設



(上) Fra Angelico, Crocifissione con i santi  (dettaglio), 1442 circa, sala capitolare, Convento di San Marco, Firenze


 テッラチーナ(Terracina ラツィオ州ラティーナ県)はラティオ州南端に近い海辺の町で、たいへん風光明媚なところです。信仰深い或る人がここに所領を持っていて、修道院を建てるため、修道士を派遣してくれるようベネディクトゥスに依頼しました。ベネディクトゥスは司祭とその補佐役が率いる修道士の一団をテッラチーナに派遣することに決め、彼らが出発するときに、一日遅れで自身も現地に行くことを約束しました。修道院各部の配置を考えるのに、一日の猶予が必要だったのです。

 先発隊が現地に到着した日の夜、司祭と補佐役は夢の中で、修道院建設に必要な細部に至る情報を受け取りました。次の日に到着したベネディクトゥスは、必要な情報は夢で伝えた通りだと彼らに告げました。テッラチーナ修道院はベネディクトゥスが建設に直接関与した最後の修道院となりました。


【大グレゴリウスが記録する聖ベネディクトゥスの奇蹟】



(上) 聖ベネディクトゥスと若き聖マウロ affresco, l'Abbazia di Monte Oliveto Maggiore, Chiusdino (Asciano)


 大グレゴリウス(教皇グレゴリウス一世)が著した「対話集」(羅 DIALOGI)第二巻はヌルシアのベネディクトゥス伝となっており、聖人が起こした幾つかの奇蹟が記録されています。

 同巻五章によると、山上に位置する三か所の修道院が、水不足のために移転を希望しました。これに対してベネディクトゥスは或る一か所に三個の石を置き、そこの地面を叩くように命じました。彼らが言われたとおりにすると、翌日にその場所から多量の水が湧き出るようになりました。

 同巻六章によると、修道生活を志して入会したゴート人が労働に勤しみ、湖の畔で茨を刈っていましたが、力を入れすぎたために鎌の刃が外れて湖の深い場所に落ちました。この出来事を知らされたベネディクトゥスが岸辺に行き、刃が外れた鎌の柄を湖水に浸すと、刃が湖底から浮き上がり、ひとりでに柄の先に取り付きました。

 同巻七章によると、プラキドゥスが水を汲んでいるとき湖に落ち、沖に流されました。ベネディクトゥスは自室にいながらこの光景を幻視し、プラキドゥスを救うようにマウルスに命じました。マウルスは湖面を走って救助に駆け付け、プラキドゥスを無事助けた後で、自分が水上を走ったことに気付きました。ベネディクトゥスはマウルスが院長の命令に素直に従ったゆえに奇蹟が起こったのだと言いましたが、プラキドゥスはこの奇跡をベネディクトゥスの法力に帰しました。救助されたプラキドゥスは、自ら引き上げられる際に院長のマントが頭上に見えたと証言しました。

 同巻九章から十一章によると、モンテカッシーノ修道院建設の際、一個の石が悪魔のせいで動かせないほど重くなりましたが、ベネディクトゥスが祈ると動かすことができました。また調理室に異教の神像があったせいで修道士たちが火災の幻覚を経験しましたが、ベネディクトゥスが祈ると皆は正気に返りました。悪魔のせいで壁が倒れて若い修道士が下敷きになり、死にかけましたが、ベネディクトゥスがその場に駆け付けて祈ると修道士は瞬時に癒され、再び作業を始めました。

 さらに同書によると、ベネディクトゥスには千里眼的な力や預言の力がありました。清貧の誓いを忘れて喜捨を蓄える修道士や、断食を怠る修道士がいると、ベネディクトゥスは全て見抜きました。

 東ゴート王トーティラ(Totila, 516 - 541- 552)はベネディクトゥスの名声を耳にして聖者に会ってみたいと思いましたが、修道院を訪問する当日になって、リゴーという名の盾持ち(下級貴族)に王の衣装を着せ、随臣たちを付けて、自身の代わりに修道院に遣わしました。ベネディクトゥスはリゴーを見るなり「息子よ。その場で服を脱ぎなさい。それはあなたのものではないから」と言い、リゴーは恥じ入って主君の許に帰りました。トーティラ自身がベネディクトゥスに会いに行くと、聖人は王が戦闘で犯した残虐行為を激しく非難し、王は九年後に退位し、十二年後に死ぬことを預言しました。

