アルマ・クリスティ
ARMA CHRISTI
(上) アルマ・クリスティのあるクロワ・ド・ミシオン 48.6 x 25.8 mm ブロンズ 19世紀中頃
当店の商品です。
キリストの受難に関係し、これを象徴する一群の物品を総称して「アルマ・クリスティ」(ARMA CHRISTI ラテン語で「キリストの道具類」の意)と呼びます。「アルマ」(ARMA)
はラテン語の中性複数名詞で、工具、農具の類を指します。ラテン語の長短を正しく書くと、「アルマ・クリスティー」です。
「アルマ・クリスティ」には、誰でも知っている十字架や茨の冠以外にもさまざまな物があり、その品目は二十以上にも及びます。絵画や彫刻など本格的な美術作品に描写されるのみならず、信心具にも表現されます。このページでは「アルマ・クリスティ」を表現した信心具の実例を採り上げます。
【実例1 アルマ・クリスティのあるクルシフィクス】
(上) アルマ・クリスティのあるフランスのクルシフィクス 38.0 x 23.4 mm 20世紀初頭
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十字架自体もアルマ・クリスティのひとつですが、この作例では十字架の横木に鉄鎚と釘抜きを取り付けています。鉄鎚はイエズスを十字架に付けた人間の罪を、くぎ抜きは罪と対極にある徳と信仰を、それぞれ象徴しています。
このタイプのクルシフィクスは、1846年9月19日、フレンチ・アルプスの高地の村
ラ・サレットに出現した聖母が身に着けていたことでも知られています。
【実例2 アルマ・クリスティのメダイ付 七つの悲しみの聖母のロザリオ】
(上) アルマ・クリスティのメダイ付 七つの悲しみの聖母のロザリオ 全長 48 cm 最初のメダイのサイズ 24.6 x 19.1 mm イタリア 19世紀後半
「七つの悲しみの聖母のロザリオ」の最初のメダイはイエズス磔刑の光景を浮き彫りにしたものがほとんどですが、本品は磔刑の光景の代わりに「アルマ・クリスティ」を浮き彫りにしています。
このメダイに現れるものは次の表の通りです。数字は下の写真に対応しています。なお下表の1「聖霊なる神」は、「アルマ・クリスティ」に含まれません。
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1 |
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三位一体の第三位のペルソナ、聖霊なる神 |
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2 |
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降架の際に用いられた梯子 |
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3 |
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受難の前夜、ゲッセマネの園においてイエズスを捕縛した者たちが用いたランタン |
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4 |
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イエズスが鞭打たれた際に縛り付けられた柱 |
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5 |
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ペトロの鶏 |
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6 |
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ローマ兵たちがサイコロで分けた縫い目の無いイエズスの衣 |
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7 |
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イスカリオテのユダがイエズスを売った価である銀 30デナリ |
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8 |
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イエズスを埋葬した際のミルラ(香油)入れ |
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9 |
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イエズスの聖顔が写ったヴェロニカの布(きぬ) |
【実例3 アルマ・クリスティのあるクロワ・ド・ミシオン】
(上) アルマ・クリスティのあるブロンズ製クロワ・ド・ミシオン 48.6 x 25.8 mm フランス 19世紀中頃
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十字架交差部にはフランス語で「ミシオン」(mission) と記されています。
「ミシオン」あるいは「ミシオン・パロワシアル」(mission pariossiale) とは教区民の信仰心を高めることを目的とし、農村部を中心とした各地の教区でかつて盛んに行われたカトリック教会の運動です。ミシオンを記念してフランス各地に立てられた「クロワ・ド・ミシオン」(croix
de mission) には、「アルマ・クリスティ」を伴う作例が多く見られます。
このクルシフィクスには、十字架そのものに加えて、次表の「アルマ・クリスティ」八種が刻まれています。表中の数字は上の写真の番号に対応します。
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1 |
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茨の冠 |
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2 |
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三本の釘(手用に二本、足用に一本) |
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3 |
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釘抜き |
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4 |
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金槌 |
