聖母訪問会を創立した二聖人、聖フランソワ・ド・サールと聖ジャンヌ・ド・シャンタルのメダイ。1880年代頃のフランスで制作されたもので、信心具の最高級素材である銀を使用しています。十九世紀のフランス製メダイは打刻による作例が多く、本品も例外ではありませんが、二人の聖人像は鋳造による作品と見まがう立体性を有し、浮き彫りの細密さは優れた工芸品の水準に到達しています。
一方の面には十字架上の四つ葉模様を背景に、フランソワ・ド・サール(仏 François de Sales 伊 Francesco di Sales 羅 Franciscus Salesius, 1567 - 1622)の上半身を浮き彫りにしています。聖人の胸には大きめの「クロワ・ペクトラル」が下がっています。「クロワ・ペクトラル」(croix pectorale フランス語で「胸のクロス」)は教皇、枢機卿、司教、修道院長などの高位聖職者のみが身に着ける十字架です。聖フランソワ・ド・サールはジュネーヴ司教であったゆえに、「クロワ・ペクトラル」を身に着けた姿で表されています。聖人に執り成しを願うフランス語の祈りが、浮き彫りを取り囲むように刻まれています。
Saint François de Sales Docteur de l'Église, priez pour nous. 教会博士聖フランソワ・ド・サールよ、我らのために祈りたまえ。
「教会博士」(羅 DOCTOR ECCLESIAE)とは学識と聖性において特に優れた聖人に贈られる称号で、カトリック教会全体で三十五人しかいません。ド・サール師は死後間もない
1626年に列福に向けた調査が始まり、1661年12月18日にアレクサンドル七世により列福、1665年4月19日にやはりアレクサンドル七世により列聖されました。さらに
1877年にはピウス十一世により教会博士とされました。
聖フランソワ・ド・サールが生きたのは宗教戦争の時代で、ジュネーヴ司教座聖堂はカルヴァン派に奪われ、司教座はサヴォワ公国のアヌシー(Annecy 現在のフランス共和国 オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)に逃れていました。したがって聖人はジュネーヴ司教と言ってもジュネーヴではなくアヌシーにいたわけですが、師の優れた著作は当時普及し始めた活版印刷術によって広く流布し、カトリックの精神的指導者として尊敬されました。
聖フランソワ・ド・サールは「ドクトゥール・ド・ラムール」(仏 Docteur de l'amour 「愛の博士」の意)と呼ばれ、プロテスタントとの対立問題に関しても「何事も力によらず、すべてを愛によって」(Rien
par force, tout par amour)と説きました。
しかしカトリックとプロテスタントの戦争は師の没後も続きます。聖人が亡くなって五年後の1627年には、ラ・ロシェル(La Rochelle ポワトゥー=シャラント地域圏シャラント=マリティーム県)において、リシュリュー枢機卿の指揮のもと、一年数か月に亙る攻囲戦が戦われます。このときラ・ロシェルに立てこもったユグノーは、カトリック側からの攻撃に加えて飢餓と感染症に苦しみ、降伏時の人口は元の数分の一に減っていました。我々は宗教対立によって惹き起こされたこのような惨事を知るゆえに、聖フランソワ・ド・サールの柔和なほほえみを見ると心が痛みます。
メダイ上部に突出した環状部分の付け根付近、文字 "D" の傍らに窪みがあって、写真では黒っぽく写っています。これは「イノシシの頭」を模(かたど)ったポワンソン(仏
poinçon 貴金属の検質印、ホールマーク)で、フランスにおいて純度八百パーミル(八十パーセント)の銀を示します。
銀は信心具に使われる最高級の素材で、普通はめっきとしてのみ用いられます。しかるに本品はまったくの銀製です。本品のようにめっきではなく銀そのものでできている品物を、銀無垢(ぎんむく)製品といいます。銀無垢製品は高価ですので、普通の人が本品のようなメダイを買うことは、昔はなかなかできませんでした。
十九世紀のフランスで作られた銀無垢メダイは、驚くほど薄いものが多くあります。しかしながら本品は銀を惜しまずに制作されており、しっかりとした厚みがあります。このため本品は打刻して制作されたメダイであるにもかかわらず、鋳造による作品と見まがう立体的な浮き彫りを実現しています。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。ド・サール師の顔は直径三ミリメートルの範囲に収まりますが、浮き彫りはあたかも生身の司教を眼前に見るかのような迫真性を有します。衣の襞のような細部もおろそかにされず、大型彫刻に勝るとも劣らない出来栄えです。
