テラック作メダイユ 「聖クリストフを眺め、心安らかに行け」 クラシックカーと飛行船 優れた細密彫刻による芸術品 直径 18.6 mm


突出部分を除く直径 18.6 mm

フランス  1910年代



 今からおよそ百年前、1910年代のフランスで制作されたクラシカルなメダイ。二十世紀前半のフランスで活躍したメダイユ彫刻家テラック(Tairac)による作品です。極めて良好な保存状態であるゆえに、おそらく未使用のまま大切に保管されていたものと思われます。





 本品の表(おもて)面には、幼児を肩に乗せて川を渡る聖クリストフ(聖クリストフォロス、聖クリストファー)が見事な浮き彫りで表されています。クリストフの杖は先端が奇妙な形に分かれていますが、これは引き抜いた立木をそのまま杖にしているからです。この杖をよく見ると、下向きの枝を落とした跡があります。根元近くの幹は太くて握りやすいので、クリストフは引き抜いた立木を逆さまにして使っているのです。立木を引き抜くなど常人に為し得ることではなく、クリストフがサムソン並みの怪力を持っていたことがわかります。

 荒れ狂う自然の四元素と闘うクリストフの衣は強風をはらんで大きく膨らみ、衣の下部は腿に張り付き、上部の裾は戦旗のようにはためいています。逆巻く川の水深は大男クリストフの膝のあたりに達し、逆巻く波は腰に届かんとしています。怪力無双のクリストフは、岩をも押し流すほどの巨大な水圧に抗(あらが)ってまっすぐに立ち、自信に満ちた足取りで向こう岸を目指しています。

 しかしながら渡河の半ばで、肩に乗せた小さな男の子があまりにも重くなり、異変を感じたクリストフは問いかけるように男の子を見上げています。肩の上の幼児は全宇宙の支配権を示すグロブス・クルーキゲル(世界球)を左手に持ち、右手で天を指さして、自分が天地の造り主、神なる幼子イエス・キリストであることを宣言しています。クリストフの髪は強い風圧に押し付けられ、衣は強風にあおられてひるがえっていますが、幼子イエスは天上の存在であるゆえに、その髪も衣も風の影響を一切受けていないのが印象的です。





 幼子イエスを肩に乗せて渡河するクリストフの姿は、十三世紀の聖人伝「レゲンダ・アウレア」("LEGENDA AUREA") に収録された伝承を基にしています。同書によると、大男である武人クリストフは世界で最強の君主に仕えることを望み、まずはじめに、最強と思われるカナンの王に仕えました。しかしながら王が悪魔を恐れていることがわかったので、次に悪魔の家来になりました。やがて悪魔が神を恐れていることを知ると、神に仕えることを望みましたが、どうすれば神に出会えるかがわかりません。隠者に相談したところ、人を背負って深い川を渡す仕事をすれば神に出会える、と教えられました。ある日小さな男の子が現れて、向こう岸に渡してくれるようにと頼まれたクリストフは男の子を肩に乗せて運び始めますが、途中で男の子が非常に重くなり、やっとの思いで向こう岸にたどり着きました。男の子は世界を創ったキリストで、世界よりも重かったのです。クリストフはこうして神と出会い、神に仕える者となりました。

 上の写真はアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)が 1511年に制作したウッド・エングレーヴィングで、大英博物館に収蔵されています。中央に大きく描かれているのはキリストとクリストフですが、向かって右側の岸辺には隠者の姿が見えます。隠者が手にするランプは「知恵」の象徴であり、「ロゴス」(λόγος ことば)の象徴でもあります。「知恵」あるいは「ことば」とはイエス・キリストのことに他なりませんから、ランプを手にした隠者の姿は、キリストを背負ったクリストフの姿と同じ象徴的意味を有します。「ヨハネによる福音書」 一章一節から五節を引用します。ギリシア語原文はドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版、日本語は新共同訳によります。

     Nestle-Aland 26 Auflage    新共同訳
     Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.    初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
     οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.    この言は、初めに神と共にあった。
     πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν    万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
     ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων:    言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
     καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.    光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 フランス語「クリストフ」(Christophe)はギリシア語「クリストフォロス」に由来します。「クリストフォロス」(Χριστόφορος) はギリシア語で「キリスト」を表す「クリストス」の語根「クリスト」 "Χριστ-" と、「運ぶ人」を表す「フォロス」"-φορος" を、繋ぎの音 "-ο-" で接合した合成語です。すなわち「クリストフォロス」は「キリストを運ぶ人」という意味であって、実在した歴史上の人物の名前ではありません。この事実が端的に示すように、キリストを肩に乗せて荒天の中を進む聖クリストフの姿は、キリストを心に受け容れて、キリストと共に地上を旅する教会と信仰者を象徴しています。





