未販売のヴィンテージ 超絶技巧の小メダイ 《ノートル=ダム・ド・サンタ・クルス 直径 10.4 mm》 「スルトの無原罪の御宿り」に重ねたピエ・ノワールの聖母 フランス 二十世紀中頃


突出部分を除く直径 10.4 mm



 フランス全土のピエ・ノワール(アルジェリア出身者)から崇敬を集める聖母像、ノートル・ダム・ド・サンタ・クルスを浮き彫りにした極小サイズのメダイ。二十世紀半ばに制作されたまま、未販売の新品として残っていた珍しい品物です。





 帝国主義の時代であった十九世紀、北アフリカはヨーロッパ列強の侵略を受けました。フランスも 1830年にアルジェリアに進出し、現地人の激しい抵抗を武力で鎮圧します。とりわけ 1848年に設置されたアルジェ、オラン、コンスタンティーヌの三県は、ヨーロッパの本土と同様にフランス固有の領土と見做されました。この時以降 1954年にアルジェリア独立戦争が起こるまで、アルジェリアは百年以上に亙ってフランスの支配に服することとなります。

 オラン(Oran)は地中海に面した港町であり、アルジェリア第二の大都市です。1849年に当地で流行したコレラは毎日数百人の死者を出し、オランは世の終わりを思わせる状況に至りました。このとき人々が聖母に救いを求めると、大雨が降ってコレラ菌を一挙に海に押し流し、市中の疫病はたちまち収まりました。オラン港を見晴らす丘の頂上には十六世紀にスペインが建設したサンタ・クルス要塞がありましたが、コレラが収まった翌 1850年、オランの人々は要塞のすぐ下にラ・シャペル・ド・サンタ・クルス(仏 la chapelle de Santa Cruz サンタ・クルス礼拝堂)を建設し、救いの聖母(仏 Notre-Dame du Salut)に感謝を表しました。1873年には鐘楼が建設され、大きな聖母像が鐘楼の頂上に据え付けられました。

 なお鐘楼の聖母像はノートル=ダム・ド・フルヴィエール聖堂に立つ金色の聖母と同じ作品で、ジョゼフ=ユーグ・ファビシュ(Joseph-Hugues Fabisch, 1812 - 1886)によります。ファビシュはルルドのグロットの聖母像を制作した高名な彫刻家です。


 ラ・シャペル・ド・サンタ・クルスの鐘楼は現在に至るまで建っており、頂上の聖母像もそのままです。1850年の礼拝堂は 1951年に取り壊され、跡地には 1956年に修道院が、1959年には新聖堂が完成しました。この直後にアルジェリアはフランスからの独立を果たしますが、ラ・シャペル・ド・サンタ・クルスはアルジェリアの国内法によって保護され、2008年12月17日には国の文化財に指定されて今日に至っています。




(上) ムリリョ 「スルトの無原罪の御宿り」 Bartolomé Esteban Murillo (1618 - 1682), "La Inmaculada de Soult", 1678, óleo sobre tela, Museo del Prado, Madrid


 バロックの画家ムリリョ(Bartolomé Esteban Murillo, 1618 - 1682)は聖母を描いた数々の美しい作品で有名ですが、プラド美術館が収蔵する「スルトの無原罪の御宿り」は中でもよく知られています。この作品で、白と青の衣を着た聖母は両腕を交差させて胸に当て、眼差しを天に向けています。

 もともとこの作品はセビジャ(セビリャ)の旧ロス・ベネラブレス病院(西 El Hospital de los Venerables Sacerdotes / el Hospital de los Venerables)を飾る絵として、病院の創立者であるセビジャ司教座聖堂参事会員デ・ネベ・イ・ジェベネス師(Justino de Neve y Yebenes, 1625 - 1685)が友人のムリリョに註文して描かせたものであり、「ロス・ベネラブレスの無原罪の御宿り」(西 "Inmaculada de los Venerables")として知られていました。1813年、スペイン独立戦争の際、ムリリョの愛好者であったナポレオン軍のスルト大元帥(Nicolas Jean de Dieu Soult, 1769 - 1851)に奪われ、1852年に政府に買い取られてルーヴル美術館に飾られましたが、1941年にスペインに返還され、現在はプラド美術館に収蔵されています。


 無原罪の御宿りとは、マリアが「原罪を受け継ぐことなく母の胎内に宿った」とする神学上の主張で、その抽象性ゆえに絵画化が難しい主題です。ムリリョは光に包まれて天から降下する聖母を描くことにより、この概念を図像に表現しています。

 「スルトの無原罪の御宿り」において、天上の光はマリアを特別な救いに与(あずか)らせる神の恩寵を表します。多数のプッティはケルビムであり、旧約時代は地上の至聖所における神の座となりました。ロゴス(イエス)を膝に乗せるマリアは人となり給うた神の玉座であり、マリアと重なるように描かれたケルビムの群像は、マリアがまことのケルビムの座、セーデース・サピエンティアエ(智恵の座)であることを表します。聖母が下弦の月の上に立つさまは、ユダヤ教会に対するキリスト教会の優位性、すなわち新約時代の到来を図像化したもので、無原罪の御宿りの定型的表現です。画面最下部の球体は被造的世界の象徴で、これがマリアの足元にあるさまは、受胎告知の際に少女マリアが「お言葉通り、この身に成りますように」と答えたことにより、全世界が救いに与ったことを表します。





