ヌルシアの聖ベネディクトゥス(St. Benedictus Nursiensis, c. 480 - 547)はイタリアの聖人で、ヨーロッパの守護聖人ともされる重要な人物です。この聖人が定めた聖ベネディクト戒律は西ヨーロッパにおける修道制の基礎であり、ひいては西ヨーロッパのキリスト教文明の基礎ともなりました。
聖人像は光背を伴うのが通例ですが、本品の逸名メダイユ彫刻家は様式にとらわれず、光背を伴わない自由な作風で浮き彫りを制作しています。また光背を伴わないこと以前に、十代半ばの少年ベネディクトゥスを表現している点で、本品は稀有の作例です。聖ベネディクトゥスのメダイは
1880年にドイツの修道士が考案した意匠が有名で、その他にも一、二の種類がありますが、すべて威厳ある修道院長の姿を表現しています。筆者(広川)は長年に亙ってアンティークメダイユを収集し、商品としても取り扱ってきましたが、少年ベネディクトゥスを彫った作品は本品以外に見たことがありません。
一方の面は若きベネディクトゥスの横顔を大きく浮き彫りにし、周囲にラテン語でサーンクトゥス・ベネディクトゥス・プエル・スビアケーンシス(羅 SANCTUS BENEDICTUS PUER SUBIACENSIS スビヤコにおける少年ベネディクトゥス)と書かれています。U の字形が V になっているのは、古典ラテン語の表記です。V の別形 U はカロリング期に現れた字体であり、ベネディクトゥスの時代には存在していませんでした。
ベネディクトゥスは 480年頃、イタリア中部アペニン山中の小さな町ヌルシアで、高貴な身分の家に生まれました。ベネディクトゥスは幼少期をヌルシアで過ごしましたが、上流家庭の子供であったため、十代半ばになった
495年頃、エリート・コースの教育、すなわち古典文学と法学をはじめとする自由学芸七科を学びにローマへ赴きました。
495年当時のローマは東ゴートのテオドリック大王(Theodoric, 454 - 526)の下で繁栄する一方、道徳的退廃も進んでいました。ローマの享楽的雰囲気に感化されることを恐れた若きベネディクトゥスは、立身出世の道を捨ててローマを脱出し、ローマの東八十三キロメートルにあるアッフィーレ(Affile ラツィオ州ローマ県)に、次いでローマの東七十キロメートルにあるスビヤコ(Subiaco ラツィオ州ローマ県)付近に移り、隠修の生活を始めました。
ラテン語による聖人名は出身地の地名形容詞を添えて、ベネディクトゥス・ヌルシエーンシス(羅 BENEDICTUS NURSIENSIS ヌルシアのベネディクトゥス)のように表記することが多いですが、出身地以外にもその聖人にとって重要な場所を添えて表記する場合もあります。テレーズ・マルタンはアランソンの出身ですが、修道女として過ごしたのがリジューであったゆえに、テレシア・レークソウィエーンシス(羅 TERESIA LEXOVIENSIS リジューのテレーズ)と呼ばれます。地名リジューはアルモリカ(ブルターニュ半島)に居住したケルト系のレークソウィイー族(羅 LĒXIVIĪ)に因み、レークソウィエーンシス(羅
LĒXOVIĒNSIS リジューの)はそのラテン語形容詞です。
スビヤコはベネディクトゥスの出身地ではありませんが、本品メダイにはベネディクトゥス・プエル・スビヤケーンシス(スビヤコの少年ベネディクトゥス)と刻まれています。これはベネディクトゥスがスビヤコで本格的な隠修生活を始めたゆえであり、スビヤコがベネディクトゥスの精神的出身地であるからでしょう。
スビヤコに移った若きベネディクトゥスは、或る時ローマで出会った美女を思い出し、彼女のことばかりを考えるようになりました。俗世に戻る誘惑に駆られたベネディクトゥスは、裸になって茨とイラクサの茂みを転げ、誘惑に耐えましたと伝えられます。スビヤコはローマから離れた山の中ですが、ベネディクトゥスはこの地で知り合ったロマーノ修道士に、いっそう近づき難い場所について尋ね、断崖の下に洞窟があることを教わって移り住みました。ロマーノ修道士は断崖を定期的に訪れて縄に結んだ籠を下ろし、食料や信仰の書物を差し入れました。さらにロマーノ修道士はベネディクトゥスを下級聖職者とし、修道服を与えています。