 反宗教改革の時代に生きたカトリックの画家ペーター・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577 - 1640)は、アントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画において、「クリストゥストレーガー」(Christusträger)すなわち「クリストフォロス」(Χριστόφορος 「キリストを運ぶ者」)を主題に一連の作品を描き、「キリストを受け容れる信仰」という不可視のテーマを美しい絵画に表現しています。上の写真はルーベンスの三翼祭壇画を開いて撮影したものです。メダイユ彫刻家テラックもまた、ルーベンスと同様に、困難な旅を続ける地上の教会と信仰者、及びそれを庇護したまう神の限りなき恩寵を、この浮き彫り作品において巧みに可視化しています。

 ちなみに「レゲンダ・アウレア」のクリストフォロス伝は有名で、芥川龍之介はこの話に取材し、「キリシタンもの」作品群のひとつである「きりしとほろ上人伝」を書いています。「レゲンダ・アウレア」によると、幼子キリストは世界を創った造物主であるゆえに、世界よりも重いということになっています。しかしながら芥川の作品においては、幼子キリストが重い理由は、世の罪を背負ったからということになっています。「レゲンダ・アウレア」は荒唐無稽な内容が多いゆえに十三世紀当時からしばしば批判されてきました。これに比べて芥川の「きりしとほろ上人伝」は、優れて薫り高い文学作品となっています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。幼子イエス・キリストも聖クリストフも、その顔はいずれも直径一乃至(ないし)一・五ミリメートルの円内に収まりますが、目鼻立ちが整っているばかりでなく、心の動きが手に取るように分かる優れたできばえです。身体各部の比例が正しいのはもちろんのこと、聖人の髪や衣、逞しい筋肉がうかがえる腕と脚、杖をつかみ幼子を支える大きな手、幼子の手足と世界球、川面に突き出た岩、砕ける波、背景の木々や建物など、すべてが実物と見まがう写実性を以て表され、渡河する聖人を眼前に見るかのような錯覚さえも覚えさせます。

 メダイユ彫刻家テラックの署名は、クリストフの後方に刻まれています。筆者(広川)はこの彫刻家の詳しい経歴を知らないのですが、テラックの作品は筆者が知る限りすべてカトリックのメダイユで、いずれも優れた芸術性と卓越した技量が無ければ制作し得ない名品揃いです。テラックが専門的に制作した信心具としてのメダイユ、いわゆる「メダイ」は、その多くが直径二センチメートルに満たない小品であり、美術品として注目される機会が少ない分野の作品です。それにもかかわらずテラックは、手掛けるすべての作品を芸術の水準に高めています。特に本品は保存状態が良く、細部まで完全な状態で残っているゆえに、テラックの浮き彫りに備わる優れた芸術性がよくわかります。世間からは軽視され、しばしば「ボンデュズリ」(bondieuserie フランス語で「神様趣味」)とも揶揄された信心具制作の分野において、これほどまでに高い水準を常に保ちつつ、自ら一流のアーティストと名乗ることのなかったテラックは、たいへん謙虚な職人肌の芸術家であったことがわかります。


 本品にメダイユ工房の刻印はありませんが、この作品が制作された 1910年代には、テラックの作品はパリの宝飾品工房サヴァールのメダイに採用されていました。したがって本品も恐らくサヴァールが製作したメダイであろうと考えます。

 サヴァール(Société Anonyme des établissements Savard et Fils, 22 rue Saint-Gilles, Paris)は、宝飾品職人フランソワ・サヴァール(François Savard, 1804 - 1875)が 1820年代にパリのマレ地区に開いた店(作業場)を起源とする工房です。フランソワ・サヴァールは真鍮またはブロンズの表面に金を張った素材(「オール・ドゥブレ」 or doublé あるいは「プラケ・ドール・ラミネ」plaqué d'or laminé)を発明しましたがこの発明は息子オーギュスト (Auguste Savard) に受け継がれ、1893年以降、「ティトル・フィクス」(TITRE FIXE)または「フィクス」(FIXE)の商標で全盛期を迎えました。「ティトル・フィクス」または「フィクス」は金が厚いために磨滅しにくく、変色も起こらない高品質のジュエリーで、十九世紀半ばから二十世紀前半のフランスにおいて人気を集めました。このメダイは金張りではありませんが、「ティトル・フィクス」ブランドのものと同様に、高い品質に仕上がっています。





