細密な像を打刻した楕円形銀板の両面に、融解したガラスの雫(しずく)を載せ、凸レンズ状に作った珍しいメダイユ。銀の両面に打刻されているのは、シャルトル司教座聖堂で崇敬を受けるふたつの聖母子像、ノートル=ダム・デュ・ピリエ(Notre-Dame du Pilier 柱の聖母)とノートル=ダム・ド・ス=テール(Notre-Dame de
Sous-Terre 地下の聖母)です。
多くの巡礼者を集めるロマネスク期の教会堂には、地上部分の内陣を取り巻く半円形またはU字形の周歩廊と、周歩廊の外側に張り出した礼拝堂が発達しました。シャルトル司教座聖堂にも周歩廊があり、北東側、東側、南東側に礼拝堂が設けられています。このうち北東側に付き出た礼拝堂に、ノートル=ダム・デュ・ピリエ(Notre-Dame
du Pilier 柱の聖母)が安置されています。この聖母子像はヴァスタン・デ・フジュレ (Wastin des Feugerets) という聖堂参事会員が
1507年頃に寄進したもので、クルミ材でできています。聖母の左膝に座る幼子イエスは、世界を表す球体の上に左手を置き、右手を挙げて祝福を与えています。聖母は左手を幼子の体に添え、右手に果実を持っています。エヴァが食べた「善悪を知る木の実」を思い起こさせるこの果実は、マリアが「新しきエヴァ」であることを示しています。
フランスにおいて純度八百パーミル(八十パーセント)の銀を示すポワンソン(仏 poinçon 貴金属の検質印)が、突出部分の基部に刻印されています。このポワンソンはイノシシの頭を模(かたど)っていますが、ガラスの下に半ば隠れて見えにくくなっています。
純度八百パーミルの銀は、フランスの信心具に使われる最高級の素材です。このメダイが制作されたのはフランスの都市が繁栄したベル・エポック期ですが、当時は貧富の差が現代以上に激しく、普通の人は銀製メダイをなかなか購入できませんでした。本品の銀製部分はそれほど分厚くありませんが、それでもやはり高価な品物であったはずで、シャルトルの聖母にすがる信仰心の篤さがうかがえます。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。本品は凸レンズのような形状で、銀製メダイに打刻された聖母子像と、ガラスの表面に当てがった定規では、カメラのレンズからの距離が異なるため、同時にピントを合わせるのが困難です。これに加えて、ガラスの表面が外光を反射するため、鮮明な写真をなかなか撮影できません。本品の実物を強力なルーぺで観察すると、高さ四ミリメートルほどの聖母子像が細部まで忠実に再現されていることがわかります。
ノートル=ダム・デュ・ピリエを取り巻くように、「ノートル・ダム・ド・シャルトル」(仏 Notre-Dame de Chartres シャルトルの聖母)の文字が刻まれています。
ノートル=ダム・ド・ス=テール(仏 Notre-Dame de Sous-Terre 地下の聖母)ではなく、ノートル=ダム・デュ・ピリエが「ノートル・ダム・ド・シャルトル」と呼ばれている理由は、後者がフランス革命期の破壊を免れ、より古い聖母子像であるからです。ノートル=ダム・デュ・ピリエは、「無原罪の御宿り」が教義化された翌年の 1855年に戴冠しています。
十九世紀末に撮影された写真
ノートル=ダム・デュ・ピリエは、サラゴサのヌエストラ・セニョラ・デル・ピラル(Nuestra-Señora del Pilar 柱の聖母)と同様に柱上に安置されています。ノートル=ダム・デュ・ピリエの「ピリエ」(仏 pilier) とは中世の建築用語で、ヴォールト(穹窿 きゅうりゅう)の重みを支える垂直の柱を指します。キリスト教の象徴体系において、完全な図形である円は神の住まう天空を表します。高みにあって丸みを帯びたヴォールトは、天の象徴です。これに対して聖堂下部の四角い床は、地を象徴します。それゆえピリエ(柱)は「天を象徴するヴォールト」と「地を象徴する床」を結ぶアークシス・ムンディー(AXIS MUNDI ラテン語で「世界軸」の意)であるといえます。シャルトルのノートル=ダム・デュ・ピリエやサラゴサのヌエストラ・セニョラ・デル・ピラルのように柱上にある聖母子像は、神の母マリアが天地を繋ぐ存在であることを象徴しています。
もう一方の面には、クリプトに安置されているノートル=ダム・ド・ス=テール(Notre-Dame de Sous Terre 地下の聖母)が打ち出され、周囲にフランス語で「シャルトルの地下の聖母」(NOTRE
DAME DE SOUS TERRE À CHARTRES)と記されています。
