四世紀初頭の殉教者と考えられ、十九世紀から二十世紀前半までカトリック教会で崇敬された少女、聖フィロメナのメダイ。本品は二十世紀前半のフランスで制作された作品で、美麗な細密浮き彫りは、フランス製メダイユに相応しい仕上がりです。
一方の面にはローマの聖フィロメナの半身像が大きく浮き彫りにされています。真っ暗なカタコンベ(地下墓所)で天からの光を受ける殉教聖女は、ヴェールを被って目を上方に向け、祈りの内に神と対話しています。聖女に執り成しを求めるフランス語の祈りが、浮き彫りを取り巻くように刻まれています。
Sainte Philomène, priez pour nous. 聖フィロメナよ、我らのために祈りたまえ。
聖フィロメナの墓所は、1802年、ローマにある聖プリスキッラのカタコンベで見つかりました。墓所を塞ぐテラコッタの板には、錨と二本の矢が描かれていました。イエスのマリア・ルイザ修道女(Maria Luisa di Gesù)は 1833年に聖フィロメナが殉教する様子を幻視し、錨と二本の矢をフィロメナの受苦と関連付けました。このため錨と二本の矢は聖フィロメナのアトリビュート、すなわち聖フィロメナの絵や彫刻において、聖女を同定するために造形される持物(じぶつ)となっています。
本品の浮き彫りにおいて、聖フィロメナはカタコンベの内部に立っています。聖女の後ろには錨が立てかけられています。錨を置いた台状の石材には、キー・ローのクリストグラムが陰刻されています。矢は聖女が右手に持つ一本しか見えませんが、二本目の矢に代わるナツメヤシの葉が、聖女の左手に保持されています。ナツメヤシの葉は栄光の象徴であり、キリスト教美術においては殉教者のアトリビュート(持物)として表現されます。
(上) Gian Lorenzo Bernini, "L'Estasi di santa Teresa d'Avila", 1647 - 1652, marmo, 350 cm, la Capella Cornaro, Chiesa di Santa Maria della Vittoria, Roma
イエスのマリア・ルイザ修道女の幻視を離れて考えるならば、フィロメナとともに聖画に描き込まれた三つの事物は、キリスト教の枢要徳である信望愛(「コリントの信徒への手紙 一」十三章十三節)を表しています。
十字架は言うまでもなく信仰の象徴です。錨は希望を象徴します。矢は異教の古典古代以来、愛を象徴します。矢が象徴する古典古代の愛は本来クピードー(エロース 性愛)であってカリタース(アガペー キリスト教的慈愛)ではありませんが、ウェヌスの花であったはずの薔薇が換骨奪胎されて無原罪の聖母(ロサ・ミスティカ)を象徴するに至ったのと同様に、クピードーの矢も大きな変容を遂げてカリタース(神の愛)の象徴となりました。ベルニーニ作「聖テレサの恍惚」において、ケルブが聖女に向ける矢は神の愛を象徴します。
メダユール(仏 médailleur メダイユ彫刻家)はこの面に署名を残していません。もう一方の面には署名がありますが、信心具のメダイユにおいては二面が同一のメダユールによるとは限らず、フィロメナ像の作者は不詳です。しかしながら聖女が着ているストラ(羅
STOLA 古代ローマの女性用寛衣)には長い袖があって慎ましやかであり、ヴェールのようにパッラ(羅 PALLA 古代ローマの女性用マント)を被る少女の横顔からは、若き聖母にも比すべき清らかさが溢れます。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。本品は直径十五ミリメートルに満たない小さなメダイですが、少女フィロメナの目鼻口や手指をはじめ、持物や背後の石材まで、あらゆる細部を克明かつ正確に再現したミニアチュール浮き彫りには、サイズを超えた臨場感があります。本品をルーペ越しに見ていると、生身の聖女を眼前にするかのような錯覚にさえ陥ります。
もう一方の面には、すべての慈善団体の守護聖人、アルスの主任司祭聖ジャン=バティスト=マリ・ヴィアンネ(Jean-Baptiste-Marie Vianney, dit le Saint Curé
d'Ars, 1786 - 1859)が大きく浮き彫りにされています。神父に執り成しを求める祈りの言葉が、周囲にフランス語で刻まれています。
Saint Jean-Baptiste-Marie Vianney, Curé d'Ars, priez pour nous. アルスの主任司祭、聖ジャン=バティスト=マリ・ヴィアンネよ、我らのために祈りたまえ。
ジャン=バティスト=マリ・ヴィアンネ神父は、リヨンの北三十キロメートル余りにあるアルス(現アルス=シュル=フォルマン Ars-sur-Formans オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アン県)
の主任司祭となりました。当時のアルスは人口二百人ほどの村で、村人は文化的水準も信仰心も極めて低い状態でしたが、ヴィアンネ神父は自分が得るものすべてを施しにまわして村人たちのために捧げ、神父の模範的な聖性、説教、熱意を尊敬する村人たちの霊性は、徐々に高まってゆきました。
ヴィアンネ神父は生前から聖人と慕われて、病気の快癒等を神父の執り成しによる奇跡と考える人たちも現れました。神父は自身が聖人扱いされるのを避けるために、そのころ崇敬が広まっていた聖フィロメナの礼拝堂を教会内に造り、病気の快癒等は聖フィロメナによると説いて、聖女への崇敬をさらに広めました。ヴィアンネ神父自身、1843年に重篤な肺炎に罹ったとき、聖フィロメナに百回のミサを捧げることを誓いましたが、初回のミサを終えてすぐに快癒を得ました。解熱が起こったのは発症九日後のことです。当時は抗生物質などありませんでしたから、重篤な肺炎がこのように速やかに治癒したのは、確かに驚くべきことと言えます。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。この面の浮き彫りは聖フィロメナに比べて大きいですが、細密さは聖フィロメナに劣りません。左肩の上にメダユールのサインがあります。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもさらにひと回り大きなサイズに感じられます。
聖フィロメナは 1805年から百五十年あまりに亙ってカトリック教会のローマ典礼暦に祝日が載っており、公的崇敬の対象でしたが、殉教処女フィロメナの実在性が考古学的に確認できないことから、1961年になって典礼暦から削除されてしまいました。したがってこの聖女に関連するメダイ等の信心具は、現在では制作されていません。
本品は聖フィロメナが崇敬されていた時代の貴重な資料であるとともに、身に着けることができる実用性を兼ね備えます。ペンダントとしてのサイズは大きすぎず小さすぎず、日々ご愛用いただけるアンティーク美術品となっています。