 幼子イエスとクリストフを取り巻くように、次の言葉がフランス語で刻まれています。

  Regarde St. Christophe, puis va t'en rassuré.  聖クリストフを眺め、心安らかに行け。


 中世以来、クリストフの絵や像を見た者は、その日のうちに「悪(あ)しき死」、すなわち臨終の場に司祭が立ち会わない突然の死に遭うことが無いと信じられてきました。それゆえクリストフのメダイには、上のような言葉がしばしば刻まれます。下の写真は南ドイツで1423年に刷られた手彩色木版画です。教会を訪れる巡礼者はこの札を貰い、家の中の良く見える場所に張り付けました。版画の下部にはラテン語で次の言葉が書かれています。

  Christofori faciem die quacumque tueris, illa nempe die morte mala non morieris.   クリストフォロスの顔を見れば、その日は決して悪しき死に遭うことがない。





 下の写真はロベール・カンパン (Robert Campin, 1378 - 1444) が受胎告知を描いたテンペラ板絵で、暖炉の上の壁面に、上掲の版画と同じようなクリストフの彩色画が張られています。二枚目に示したのは拡大写真です。ロベール・カンパンが「受胎告知」を描いたこの作品は、現在ベルギー王立美術館に収蔵されています。


(下) Robert Campin, dit le maître de Flémalle, "l'Annonciation", 1420, tempera sur bois, 61 x 63 cm, les Musées royaux des beaux-arts de Belgique (MRBAB), Bruxelles






 「聖クリストフの姿(絵や像)を見る者は、その日のうちに悪しき死に遭うことが無い」という言い伝えは、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の冒頭部分でも引用されています。





 「クリストフの姿を見る者は、その日のうちに悪しき死に遭うことが無い」ゆえに、この聖人のメダイには、人々が乗り物に乗ったり危険なスポーツを楽しんだりする様子がしばしば刻まれます。メダイを所持する人が聖人の図柄を見て、加護を受けるべく期待されているのです。

 本品の裏面には土煙を上げて疾走する初期のクラシック・カーが浮き彫りにされています。この自動車にはエンジンを始動するためのクランクが見当たりません。セルモーターが搭載され始めた 1910年代後半頃の型式でしょうか。1920年代に入ると屋根付きの自動車が広まりますが、1910年代の自動車はまったくの無蓋であるか、せいぜい幌付きです。サスペンションや車輪は馬車の時代と変わらない構造ですが、エンジンだけが強力になっており、華奢な車体が何とも頼りなさそうに見えます。


(下 参考写真) 1910年頃のフランスの絵葉書






 自動車のハンドルを握るのは男性で、飛行帽のような帽子を被っています。隣には女性が乗っており、長い髪が後ろになびいています。後ろの空には飛行船が浮かんでいます。道路のいちばん手前、メダイの縁に近いところに、テラックのサインが刻まれています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。車の乗員は顔のサイズが直径一ミリメートルに足りませんが、目鼻がきちんと表されています。また風を防ぐための厚着にもかかわらず、男性は男性らしい体つき、女性は女性らしい体つきが巧みに表現されています。フロントグリルやカンテラ、泥除け、サスペンションなどの自動車の細部、未舗装の土道の凹凸、不定形の土煙、下草や木々の枝と葉、遠景の建物と飛行船に至るまで、この面の精緻さと優れた写実性も表(おもて)面に劣りません。本品はおよそ百年前に製作された古い品物ですが、新品同様の保存状態であるゆえに、テラックの作品が有する極めて高い芸術性が手に取るように分かります。真正のアンティーク品として、まことに稀有な例といえます。





 本品の直径は 18.6ミリメートルで、大きすぎず小さすぎず、ペンダントとして使うのにちょうど良いサイズです。しかしながら日々身に着けて愛用すれば、突出部分の磨滅は避けられません。本品をこの状態のまま保存したい場合は、ルース・ジェムストーン用の陳列ケースの使用をお薦めいたします。ルース・ジェムストーン用の陳列ケースは当店で販売しておりますが、ご注文時にお申し付けいただければ割引価格にてお譲りいたします。


 当店の商品は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、現金の分割払い(二回、三回、六回、十回など。金利手数料無し)でもご購入いただけます。当店ではお客様のご希望に出来る限り柔軟に対応しております。ご遠慮なくご相談くださいませ。





本体価格 22,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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