本品メダイのベネディクトゥスは修道衣を着ています。ヌルシアの聖ベネディクトゥスは修道士たちの師父であり、十一世紀までの西ヨーロッパでは全ての修道院がベネディクト会に属していました。それゆえメダイに浮き彫りにされる聖ベネディクトゥスは、常にベネディクト会の修道服を着ています。しかしながら本品のベネディクトゥスは権威ある修道院長ではなく、大都市ローマの誘惑を逃れて山中に逃げ込んだばかりであり、未だ十代半ばの少年に過ぎません。少年ベネディクトゥスが身に着けている修道服は、ロマーノ修道士から譲ってもらったものでしょう。
ロマーノが属していた修道院で、ベネディクトゥスは暫くのあいだ院長を務めました。しかしながらこの修道院では規律が緩んでいて、修道生活の有るべき姿を回復させようとしたベネディクトゥスは、修道士たちから命を狙われるに至りました。ベネディクトゥスは修道院を去り、再び孤独な隠修士となりましたが、神に仕えたいと望む大勢の弟子たちがベネディクトゥスの許を訪れました。そこでベネディクトゥスはスビヤコの湖畔に共住修道院を設立し、弟子たちと共に修道生活を営むようになりました。
ベネディクトゥスは真面目な求道者である一方で、修道士たちに過剰な負担を課することを好まず、以前は毎日全篇が読まれていた「詩篇」を、七日に分けて読むように改めました。万人に近付き易い宗教の在り方を模索したベネディクトゥスの意図が、この改革からうかがえます。
メダイに浮き彫りにされた少年ベネディクトゥスは、天のみに憧れるかのように、そのまなざしを天上に注いでいます。しかしながらベネディクトゥスがベネディクトゥスが求めたのは、自分自身の魂の救いだけではありませんでした。
聖人伝によると、ベネディクトゥスが亡くなったとき、二人の弟子が全く同じ夢を見ました。夢の中では一本の道がベネディクトゥスの部屋から出て、東の天に向けて真っ直ぐに伸びていました。道には絨毯が敷かれ、無数の灯に照らされていました。
この道は第一義的にはベネディクトゥスのために神が用意し給うた道でありました。しかしながらベネディクトゥスは、救いに至る道の一つとして、西ヨーロッパの修道制を確立した人物と位置付けられています。そうであるならばベネディクトゥスに続き、ベネディクトゥスと同様に祈る人々
― 狭義には修道者、広義には真摯なキリスト者 ― にも、天国の栄冠に至る同じ道が用意されているはずです。本品メダイで天を仰ぐ少年ベネディクトゥスの姿は、聖人自身のみならず、救いを願って聖人に続く人々の姿をも重ねて表現しています。
もう一方の面には聖ベネディクトゥス生誕千四百年を記念して、1880年にボイロン(Beuron バーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン県)のベネディクト会大修道院ザンクト・マルティン(独
Erzabtei St. Martin 羅 Archiabbatia Sancti Martini Beuronensis)で制作されたメダイユの意匠が取り入れられています。この面の文字が表す意味は、次の通りです。
ラテン語 | 意味 | |||||
十字架上の九文字 | CRUX SACRA SIT MIHI LUX. NUNQUAM DRACO SIT MIHI DUX. | 聖なる十字架が我が光であるように。竜(悪魔)が我が導き手となることが決して無きように。 | ||||
メダイの周辺部分 | VADE RETRO SATANA. NUNQUAM SUADE MIHI VANA. SUNT MALA QUAE LIBAS. IPSE VENENA BIBAS. |
退けサタン。虚しき事で我を誘うな。汝が我に与うるは悪しき物なり。汝自身が毒を飲め。 | ||||
四文字のイニシアル | CRUX SANCTI PATRIS BENEDICTI | 聖なる師父ベネディクトゥスの十字架 |
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。本品の直径は 16.3ミリメートルと小さめですが、女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
少年ベネディクトゥスを浮き彫りにしたメダイは極めて珍しく、長年に亙ってフランスの信心具を扱ってきた筆者(広川)も、これまでに本品一点しか目にしたことがありません。メダイユ彫刻家の署名は刻まれていませんが、横顔のうちに少年らしい憧れを捉えた出来栄えは秀逸であり、真に芸術の名に値します。一円硬貨よりもひと回り小さなサイズはどのような場面で着用しても目立ちすぎず、服装によく調和します。特筆すべき問題は何もありません。