 ベネディクトゥスはカノッサ司教に対し、ローマがゲルマン人によって滅びることは無いが、嵐や地震で大きな被害を受けると預言しました。またモンテカッシーノ修道院に関して、修道院は全体が破壊されるが、預かった人々の命だけは助かると預言しました。この預言は 589年にランゴバルド人がモンテ・カッシーノを略奪破壊した際に実現しました。ランゴバルド人は修道院を略奪破壊しましたが、殺された修道士はいませんでした。


・ベネディクトゥスの死



(上) 聖ベネディクトゥスの聖遺物容器


 生涯最後の年、ベネディクトゥスは数人の弟子たちに自身が帰天する日を知らせ、死の六日前に墓を開かせました。発熱が起こると弟子たちに頼んで祈祷室に運んでもらい、聖体を拝領しました。ベネディクトゥスは弟子たちに助けられて直立し、両手を挙げて祈りを唱えました。その日二人の弟子が全く同じ夢を見ましたが、夢の中では一本の道がベネディクトゥスの部屋から出て、東の天に向けて真っ直ぐに伸びていました。道には絨毯が敷かれ、無数の灯に照らされていました。

 ベネディクトゥスの遺体は洗礼者ヨハネの祈祷室に葬られました。ここはアポロン神殿があった場所にあたります。



【聖ベネディクト戒律と修道院】



(上) REGULA BENEDICTI ベネディクト戒律の羊皮紙写本


 540年頃、ベネディクトゥスは修道生活の規則、すなわち聖ベネディクト戒律(羅 REGULA BENEDICTI)を定めます。聖ベネディクト戒律は速やかに広まりました。聖ベネディクト戒律はアニアヌの聖ベネディクトゥス(Benedictus Anianensis, c. 750 - 821 註13)によって釈義され、さらにアニアヌの聖ベネディクトゥスの助言により、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ一世(フランス王ルイ一世敬虔)は帝国内の全修道院に聖ベネディクト戒律を採用させました。この布告は 817年の第六回エクス=ラ=シャペル(アーヘン)教会会議でも有効とされ、十一世紀までの西ヨーロッパにおいて、全ての修道院がベネディクト会に属することになりました。

 聖ベネディクト戒律が修道者に求めるのは、次の四つです。第一に、節制。これは過度の飲食と睡眠を避けることです。第二に、厳粛さ。これは沈黙を守ることです。第三に、禁欲。これは俗世間から離れ、所有物を放棄することです。第四に、柔和さ。これは宗教的愛に基づく親切さであり、相手の身分に関わらず快く迎え入れることでもあります。

 修道生活には信仰に関する読書と手仕事が必須であり、神への奉仕に自らを捧げることが求められます。神への奉仕は聖務日課に極まります。すなわち修道生活は祈りと労働と読書を軸に、毎日同じことが規則正しく繰り返されます。オーラ・エト・ラボーラ(羅 ORA ET LABORA 祈り、働け)という有名な句は、聖ベネディクト戒律には含まれませんが、この戒律の精神をよく表しています。

 なお聖ベネディクト戒律は西ヨーロッパの全修道院に採用されましたが、戒律のどの面に重点を置くかは会によって異なります。クリュニー会は典礼に、シトー会は労働に、聖ヴァンヌ会(註14)と聖モール会(註15)は知的労働に、それぞれ重点を置きました。


 フランスのカトリック教会は革命によって壊滅しました。革命後、ベネディクト会は 1833年にソレーム会サン・ピエール修道院(L'abbaye Saint-Pierre de Solesmes 註16)で息を吹き返しました。これはドム・ゲランジェ修道士(Dom Guéranger, O.S.B., 1805 - 1875)の働きによります。

 フルリ修道院(註1)はフランス最古の修道院の一つであり、聖ベネディクトゥスと聖スコラスティカの遺体を安置することで知られます。フルリ修道院はベネディクト会ラ=ピエール=キ=ヴィール修道院(l'abbaye de la Pierre-Qui-Vire 註17)から修道士を迎え入れ、復活を果たしました。


