中世の面影を残す古風なプラケット(四角いメダイ)。十六世紀または十七世紀のスペインで制作された品物で、片面に聖母子、もう片面に聖父子を打刻し、両面合わせて聖家族のメダイとなっています。メダイの素材はブロンズで、両面の全体に深緑色の美しいパティナ(古色)を有します。
スペイン南東部アルマンサ(Almansa カスティジャ=ラ・マンチャ州アルバセテ県)に、ヌエストラ=セニョラ・デ・ベレン(ベレンの聖母、ベツレヘムの聖母)という有名な聖母子像があります。本品の一方の面にはこの聖母子像が打刻による浮き彫りで表されています。聖母子はそれぞれに釣り鐘型の衣とマントを着け、頭上に冠を載せています。聖母の顔を取り巻くように、後光の細工物が取り付けられています。
「ベレンの聖母」の名で呼ばれる聖母子像の形態は、時代によって変化がありました。口承によると、最初のベレンの聖母は幼子を膝に乗せて坐る智恵の座型の聖母子像でした。その次に確認できる記録によると、ベレンの聖母は左腕に幼子を抱き弦月の上に立つ典型的な無原罪の御宿りとなりました。さらに時代が下ると、幼子イエスは両脚を伸ばした状態で聖母の胸の高さに抱きかかえられるようになります。幼子イエスの体は聖母の真正面にあって、脇腹あたりを聖母の両手で支えられます。本品に打刻された聖母子はこの形態を取っています。
聖母子像の左右にわたって「アルマンサのベレンの聖母」(西 Nuestra Señora de Velén de Almansa)の文字が刻まれています。像の足下には「ローマ」(Roma)の文字が読み取れます。
ベレン(Belén)はスペイン語でベツレヘムのことです。語頭の文字は、現代の正書法ではベ(B ベ・デ・ブロ)ですが、本品ではウベ(V)となっています。スペイン語で
V を有声唇歯音(ヴ [v]) として発音できるのはバレンシア人とマジョルカ人だけで、それ以外の地域では B と V をまったく区別せずにバ行の子音として発音します。保守的な王立アカデミア自身、十九世紀までは
B と V を区別して発音するように推奨していましたが、1911年の「グラマティカ」("Gramática" 王立アカデミア・スペイン語文法)において両者の発音が同一である実態をようやく認め、いまではどのような場合も V は B と同様に発音されます。したがって本品に刻印されている
VELEN は、BELEN と同じく「ベレン」と読みます。
詳しく言うと、スペイン語以外のロマンス諸語は語頭の B とV を区別します。この区別は古カスティリヤ語にもありましたが、その一方で V を
B と発音する傾向がありました。たとえば現代カスティリヤ語 barrer(tr. 掃く、さらえる)は俗ラテン語 VARREO に、bermejo,
ja(adj. 朱色の)は VERMICULUS(m. カーミンカイガラムシ)に、bodas(pl. 結婚)は VOTA(pl. 誓約、奉献物)に、bodigo(m. 奉献用の上等の小麦パン)は VOTIUM(adj.
奉献の)に、それぞれ由来します。そして更にややこしいことに、古典ラテン語の B と V は俗ラテン語の段階で既に混同され、スペインでは破裂しない
B(日本語の「ブ」の子音)として発音されましたが、正字法では V または U で表記されたのです。
スペイン語特有のこのような事情を考慮に入れると、本品メダイの刻印された VELEN は、実際には BELEN と発音されていたこと、少なくとも BELEN に近く発音されていたことがわかります。ヨーロッパのどの言語でもベツレヘムの語頭の文字は B ですから、本品の表記も通常であれば BELEN が正しいはずです。しかしながらスペインの俗ラテン語ではこれを VELEN と綴っていたために、マトリクス(打刻に使う母型)を制作した人はラテン語綴りに近づけるつもりで、VELEN と彫り込んだのであろうと筆者(広川)は考えます。
もう一方の面には幼子イエスを抱くサン・ホセ(聖ヨセフ)が浮き彫りにされています。本品の聖ヨセフは老人ではなく、豊かな髪の若々しい姿で表されています。聖人に執り成しを願うラテン語の祈りが、聖父子を囲むように刻まれています。
SANCTUS JOSEPH ORA PRO NOBIS. 聖ヨセフよ、我らのために祈り給え。
ベレンの聖母崇敬と聖ヨセフ崇敬との間に、特段の深い結びつきはありません。それにも関わらず本品に聖ヨセフが彫られているのは、アルマンサとその近辺からローマへと巡礼に出かけるコフラディア(西
cofradía 兄弟団、信心会)のために、本品が制作されたからでしょう。
アルマンサでは 1608年以来、アッシジの聖フランチェスコを守護聖人と仰いでいましたが、その一方でベレンの聖母も篤く崇敬され、疫病の流行、旱魃、蝗害、地震などの災厄が起こるたび、人々はベレンの聖母に願を掛けました。1644年、ベレンの聖母は教皇ウルバヌス八世によってアルマンサの守護聖人と承認されました。ベレンの聖母を巡っては、十六世紀以来いくつものコフラディア(兄弟団)が設立されました。これらコフラディアはベレンの聖母崇敬の宣揚という宗教的機能のみならず、同職者をはじめ同等の社会的地位にある人々の互助団体としても機能しました。
本品はベレンの聖母の下部に「ローマ」の文字があり、裏面が聖ヨセフになっています。聖ヨセフは指物師と大工の守護聖人であり、さらには広く働く人々の守護聖人、旅人の守護聖人、カトリック教会の守護聖人でもあります。したがってベレンの聖母を崇敬するコフラディア、たとえば指物師のコフラディアか男性一般のコフラディアが、ローマ巡礼に際してベレンの聖母と聖ヨセフの加護を願い、本品メダイを身に着けたのであろうと筆者は推測しています。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真よりもひと回り大きなサイズに感じられます。商品写真では分かりませんが、メダイの実物には両面とも深緑の美しい艶を有します。
本品は四百年ないし五百年前のスペインで制作された真正のアンティークメダイですが、非常に古い品物であるにもかかわらず、十分に良好な保存状態です。特筆すべき瑕疵は何もありません。突出部分の磨滅と、数百年を経て獲得された深緑の古色が、他のメダイには無い個別性と歴史性を本品に与えています。