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5 |
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降架の際に用いられた梯子 |
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6 |
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ペトロの鶏 |
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7 |
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脇腹を突いた槍 |
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8 |
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酢に浸した海綿を先に付けた棒 |
「アルマ・クリスティ」はいずれも見る者の心を痛めますが、とりわけ胸に迫るのは「ペトロの鶏」ではないでしょうか。「ペトロの鶏」は、実例2「七つの悲しみの聖母のロザリオ」ではメダイに刻まれていました。本品(実例3「アルマ・クリスティのあるクロワ・ド・ミシオン」)では、十字架中央部、高い柱の上に留まっています。
イエズスは十字架にかけられる前夜、弟子たちと共に過ぎ越しの食事をなさいました。その際弟子たちの離反を予告したイエズスに、リーダー格の使徒ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いますが、イエズスは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と答え給います。これに対し、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い切ります。(マタイ 26: 31 - 35)
その夜、イエズスは捕縛され、大祭司の屋敷に連行されて裁判にかけられます。いったん逃げ出したペトロは、こっそりと戻って大祭司邸の中庭に入り、様子をうかがっていましたが、人々に「お前もイエズスの仲間であろう」と言われ、むきになって否定します。ペトロが三度めに否定したとき、鶏が啼きました。
この逸話はすべての福音書に記録されています。「マタイによる福音書」 26章69節から75節を新共同訳により引用します。
ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 |
少し余談を書きます。音楽の好きな方は「マタイ受難曲」に上記の場面が含まれているのをご存じでしょう。「マタイ受難曲」はJ. S. バッハの作品が最も有名ですが、バッハの「マタイ受難曲 BWV 244」はルターのドイツ語訳聖書に拠っています。上の引用箇所は、ルターの訳では次のようになっています。
Petrus aber saß draußen im Palast, und es trat zu ihm eine Magd und sprach: Und du warest auch mit dem Jesu aus Galiläa. Er leugnete aber vor ihnen allen und sprach: Ich weiß nicht, was du sagest. Als er aber zur Tür hinausging, sahe ihn eine andere und sprach zu denen, die da waren: Dieser war auch mit dem Jesu von Nazareth. Und er leugnete abermal und schwur dazu: Ich kenne des Menschen nicht. Und über eine kleine Weile traten hinzu, die da stunden, und sprachen zu Petro: Wahrlich, du bist auch einer von denen; denn deine Sprache verrät dich. Da hub er an, sich zu verfluchen und zu schwören: Ich kenne des Menschen nicht. Und alsbald krähete der Hahn. Da dachte Petrus an die Worte Jesu, da er zu ihm sagte: Ehe der Hahn krähen wird, wirst du mich dreimal verleugnen. Und ging heraus und weinete bitterlich. |
72節と74節のペトロの言葉「そんな人は知らない」を、ルターは属格(二格)を使って "Ich kenne
des Menschen nicht" と訳しています。通常であれば対格(四格)を使って "Ich kenne
den Menschen nicht" と言うところでしょう。ちなみにギリシア語原文とヴルガタ訳(ラテン語)では、この箇所は "Οὐκ οἶδα τὸν
ἄνθρωπον."(Nestle-Aland, 26 Auflage)、"Non novi hominem."(Nova
Vulgata) と、ごく普通の表現になっています。ルターはこの箇所をドイツ語に訳する際に、なぜ対格ではなく属格を使ったのでしょうか。筆者(広川)はその理由を、ルターがペトロの内面に踏み込んだからであると考えます。
インド=ヨーロッパ語の属格には、知る、憶える、思い出す、忘れる、憐れむ等の心的はたらきが及ぶ範囲を、無限定的に表すという機能があります。つまり通常通り対格を使って "Ich kenne
den Menschen nicht" と言えば、「その人を知らない」という事実のみを感情を交えずに述べることになります。しかるに属格を使った "Ich
kenne
des Menschen nicht" は「そんな人など知らない」という意味であって、「その人」(der Mensch) との関わりが希薄であること、あるいは何の関わりもないことが、言外に強調されています。
福音書の唯一の目的は、イエスが旧約に預言されたメシアである事実を証明することです。福音書は近代的な意味の文学作品ではないので、登場人物の感情はほとんど記述されず、ときに物足りなささえ感じます。しかるにルターはここで属格を用いて、ペトロの内面に踏み込んでいます。ルターのペトロは単にとぼけるのではなく、属格の使用によってイエスとの関係の希薄さを強調し、さらには呪いの言葉さえ口にして、「そんな人など私は知らない」「私はその人と如何なる関わりも無い」と誓っています。「マタイ受難曲 BWV
244」を聴く度に、筆者(広川)はこの箇所でいつも涙を流し、ペトロと共に泣いています。
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