【ベネディクト会における詩篇朗誦】

 修道生活の読書において、「詩篇」はたいへん大きな比重を有します。しかるに旧約聖書に収録されるおよそ五十巻の書物のうち、「詩篇」は百五十篇で構成され、「イザヤ書」と並んで最も大部の書物です。

 東方教会の修道者は、「詩篇」全篇を毎日朗誦する場合が多くありました。しかしながら「詩篇」全篇を朗誦にするには何時間もかかり、それだけで一日が終わってしまいます。それゆえベネディクトゥスは百五十篇を一日で全て朗誦するのではなく、一週間に分けて朗誦するように改めました。全篇の朗誦を止めたことで、「詩篇」のうち最も適した内容の部分を、最も適した時刻に唱えることが可能になりました。また特に大切な内容の篇を重点的に唱えることで、グレゴリオ聖歌をはじめとする聖歌の発達が促されました。

  「詩篇」は旧約聖書に収められていますが、修道院ではこの部分を朗誦することが多いので、聖書から「詩篇」のみを独立させたプサルテーリウム(希 ψαλτήριον 羅 PSALTERIUM)という本を使います。「詩篇」を七日間に分けて朗誦することになれば、それに伴ってプサルテーリウムも七冊に分かれます。このことは聖務日課の発達に繋がりました。


【聖ベネディクトゥスのメダイ】






 聖ベネディクトゥスを主題に制作されるメダイの意匠は、年代によって異なります。上の写真に写っているメダイは、ドイツのボイロン修道院で考案された意匠に基づきます。

 ドイツ南西部のボイロン(Beuron バーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン県)は、スイスとの国境に近い町です。1863年、この町にベネディクト会大修道院ザンクト・マルティン(独 Erzabtei St. Martin 羅 Archiabbatia Sancti Martini Beuronensis)が創設されました。ペーター・レンツ(Peter Lenz, 1832 - 1928)はボイロンから北西に少し離れた町ハイガーロッホ(Haigerloch バーデン=ヴュルテンベルク州)出身の芸術家でしたが、キリスト教美術の研究を通じて信仰心を強め、1872年にベネディクト会士となりました。ベネディクト会士となったレンツは、修道名デーシーデリウス(Dēsīderius 註18)を名乗りました。本品の意匠は聖ベネディクトゥスの生誕千四百周年に当たる 1880年に、デーシーデリウス修道士が考案したものです。


 デシデリウス修道士が制作したメダイは、表(おもて)面の中心に聖ベネディクトゥスが描かれ、右手に十字架、左手に聖ベネディクトゥス戒律を持っています。「聖なる師父ベネディクトゥスの十字架」 (CRUX SANCTI PATRIS BENEDICTI) というラテン語が周囲に刻まれています。

 十字架の下には割れたカップがあり、毒蛇が這い出そうとしています。聖人を妬んだ敵が聖人の飲み物に毒を入れたのですが、聖人が十字を切ると、カップが粉々に砕けたと伝えられています。

 反対側にはカラスがいます。敵が聖人のパンに毒を入れたのですが、これをカラスが運び去ったといわれています。

 聖ベネディクトゥスは安らかな死の守護聖人であると考えられていて、メダイの周囲には、「彼の臨在により、臨終に際して我らが強められんことを」 (EIUS IN OBITU PRAESENTIA MUNIAMUR.)と刻まれています。

 聖人の足許には「聖なるモーンス・カシーヌスより 1880年」(羅 EX SANCTO MONTE CASINO MDCCCLXXX) の刻印があります。ラテン語モーンス・カシーヌス(羅 MONS CASINUS カシーヌムの山 註19)は、モンテカッシーノ(伊 Montecassino)のことです。1880年はこのメダイがモンテカッシーノのベネディクト会修道院で鋳造されるようになった年です。

 裏面の文字が何を表すのか謎でしたが、1415年に書かれた写本が1647年にバイエルンのメッテン修道院で発見され、その意味が明らかになりました。

 十字架上のイニシアル9文字は「聖なる十字架が我が光であるように。竜(悪魔)が我が導き手となることが決して無きように。」 (CRUX SACRA SIT MIHI LUX. NUNQUAM DRACO SIT MIHI DUX.) を表し、メダイの上部にラテン語で PAX(平和)と書かれています。