もう一方の面にはフランソワ・ド・サール師とともに聖母訪問会(仏 l'Ordre de la Visitation de Sainte-Marie)を設立した聖ジャンヌ・ド・シャンタル(Ste. Jeanne de Chantal, 1572 - 1641)の姿が浮き彫りにされています。ジャンヌ・ド・シャンタルは「聖母訪問会」の総長であったゆえに、胸に「クロワ・ペクトラル」を下げています。聖人に執り成しを願うフランス語の祈りが、浮き彫りを取り囲むように刻まれています。
SAINTE JEANNE FRANÇOISE DE CHANTAL, PRIEZ POUR NOUS. 聖ジャンヌ・ド・シャンタルよ、我らのために祈りたまえ。
聖女ジャンヌは胸の前に腕を交差し、祈りのうちに神とキリストと対話しています。聖女は右手に十字架、左手に心臓を持っています。心臓には「イー・ハー・エス」(IHS 「アイ・エイチ・エス」のラテン語読み)の三文字が刻まれています。
心臓に書かれた三文字はギリシア語で綴った救い主の名前「イエースース」(IHΣOYΣ / Ἰησοῦς イエス)から採られたもので、「クリストグラム」(仏
christogrammes キリストを象徴する文字記号)のひとつです。「イオタ・エータ・シグマ」はギリシア字母ですから、本来は "IHΣ"と書かれるはずですが、ラテン語文化圏であった西ヨーロッパではこれをラテン文字に置き換えて、"IHS"
または "JHS" と表記します。
神が罪びとを愛し給う愛はキリストの受難において極点に達しました。それゆえ十字架は神とキリストの愛を最も端的に視覚化する物品であり、最大のアルマ・クリスティです。
一方、心臓は古来生命の座であり、愛の座と考えられてきました。神とキリストの愛がサクレ=クール(仏 le Sacré -Cœur 聖心)すなわち聖なる心臓として図像化されるのは、心臓が有するこの象徴性ゆえです。したがってジャンヌが右手に持つ「クリストグラムが刻まれた心臓」は、第一義的には、「神とキリストが罪びとを愛し給う愛」(サクレ=クール、聖心)を象徴します。
(上) 日本趣味の切り紙による二面のカニヴェ 「イエスの神なる聖心よ。御身を拝し、御身を愛します」 O divin Cœur de JÉSUS, je vous adore, je vous aime, Dopter, numéro inconnu 108 x 66 mm フランス 1860年代後半から 1870年代 当店の商品です。
ところでキリストの聖心及びマリアの御心の図像を見ても分かるように、不可視の愛はしばしば火として可視化されます。しかるに火は周囲のものを熱し、燃え移ります。火が燃え移ったものは火と同化し、浄化され、神の国である天上へと上昇します。十三世紀の神学者トマス・アクィナスは、「スンマ・テオロギアエ」第1部108問5項 「天使たちの位階には適切な名が付けられているか」("Utrum ordines angelorum
convenienter nominentur.") において、火に比せられるセラフィム(熾天使)の本性、すなわち自らが神へと上昇するとともに、周囲のものをも神へと上昇させる本性を論じています。同書第1部108問5項異論5に対する回答の前半を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。
Ad quintum dicendum quod nomen Seraphim non imponitur tantum a caritate, sed a caritatis excessu, quem importat nomen ardoris vel incendii. Unde Dionysius, VII cap. Cael. Hier., exponit nomen Seraphim secundum proprietates ignis, in quo est excessus caliditatis. | 第5の異論に対しては、次のように言われるべきである。セラフィムという名前は単なる愛ゆえに付けられたというよりも、愛の上昇ゆえに付けられているのである。熱さあるいは炎という名前は、その上昇を表すのである。ディオニシウスが「天上位階論」第7章において、熱の上昇を内に有するという火の属性に従って、セラフィムという名を解き明かしているのも、このことゆえである。 | |||
In igne autem tria possumus considerare.
