1932年11月29日から 1933年1月3日まで、ベルギーにある人口 8,500人ほどの町ボーラン(Beauraing)において、五人の子供たちに聖母マリアが出現しました。ボーランにおける聖母出現はルルドやパリ(バック通り)ほど知られておらず、メダイは稀少ですが、なかでも本品の彫刻は最も優れた出来栄えです。
メダイの一方の面には聖母の全身像を浮き彫りにしています。聖母像の周囲には、ノートル=ダム・ド・ボーラン(Notre-Dame de Beauraing ボーランの聖母)に執り成しを願う祈りの言葉が、フランス語で刻まれています。
Notre-Dame de Beauraing, priez pour nous. ボーランの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
(上) 信仰と愛を呼びかける聖母子 細密グラヴュールによる日本風文様のカニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号不明) 101 x 64 mm フランス 1880 - 90年代 当店の商品です。
ボーランの聖母は 1932年11月29日から 1933年1月3日まで、約三十回に亙り、当地の「聖心の聖母寄宿学園」(Pensionnat Notre-Dame
du Sacré-Cœur)に出現しました。学校名となっている「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」(Notre-Dame du Sacré-Cœur 聖心の聖母)とは、ジュール・シュヴァリエ神父(P. Jules Chevalier, 1824 - 1907)が聖心の宣教を行うにあたって崇敬した聖母です。シュヴァリエ神父の活動の本拠はフランス中部のイスダン(Issoudun サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏アンドル県)で、ここには聖心の聖母会の本部があります。
「ル・サクレ=クール」(仏 le Sacré-Cœur 聖心)とはフランス語で「聖なる心臓」という意味で、イエス・キリストの心臓を指します。しかるに心臓は生命と愛の座(在り処)です。したがって聖心は、自らの命を捨てても罪びとを愛し給うた神と救い主の愛を象徴します。
自足した神が他者、しかも罪びとを愛し給い、ひとり子が十字架に架かることで救世を達成し給うたというキリスト教の教義はまったく人間の理屈に合わず、人間の知性による理解を絶しています。この「神の愛」(アガペー)はあまりの強さと激しさゆえに、愛の炎を噴き上げる聖心として図像化されます。
しかるに炎は近づく者に燃え移り、焼き尽くします。神とキリストの愛は、神の花嫁である聖母の心臓に燃え移ります。その結果、無原罪の御心は神とキリストの愛によって点火され、激しい炎を噴き上げて燃えるようになります。
(上) 日本趣味の切り紙による二面のカニヴェ 「イエスの神なる聖心よ。御身を拝し、御身を愛します」 ピウス七世による百日の免償 (ドプテ 図版番号不明) 108
x 66 mm フランス 1860年代後半から 1870年代 当店の商品です。
トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第1部108問5項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum
convenienter nominentur.") において、セラフィム(熾天使)の本性を神に向かう愛であると論じ、「火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている」(ignis
motum est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur quod indeclinabiliter
moventur in Deum)と言っています。これに倣うならば、愛の火に燃える聖母の聖心は、第一義的には上方、すなわち神とキリストに向かいます。しかるに同所において、トマスは「火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである」(Et
per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter
exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium
purgantes.)とも言います。これに倣っていうならば、神とキリストが有する愛を反映し、神とキリストが有する愛をいわば分有(羅 PARTICIPATIO)した聖母の愛は、罪びとたちへと向かい、それと同時に罪びとたちを浄化して神へと引き上げようとします。
上に示したのは1860年代後半から 1870年代のフランスで製作されたカニヴェで、左側の写真はキリストの聖心を、右側の写真は聖母の聖心を描きます。キリストの聖心が噴き上げる愛の炎は聖母の聖心に燃え移り、聖母の聖心もまた、愛の炎を噴き上げています。キリストの聖心と聖母の聖心はアトリビュート(図像上の付随物)によって区別できますが、愛に燃える心臓の様子はもはや判別不能な類同性を有します。聖母の聖心から出る炎が、神とキリストへの愛を示すと同時に、世の人びとを愛し執り成す「罪びとたちの避け所」(羅
REFUGIUM PECCATORUM)としての愛をも示していることが、この図像からも見て取れます。