 コレラが収まった翌 1850年、オランの人々は聖母の小さな彩色像を安置しました。本品に浮き彫りにされているのはこの聖母像で、ノートル・ダム・ド・サンタ・クルス(仏 Notre-Dame de Santa Cruz サンタ・クルスの聖母)と呼ばれています。ノートル=ダム・ド・サンタ・クルスは「スルトの無原罪の御宿り」に倣った像ですが、本品メダイにおいては絵画的彫刻、すなわち背景を含めて表現できる浮き彫り彫刻の長所を活かし、周囲の雲やプッティ、マリアの足元の弦月など、ノートル=ダム・ド・サンタ・クルスの元の像には無い要素が付加されて、ムリリョの作品に一層近づいています。

 アルジェリアに生まれ育ったフランス系の人々を、ピエ・ノワール(仏 pieds-noirs)といいます。ピエ・ノワールたちにとって、法律上の身分はフランス国民であっても、自分の居場所はあくまでもアルジェリアでした。アルジェリア独立戦争の際、およそ百万人ものピエ・ノワールがフランスのヨーロッパ本土に脱出しましたが、その際に彼らは住み家も仕事も人間関係もすべて失いました。なじみのない土地に突然放り出され、そこで生きて行かざるを得なくなった彼らは、いかに大きな不安に苛まれたことでしょうか。





 フランス南東部の都市ニーム(Nîmes オクシタニー地域圏ガール県)には約1200人のピエ・ノワールが移住しましたが、その九割以上がオラン出身者でした。彼らはニーム司教ルジェ師(Mgr. Pierre-Marie Rouge, 在職 1963 - 1977)のもとでニーム在来の市民たちと融和して新しい教区を作ることとなり、ニームの司祭を筆頭に、1963年11月5日、全仏ノートル=ダム・ド・サンタ・クルスの会(仏 L'Association Natoinale des Amis de Notre-Dame de Santa Cruz)が結成されました。

 オラン出身のピエ・ノワールたちが最も望んだのは、自分たちの守護の聖母ノートル=ダム・ド・サンタ・クルスをニームに運ぶことでした。1964年にはニーム司教ルジェ師とオラン司教ラカスト師(Mgr. Bertrand Lacaste, 在職 1945 - 1972)に働きかける運動が行われ、ラカスト師はオランの聖堂内部に安置されていた聖母像をニームに運ぶことに同意しました。その結果、聖母像は 1965年にフランス海軍の手でフランスに運ばれました。ニームでは聖地建設の用地として市内の丘上に五千平方メートルの土地が用意され、1969年3月20日、聖堂が献堂されました。さらに 1972年にはグロット、1989年には六つの鐘のカリヨンが建設されて今日に到っています。またノートル=ダム・ド・サンタ・クルスの聖母像は各地にあるピエ・ノワールのコミュニティを巡回しています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。聖母とプッティの顔は直径一ミリメートル未満の極小サイズですが、目鼻口がきちんと彫られているばかりか、顔立ちはきちんと整い、視線の向きや表情までも忠実に再現されています。フランス製メダイユの制作技術は我々の想像を超えた水準にあります。

 本品はフランス国内で制作されたものですが、本品が作られた時点でノートル=ダム・ド・サンタ・クルスがどこにあったかは不明です。ニームに運ばれる以前、聖母像がオランにあった時代に作られたメダイかもしれません。





 ちなみにアルベール・カミュ(Albert Camus, 1913 - 1960)はアルジェリア生まれで、アルジェ大学文学部哲学科卒業後にパリの新聞社で働きますが、ドイツがフランスに侵攻するとアルジェリアに戻り、オランの私立学校で教えながらレジスタンスに携わりました。戦後の 1947年に発表した「ペスト」("La Peste")は「異邦人」("L'Étranger'", 1942)に続く二作目の小説で、1940年代のオランにペストが流行したという架空の設定の下、隔離されたオランの人々による懸命の闘いを活き活きと描いています。

 カミュは作品の末尾で、一旦撃退されたペスト菌が数十年後に再び猛威を振るうかも知れないことを述べ、一人一人の作中人物を我々の隣人であるかのように身近に感じさせて作品を締めくくります。筆者(広川)はカミュの小説中、古典的な薫りさえ感じる「ペスト」がいちばん好きで、涙が出るほど感動します。もしも交通事故で急逝しなければ、自身もピエ・ノワールであったカミュの作品に、フランス本土に移住したピエ・ノワールの苦闘と、ノートル=ダム・ド・サンタ・クルスが顔を出すこともあったかもしれません。





 本品は二十世紀半ばに制作されたヴィンテージ品ですが、未販売のまま新品として残っていました。それゆえ突出部分にも摩滅は一切認められず、恐ろしいほど細密な表現が、数十年の時を超えてそのまま現代に伝わっています。比較的新しい年代の品物ですが、フランスが誇るメダイユ彫刻の伝統は、この小品にも遺憾なく発揮されています。愛らしいサイズの本品は日々の愛用に好適であるとともに、フランスの歴史の語り部でもあります。





本体価格 4,500円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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