ノートル=ダム・ド・ス=テールは「上智の座」の聖母像で、聖母は正面を向いて玉座に座り、膝に乗せた幼子イエスに両手を添えています。聖母子像の基部には「ウィルギニー・パリトゥーラエ」(VIRGINI PARITURAE ラテン語で「子を産む処女に」の意)と刻まれています。ノートル=ダム・ド・ス=テールがクリプトに安置されたのは、十二世紀頃と考えられています。
フランス革命前のシャルトル司教座聖堂に安置されていたノートル=ダム・ド・ス=テールは、梨材で作られた十一世紀の像でした。フランス革命期の 1790年、クリプトが閉鎖された際、ノートル=ダム・ド・ス=テールはクリプトから運び出されて、ノートル=ダム・デュ・ピリエが安置されていた柱上に置かれました。一方ノートル=ダム・デュ・ピリエはクリプトに移され、ノートル=ダム・ド・ス=テールがあった場所に安置されました。1793年に司教座聖堂は閉鎖され、同年12月20日、ノートル=ダム・ド・ス=テールは聖堂西側正面のポルタイユ・ロワヤル(le
portail royal 王の門)前で焼却されてしまいました。
(上) "Sœur de St. Paul de Chartres" (Bouasse-Lebel, No. 672) シャルトル聖パウロ修道女会員を描いた19世紀中頃のカニヴェ。サイズ 105 x 67 mm 当店の販売済み商品。
シャルトル司教座聖堂のクリプトは革命後長く閉鎖されていましたが、1857年に再び開かれ、シャルトル聖パウロ修道女会(Sœurs de St.
Paul de Chartres, Congregatio Sororum Carnutensium a S. Paulo, S.C.S.)が寄進したノートル=ダム・ド・ス=テールが安置されました。
クルミ材のノートル=ダム・ド・ス=テール(三代目)
1857年に寄進された二代目のノートル=ダム・ド・ス=テールは杉材でできており、元の像より小さなサイズでした。いっぽう十一世紀のノートル=ダム・ド・ス=テールについてはサイズの記録が残っており、また十七世紀に作られた複製がシャルトルのカルメル会に残っていましたので、これらに基づく三代目のノートル=ダム・ド・ス=テールが制作され、1976年、クリプトに安置されました。三代目のノートル=ダム・ド・ス=テールはクルミ材製で、聖母は目を閉じ、シェーヌを模った頂部装飾がある冠を被っています。大樹となるシェーヌは天地を繋ぐ木であり、聖母と共通の属性を有します。ノートル=ダム・ド・ス=テールの背後にはゴブラン織りによる現代美術のタピスリが掛けられ、像の真後ろに当たる部分にはマンドルラ(紡錘形の光背)状の光背か織り出されています。マンドルラは緑の炎のようにも見えます。緑は生命力の象徴です。
杉材のノートル=ダム・ド・ス=テール(二代目)
本品は 1870年頃から 1920年頃の間に制作されたメダイですので、打ち出されているのは二代目のノートル=ダム・ド・ス=テールです。現在の像(三代目)と比べると、衣文(えもん 衣のひだ)に違いが見られます。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。聖母子の顔や手足はいずれも一ミリメートル未満の極小サイズですが、丁寧に目鼻が付けられ、手足の指もきちんと作られています。
聖母は美しく整った顔に穏やかな笑みを浮かべています。
キリスト教では、地上で過ごす人生を巡礼の旅になぞらえます。かつて旅は極めて危険で、命がけの行為でしたが、道程の要所で聖母は巡礼者に手を差し伸べ、助けてくださいました。
ノートル=ダム・ド・シャルトル(シャルトル司教座聖堂ノートル=ダム)は、パリを通ってサンティアゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼路が通過する場所に建っており、中世以来、サンティアゴを最終目的地とする巡礼者が立ち寄る聖地でした。サンティアゴ・デ・コンポステラを目指す苦しく危険な旅の途中で、巡礼者に手を差し伸べるシャルトルの聖母子は、本品を身に着ける人にも微笑みかけ、時代が変わっても大して楽にはならないもう一つの旅、すなわち地上で送る日々の生活を、優しく見守ってくれています。
本品はおよそ百年前に制作された真正のアンティーク品ですが、保存状態は極めて良好です。ガラスの一部に欠損がありますが、肌に触れても怪我をする危険は全くありません。また両面が分厚いガラスに覆われていますので、金属アレルギー体質の方が身に着けられても問題ありません。上部の突出部分に取り付けた環は銀製ですが、銀に対しても強いアレルギーがある場合、環の外周に透明マニキュア等を塗布すれば、肌に触れても大丈夫です。