フランス北中部の村ブルレに住む病弱な若い女性ジョゼフィーヌ・ルヴェルディに対して、1875年から 1878年までのあいだ、十五回にわたって出現したマーテル・ドローローサ(羅
MATER DOOROSA 悲しみの聖母)のメダイ。たいへん珍しい品物です。
メダイは楕円形のブロンズ製で、突出部分を含むサイズは 21.7 x 14.7ミリメートルです。メダイの片面には七本の悲しみの剣に心臓を刺し貫かれたマーテル・ドローローサが、打刻による浮き彫りで表されています。聖母の頭部は 3 x 2ミリメートル、手は 2.5 x 1.5ミリメートルという極小サイズですが、顔立ち、手指の形ともよく整い、聖母の表情には深い悲しみ、及びそれと同様に深い信仰が形象化されています。悲しみの聖母に執り成しを求める祈りが、メダイの周囲にラテン語で記されています。
VIRGO DOLOROSISSIMA ORA PRO NOBIS. いとも悲しみたまえるおとめよ、我らのために祈りたまえ。
ウィルゴー・ドローローシッシマ(羅 VIRGO DOLOROSISSIMA)は形容詞語尾が最上級の形を取って強調されていますが、マーテル・ドローローサ(羅 MATER DOLOROSA 悲しみの御母)と同じく聖母マリアを指します。メダイの下部にはフランス語で次のように記されています。
Boulleret 25 mars 1878 ブルレ 1878年3月25日
フランス国土の中心よりも少し北にある小村ブルレ(Boulleret サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏シェール県)に住む若い女性ジョゼフィーヌ・ルヴェルディ(JoséphineReverdy,
1854 - 1908)に対して、1875年からの数年間、多数回に亙って「悲しみの聖母」が出現しました。この精巧なメダイは現在では忘れ去られてしまった「ブルレの聖母御出現」を記念して制作されたもので、1878年の聖母被昇天の祝日、3月25日は、十五回目の出現の日付です。この日の十五回目の出現は、六名の医師と医学生を含む三十五名の人々がジョゼフィーヌを囲むなかで起こり、居合わせた人々の証言記録が残されています。
メダイのもう一方の面には聖体を顕示するオステンソワール(仏 ostensoir 聖体顕示台)を浮き彫りにし、ラテン語とフランス語で次のように記しています。
COR JESU HOSTIAE MISERERE NOBIS 聖体のイエスの聖心よ、我らを憐れみたまえ。
Boulleret 13 mai 1886 ブルレ 1886年5月13日
この日付については不詳ですが、おそらくブルレの聖母への崇敬が公式に認められたことを記念して、二十四時間の聖体顕示が行われたのでしょう。あるいは信心会設立の日付かも知れません。
十九世紀は聖母の出現が相次いだ時代で、特に十九世紀半ばから後半にかけてのフランスでは、ラ・サレットやルルドをはじめ、年ごとに数件の出現が報告されました。ブルレに聖母が出現した時期を考えると、ラ・サレット(1846年)やルルド(1858年)で聖母出現が起こったあとであり、また教皇ピウス九世がマルグリット=マリを列福し(1864年)、マルグリット=マリによる第九十八書簡が公開された(1867年)数年後であることに気付きます。
(上) キリストに身を投げかける悔悛のガリア。背景は 1914年9月4日のドイツ軍による空襲で炎上するランス司教座聖堂ノートル=ダム。ノートル=ダム・ド・ランスは歴代のフランス国王が戴冠した司教座聖堂です。手前にジャンヌ・ダルクの騎馬像が見えます。当店の商品。
記録によると、ジョゼフィーヌは半身が突然麻痺し、ルルドの聖母のノヴェナをはじめさまざまな祈りを捧げても癒されませんでした。そこでジョゼフィーヌは自身の回復を願うことを止め、苦しみを甘んじて受けさせてくださるように神に祈った際に、聖母の最初の出現が起こりました。ブルレの聖母はジョゼフィーヌの体の麻痺を奇蹟的に快癒させる一方で、ジョゼフィーヌに苦難の道を示し、人々の心に信仰を蘇らせるための犠牲としてジョゼフィーヌが選ばれたことを告げます。ブルレの出現が有するこれらの特徴は、ジョゼフィーヌがいわば生身のガリア・ペニテーンス(羅 GALLIA PŒNITENS 悔悛のガリア)であることを、端的に示しています。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
キリストや聖人、とりわけ聖母の出現を受けたと主張する人は大勢いて、そのような主張を無差別に受け入れ始めるときりが無くなります。それらの主張には意識的な虚言や精神病的幻覚に基づく証言、健康人にも起こりうる誤認による思い込みも多数含まれていることでしょう。それゆえ聖母の出現を受けたというような主張に対するカトリック教会の基本姿勢は、懐疑の一語に要約できます。超自然的出現や啓示の主張を、カトリック教会は基本的に受け入れません。
その一方で、奇跡として公式に承認された事例以外の出現に関し、カトリック教会は真正性をすべて否定するわけではありません。なぜならば「聖徒の交わり」を教義として認める以上、或る個人に対して神が恩寵を与え給うた結果キリストや聖母、諸聖人がその人に出現する事態は、十分に起こり得るからです。そのような出現に関してメダイや聖画等の信心具は制作されませんが、個人的な信心は禁じられません。
ブルレにおける聖母出現について現在のカトリック教会がどのような見解を有しているのか、筆者(広川)は詳しいことを知りませんが、本品のようなメダイが制作されている以上、少なくとも出現の真正性は否定されていないことがわかります。聖母はジョゼフィーヌ・ルヴェルディという一人の女性を選び、特別な恩寵を垂れるために出現し給うたのでしょう。この出来事がこんにち忘れ去られてしまった理由は、聖母が個人に恩寵を垂れ給う事例が数多くあって、ブルレの出現は多数の中に埋没してしまったということでしょう。
既に述べたように、ブルレの出現はガリア・ペニテーンス(悔悛のガリア)の思想的コンテクストにおいて起こった出来事です。これを合理的に解釈すれば、極めて宗教的な心性を持つ女性が時代の精神に敏感に感応し、個人の内面において体験した幻視であると言うことができます。一方でこれを救済史的観点から解釈すれば、十九世紀半ばのフランスが必要とした啓示と助言を、聖母がジョゼフィーヌ・ルヴェルディを通して与え給うたのだと言えましょう。
聖母出現を記念して制作されたメダイのなかでも、不思議のメダイやルルドの聖母のメダイは多くの種類があって品数も豊富ですが、ブルレの聖母のメダイは非常に稀少です、筆者(広川)は長年に亙ってフランスの古い信心具を研究し、商品として取り扱っていますが、ブルレの聖母のメダイを手にするのは本品でようやく二点目です。以前に手に入れたメダイは本品と同種で、当時のシャプレ(ロザリオ)に取り付けられていました。ブルレの聖母のメダイはただ一度だけ、この種類のものが制作されたのみであると考えられます。
本品は百三十年以上前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にも拘らず極めて良好な保存状態です。ブロンズ製メダイ全体を均一に覆う重厚な古色と、突出部分に見られる経度の摩滅は、本品が百三十年の歳月を経て獲得したアンティーク品ならではの趣(おもむき)であり、メダイの表情を和らげるとともに、本来不可視であるはずの歳月の流れを美しく可視化しています。