Primo quidem, motum, qui est sursum, et qui est continuus. Per quod significatur
quod indeclinabiliter moventur in Deum. |
ところで火に関しては三つの事柄を考察しうる。まず第一に、動き。火の動きは上方へと向かうものであり、また持続的である。この事実により、火が不可避的に神へと動かされることが示されている。 |
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Secundo vero, virtutem activam eius, quae est calidum. Quod quidem non simpliciter invenitur in igne, sed cum quadam acuitate, quia maxime est penetrativus in agendo, et pertingit usque ad minima; et iterum cum quodam superexcedenti fervore. Et per hoc significatur actio huiusmodi Angelorum, quam in subditos potenter exercent, eos in similem fervorem excitantes, et totaliter eos per incendium purgantes. | しかるに第二には、火が現実態において有する力、すなわち熱について考察される。熱は火のうちに単に内在するのみならず、外部のものに働きかける何らかの力を伴って見出される。というのは、火はその働きを為すときに、最高度に浸透的であり、最も小さなものどもにまで、一種の非常に強い熱を以って到達するからである。火が有するこのはたらきによって、この天使たち(セラフィム)が有するはたらきが示される。セラフィムはその力を及ぼしうる下位の対象に強力に働きかけ、それらを引き上げてセラフィムと同様の熱を帯びるようにし、炎によってそれらを完全に浄化するのである。 | |||
Tertio consideratur in igne claritas eius. Et hoc significat quod huiusmodi Angeli in seipsis habent inextinguibilem lucem, et quod alios perfecte illuminant. | 火に関して第三に考察されるのは、火が有する明るさである。このことが示すのは、セラフィムが自身のうちに消えることのない火を有しており、他の物どもを完全な仕方で照らすということである。 |
神とキリストに発する愛の火は、聖母マリアの心に着火し、聖母の心を神とキリストへの愛で燃え立たせましたが、これとちょうど同じように、神とキリストの愛はジャンヌ・ド・シャンタルの心に着火し、聖女の心を神とキリストへの愛で燃え立たせました。それゆえ本品に彫られた聖女ジャンヌが右手に持っている心臓は、キリストの聖心を示すのみならず、ジャンヌの心、ジャンヌの生命、ジャンヌが神とキリストを愛する愛をも象徴します。
聖女ジャンヌが右手に持つ心臓に「イエス」(IHS)と刻まれていることは示唆的です。イエスはあたかも聖痕を残すように、ジャンヌの心臓、すなわちジャンヌの愛と生命に、ご自身の刻印を残し給うたのです。これによってジャンヌの生命はキリストの愛と同化し、ジャンヌはキリストへの愛に生きる者となりました。
ジャンヌ・ド・シャンタルが生きたのは宗教戦争の時代です。愛と平和を説くべきキリスト教徒同士が対立と戦闘に明け暮れ、人心は荒(すさ)んでいました。ジャンヌは裕福な貴族の妻でしたから、生活の不自由は無かったでしょうが、何人もの子供に先立たれ、末娘が生まれたのと同じ年に最愛の夫を亡くしました。悲嘆に暮れる若きジャンヌは、辛い立場にある人々の苦しみ、悲しみを身を以て知り、生涯を慈善に捧げようと決心しました。ジャンヌは貧者に寄り添ってイエスと同化し、貧者に仕えることによってイエスに仕えようとしたのです。
夫が亡くなって三年後の 1604年、フランソワ・ド・サール師が復活祭の説教をしにディジョンを訪れた際、ジャンヌはド・サール師に会って決心を伝えました。ド・サール師はこのときからジャンヌの霊的指導者となりました。1610年、末子にして三女のシャルロットが九歳で亡くなると、ジャンヌはフランソワ・ド・サール師を共同設立者として「聖母訪問会」(l'Ordre
de la Visitation de Sainte-Marie)を作り、病者や貧者を訪問し、世話をする活動を始めました。
本品は百年以上前のフランスで制作された品物です。第一次世界大戦以前のヨーロッパは現在よりもはるかに貧富の差が激しく、普通の人が銀無垢メダイを購入することは困難でした。銀でメダイを作る場合、コストを抑えるために、極力薄く作られました。
上の写真は左側が本品、右側がマルグリット=マリのメダイです。マルグリット=マリのメダイは聖女の列福を記念したもので、列福記念メダイにふさわしく銀製ですが、この時代の類品と同様、非常に薄く作ってあります。これに比べて本品には、マルグリット=マリのメダイに比べておよそ五倍の厚みがあります。通常の数倍のコストをかけて制作された本品は、特別な品物であることがお分かりいただけます。
1602年から 1622年までの二十年間、聖フランソワ・ド・サールはフランス東部アヌシー(Annecy)においてジュネーヴ司教の地位にありました。
アヌシーは聖フランソワ・ド・サールと聖ジャンヌ・ド・シャンタルが聖母訪問会を設立した地でもあり、同会のメゾン=メール(本部)はアヌシーを見晴らす丘の上にあります。同会本部に隣接する土地には、「御訪問のバシリカ」(La
basilique de la Visitation)が建っています。
「御訪問のバシリカ」の建設工事は 1909年から始まり、1930年まで続きましたが、1911年8月2日、聖フランソワ・ド・サールと聖ジャンヌ・ド・シャンタルの移葬式が盛大に挙行され、二聖人の遺体は同バシリカの身廊奥に安置されました。本品はおそらくその際に制作された記念メダイユで、アヌシー市民が誇りとする二聖人にふさわしく、神と人に通い合う愛を強調した「愛のメダイ」となっています。
本品は百年以上前のアンティーク品ですが、突出部分の磨滅もごく軽度で、極めて良好な保存状態です。特筆すべき問題は何もありません。