 周囲のイニシアルは「退けサタン。虚しき事で我を誘うな。汝が我に与うるは悪しき物なり。汝自身が毒を飲め。」 (VADE RETRO SATANA. NUNQUAM SUADE MIHI VANA. SUNT MALA QUAE LIBAS. IPSE VENENA BIBAS.) を表します。

 四文字のイニシアル C. S. P. B. は「聖なる師父ベネディクトゥスの十字架」 (CRUX SANCTI PATRIS BENEDICTI) です。



註1 ベネディクト会フルリ修道院(l'abbaye de Fleury)は正式名称をベネディクト会サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院(l'abbaye de Saint-Benoît-sur-Loire)といい、その源流を 651年に遡る。修道院を擁する同名の町サン=ブノワ=シュル=ロワール(Saint-Benoît-sur-Loire サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏ロワレ県)は、人口およそ二千人の小さな町で、六角形のフランス本土の中心よりも少し北、パリから南におよそ120キロメートル下ったロワール河畔に位置している。

註2 ヌルシアはローマの北北東 110キロメートルにあるアペニン山中の町で、現在ではノルチャ(Norcia)と呼ばれている。現在の人口はおよそ五千人。

註3 ベーダの「教会史」(Historia ecclesiastica gentis Anglorum)によると、ベネディクトゥスとスコラスティカは双子であった。

註4 テオドリックは484年に執政官となり、ローマの副帝として帝国西半分を統治。497年にはイタリア王の称号を得て東ゴート王国を成立させた。

註5 モンテ・オリヴェート・マッジョーレ修道院(l'Abbazia di Monte Oliveto Maggiore)はイタリア中部アッシャーノ(Asciano トスカナ州シエナ県)から南へ十キロメートルにある修道院で、1320年に創建された。ベネディクト会に属するオリーヴ山の聖マリア修道会(伊 la Congregazione olivetana 羅 CONGREGATIO SANCTAE MARIAE MONTIS OLIVETI, O.S.B.Oliv.)の母修道院である。修道院の壁を飾る聖ベネディクトゥスの生涯は、ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli, c. 1441/1445 - 1523)が 1498年に描き始め、ジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ(Giovanni Antonio Bazzi, 1477 - 1549)通称イル・ソドマ(Il Sodoma)が仕事を引き継いで、二十六点に及ぶ連作を1508年頃に完成させた。

 上の絵においてベネディクトゥスが纏う衣の青は、ルネサンス期に使われ始めた色である。この絵の青はおそらく藍銅鉱ではなくて、ウルトラマリン(ラピス・ラズリ)を鉛白で明色化したものであろう。青と赤の組み合わせは、聖母の衣を連想させる。イル・ソドマは作品の中央に自画像を描き込み、二頭のアナグマの前に立たせている。

註6 この洞窟は、後にラ・サクロ・スペーコ(伊 la Sacro Speco 聖なる洞窟)の名で知られることになる。

註7 ヴィコヴァーロはローマから北東に四十五キロメートル離れている。現在の人口は三千八百人弱。

註8 聖パコミオス(Παχώμιος, c. 292 - 348)はエジプトのテーベ出身で、共住修道制の創始者とされる。カトリック、正教会、東方教会、聖公会、ルーテル教会で聖人として崇敬される。

註9 スビヤコはアニェーネ川 Aniene(ラテン語でアニオー川 ANIO)の渓谷に位置する。ここは風光明媚な場所であるゆえに、ローマ皇帝たちの別荘地となった。最大の湖はサバティヌス湖(羅 LACUS SABATINUS)で、これは火山湖である。ネロ帝(Nero, 37 - 54 - 68)は娯楽のため、重力式ダムの湖三か所を造成している。ベネディクトゥスが造った最初の修道院は現存せず、どの湖にあったかは不明である。最大の人造湖は 1305年にダムが決壊して失われた。最初の修道院は失われた湖の畔にあったのかもしれない。

 サバティヌス湖と、それよりも小さいアルシエティヌス湖(羅 LACUS ALSIETINUS)からは、後になってローマへの水道が引かれ、首都の給水源となった。なおスビヤコのラテン語名はスブラクエウム(羅 SUBLAQUEUM)で、スブ・ラクー(羅 SUB LACŪ 湖の下、湖の畔)に由来する。

 ラテン語のエル(L)は、イタリア語でしばしばイー(i)に変化する。例として、PLĀNUS → piano, FLASCŌ → fiasco 同様に SUBLAQUEUM → Subiaco