ボーランにおける聖母出現が終わりに近づいた 1932年12月29日、子供たちに現れ給うた聖母の両腕の間には、金色の心臓が輝いていました。そのためボーランの聖母は「金の御心のおとめ(Vierge/Notre-Dame
au Cœur d'Or)とも呼ばれています。
子供たちが見た金色の心臓は、聖母の聖心(汚れなき御心)、すなわち神とキリストへの愛の象(かたど)りに他なりません。また 1933年1月3日、最後の出現の際に、ボーランの聖母は子供たちのひとりに対して「私の息子を愛していますか」と尋ね給いました。聖母のこの問いかけも、ボーランの聖母が「ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール」(Notre-Dame
du Sacré-Cœur 聖心の聖母)であることを示しています。
子供たちによると、ボーランの聖母は「無原罪のおとめ」(La Vierge Immaculée) と名乗り給いました。本品の浮き彫りにおいて、聖母は腕にロザリオを掛け、胸の前に両手を合わせて微笑みつつ天を仰いでいます。これはボーランの聖母が三度目に出現し給うた際の様子ですが、ルルドの聖母が十六度目の出現で「無原罪の御宿リ」を名乗り給うたときの様子にも似ています。
聖母像の左下(向かって右下)に、メダイユ彫刻家 S. プランショ(S. Planchot)のサインがあります。筆者(広川)はこの人の経歴を知らないのですが、本品の優れた出来栄えを見れば、芸術的感覚と職人的技量のいずれにおいても卓越した人物であることが分かります。
なおボーランの聖母の聖心(金色の「汚れなき御心」)は胸の中心に輝いていました。しかしながらメダイユ彫刻家 S. プランショは、実際にはおよそひと月に亙る聖母出現の経緯を、ひとつの浮き彫りによって重層的に表現しています。そのためボーランの聖母の聖心は胸の中心ではなく、心臓があるべき本来の位置に移動しています。
(上・参考画像) ボーランの寄宿学校「聖心の聖母学園」 古い絵葉書から
本品に彫られた聖母の頭部からは非常に強い光輝が発出し、放射状に広がる幾条もの線で表現されています。聖母の足下にある雲は、聖母が空中に浮かんでいることを表します。背景に彫られた構造物は一度目と二度目の出現の場となった鉄道橋、両脇の木は三度目の出現の場となったヒイラギモドキとサンザシです。手前に見えるのは、「聖心の聖母学園」(L'Institut
Notre-Dame du Sacré-Cœur) の柵です。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。聖母の目鼻口をはじめとする細部は一ミリメートルに満たない極小サイズですが、聖母の顔立ちは整い、女性らしい体つきや美しい衣文(えもん 衣の襞)もこの上なく自然に再現されています。鉄道橋、樹木、柵の描写はいずれもたいへん写実的で、現地の有り様を髣髴させます。聖母の足下にある不定形の塊は雲にしか見えず、様式化された表現の中にも自然主義的要素が巧みに取り入れられています。
裏面には聖母に執り成しを求める祈りの言葉がラテン語で記されています。
MATER DEI, REGINA CŒLI, REFUGIUM PECCATORUM, ORA PRO NOBIS. 神の御母、天の元后、罪びとたちの避け所であり給う御方よ。我らのために祈りたまえ。
メダイの縁近くには「意匠登録済」(仏 déposé)、「フランス製」(英 made in France)と表示されています。
聖母出現を記念して制作されたメダイのなかでも、「不思議のメダイ」や「ルルドの聖母のメダイ」は多くの種類があり、品数も豊富ですが、「ボーランの聖母のメダイ」は非常に稀少で、めったに見つかりません。なかでも本品の聖母は浮き彫りの立体性、メダイの大きなサイズが相俟って、ボーランの子供たちとともに聖母出現の場に立ち会うかのような臨場感があります。本品はメダイユ芸術の大国であるフランスならではの優れた工芸品であり、フランスにしか生み出せないメダイであるといえます。
ボーランの聖母の出現後にあたる 1933年から1935年までは、イエス・キリストの愛を思い起こすための「購いの聖年」とされました。しかしながら聖年が始まった 1933年にはヒトラー内閣が成立し、1935年3月16日にヒトラーはドイツの再軍備を宣言します。同年9月15日にはニュルンベルクにおけるナチ党大会でニュルンベルク法
(die Nürnberger Gesetze) が制定されてナチのハーケンクロイツ(鉤十字旗)が正式のドイツ国旗となり、ユダヤ人に対する本格的な迫害と絶滅政策が始まります。
第二次世界大戦当時、ボーランがあるベルギーは中立国でしたが、1940年5月10日、ドイツ軍はベルギーに侵攻しました。激しい戦闘の末、5月28日、ベルギー軍は数千名の戦死者を出して降伏し、ドイツはベルギーを通ってフランスに攻め込みます。イエス・キリストと聖母の願いである愛による世界支配とは正反対の、憎しみによる世界支配が間もなく実現し、未曾有の規模の大戦が始まる前夜に、聖母はボーランに現れ給うたのでした。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、もう一回り大きなサイズに感じられます。
本品は数十年前に制作された真正のヴィンテージ品です。古い年代の品物ですが、立体的な作品であるにもかかわらず、浮き彫りの突出部分に磨滅はほとんど見当たりません。筆者(広川)はこれまでに「ボーランの聖母」を彫った数種類のメダイを目にしましたが、本品は最も美しい作例です。お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。