註10 マウルス(Maurus, 512 - 584)はローマの良家出身で、ベネディクトゥスに預けられた最初の子供(奉献の子)である。九世紀以来の伝承によると、聖マウルスは聖ベネディクトゥス戒律を初めてフランスに伝えた。パリのサン=モール修道院(仏 la Congrégation de Saint-Maur)はアンシアン・レジーム期のフランスにおける最高水準の学術研究機関であった。

註11 プラキドゥスは八歳のとき、少し年上のマウルスと同時期にベネディクトゥスに預けられた。プラキドゥスの後半生については何も知られていないが、実在の人物である。

 モンテカッシーノ修道院はプラキドゥスの父がベネディクトゥスに寄進したものと伝えられる。ベネディクトゥスがモンテカッシーノ修道院に移るとき、プラキドゥスも師に付き従った。

註12 カラスは鋭い洞察力、完全な信仰、すべての生き物に及ぶ神の愛を象徴する。なおエジプトの隠修士聖パウルス(St. Paul + c. 341)、及び聖パウルスと親交のあった聖アントニウス(St. Antonius, c.  251 - 356)の聖人伝において、カラスは二人の聖人の許に日々パンを運んできたと伝えられる。

註13 ベネディクト会の飛躍的発展の基を築いたアニアヌの聖ベネディクトゥス(Benedictus Anianensis, c. 750 - 821)は、修道会の中興の祖であり、第二の聖ベネディクトゥスと呼ばれている。

 アニアヌ(Aniane オクシタニー地域圏エロー県)はニームとベジエの中間あたり、地中海から三十キロメートルほど内陸に入った小さな町である。ベネディクト会アニアヌ修道院はアニアヌの聖ベネディクトゥスが 782年に創建した修道院で、フランスの歴史的記念物(仏 un monument historique)に指定されている。

註14 聖ヴァンヌ会(仏 La congrégation bénédictine de Saint-Vanne et Saint-Hydulphe)は 1604年に創設されたフランスの修道会で、現在まで存続する。

註15 聖モール会(仏 La Congrégation de Saint-Maur)または聖マウルス会、聖マウロ会は 1618年に創設されたフランスの修道会で、フランス革命期の 1790年に消滅した。

註16 ソレーム(Solesme ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏サルト県)はフランス北西部の町で、ル・マン司教区に属する。

註17 ラ=ピエール=キ=ヴィール修道院(仏 L'abbaye Sainte-Marie-de-la-Pierre-qui-Vire)は 1850年に創建されたベネディクト会の修道院で、フランス東部の小さな村サン=レジェ=ヴォーバン(Saint-Léger-Vauban ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ヨンヌ県)にある。ラ=ピエール=キ=ヴィール(la-Pierre-qui-Vire 動く岩)という変わった地名は、当地で重なり合う岩が絶妙な均衡を保っており、人力で動かせるが落ちないことに因む。ラ=ピエール=キ=ヴィール修道院は雑誌「ゾディアック」(Zodiaque) の発行元であった。

註18 レンツの修道名デーシーデリウスは、ラテン語形容詞の男性単数主格形を男性名としたものである。形容詞デーシーデリウス(羅 dēsīderius, -a, -um)は「熱心に求める」という意味の形容詞で、他動詞デーシーデロー(羅 dēsīderō 慕う、焦がれる)に由来する。デーシーデロー自体の語源はおそらく形式所相動詞シーデロル(羅 sīderor)で、これはシードゥス(羅 sīdus 星、星座)の影響を受ける、という意味である。

 ラテン語の人名がデーシーデリウスであってデーシーデラートゥス(羅 Dēsīderātus dēsīderōの完了分詞)でないのは、名詞デーシーデリウム(羅 dēsīderium, n. 欲求)に牽引されたせいであろう。なおラテン語デーシーデロー(羅 dēsīderō)はフランス語デジール(仏 désir)やデジレ(仏 désirer)、英語デザイア(英 desire)の語源である。フランス語の人名ディディエ(Didier)は、デーシーデリウスの訛化である。

註19 カシーヌム(羅 CASINUM)は地名で、現在は遺跡が遺る。モンテカッシーノはカシーヌムの城砦であった。



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