細密なグラヴュール(エングレーヴィング)により、多くの時間と労力を掛けて制作されたアンティーク・カニヴェ。
カニヴェ表(おもて)面には、「無原罪の御宿り会」(la Congrégation de l'Immaculée Conception) の修道女が描かれています。黒いアビ(habit ハビット、修道服)と白いガンプ(guimpe ウィンプル、肩当て)、白いコワフ(coiffe 頭巾)を身に着けた若い修道女は、腰に提げたシャプレ(数珠、ロザリオ)を爪繰って、目を閉じまま黙想と祈りに耽っています。
本品の主題となっている「無原罪の御宿り会」とは、ピエール=ビヤンヴニュ・ノアイユ神父 (Pierre-Bienvenu Noailles,
Vénérable, 1793 - 1861) が 1820年、フランス南西部のボルドー(Bordeaux アキテーヌ地域圏ジロンド県)に設立した複合的な修道団体、「聖家族会」(la
congrégation de la Sainte-Famille de Bordeaux) に属する女子修道会です。「聖家族会」は互いに異なった役割を分担する幾つかの修道会で構成されており、「無原罪の御宿り会」は教育事業に携わっています。
金属版インタリオ(intaglio 凹版)による19世紀のカニヴェには、グラヴュール(エングレーヴィング)とオー・フォルト(エッチング)が使われます。これら二つの技法を比べると、グラヴュールはオー・フォルトに比べてはるかに多くの時間と手間が掛かる半面、非常に精密な表現が可能です。一方、オー・フォルトは制作が楽である半面、特に大きな作品においては、画面の精密さに劣ります。
カニヴェのようなミニアチュール版画においては、画面の小ささゆえに、オー・フォルトであっても自然と精緻な作品となり、その仕上がりはグラヴュールに引けを取りません。したがって、カニヴェの画面にはオー・フォルト(エッチング)がよく使われます。多大な労力を要するグラヴュールを用いなくても、制作が楽なオー・フォルトで十分な細密さを得られるからです。
しかるに本品の修道女は、ほぼ全面的にグラヴュール(エングレーヴィング)で描かれています。オー・フォルト(エッチング)によるのは、スティプル(点描)を別にすれば、コワフ(頭巾)側面の淡い影、ガンプ(肩当て)前面の淡い影、ロザリオの珠、首から提げた十字架と紐のみで、版画全体に占める面積は一割以下にすぎません。
本品が制作された1860年代から1870年代頃のグラヴュールは、スティール・プレートに人力で溝を刻む「スティール・エングレーヴィング」です。たとえ焼き入れ前であっても、スティール・プレートは銅版に比べて硬く、これに線を刻むには強い力が必要です。それゆえ、力を微妙にコントロールしなければならない曲線は、スティール・エングレーヴィングで表しにくいのですが、本品においては、正確にコントロールされた曲線により、黒い修道服、白いコワフ(裏側及び頭頂部)、白いガンプ(肩の部分)の襞と陰翳が、あたかも実物を見るように美しく再現されています。
グラヴュールとオー・フォルト、及び線と点描は、それぞれふさわしい部分に使い分けられています。すなわち粗衣である修道衣には、いくぶん硬さが感じられる仕上がりとなるグラヴュール(エングレーヴィング)が使われ、修道衣よりも薄いコワフ(頭巾)とガンプ(肩当て)には、柔らかい表現が持ち味のオー・フォルト(エッチング)が使われています。修道女の肌は、コワフとガンプよりもいっそう柔らかに表現する必要があるゆえに、スティプル(点描)が採用されています。
上の写真に写っている定規のひと目盛は 1ミリメートルです。修道女の目鼻口はいずれも 1ミリメートルほどの極小サイズですが、一平方ミリメートルあたり最大数十個に及ぶスティプルの深さと密度を調整することによって、生身のスール(修道女)を眼前に見るかのような立体性を表現し、若い女性の柔らかい肌、温かな体温さえも感じさせます。
修道女を取り巻く部分はエンボス(型押し)を施した切り紙細工となっています。修道女の頭上にある帯に、「トゥ・プール・ヴ、モン・ジェジュ」(Tout
pour Vous mon Jésus. フランス語で「イエスよ、すべては御身のために」の意)という言葉、修道女のすぐ下に「ルリジューズ・ド・リマキュレ・コンセプシオン」(religieuse
de l'Immaculée Conception 「無原罪の御宿り会」修道女)と書かれています。
裏面には、孤児救済、子供の教育、病者の世話、貧者への援助など多岐にわたって活動する「聖家族会」の祈りが、フランス語で記されています。内容は次の通りです。日本語訳は筆者(広川)によります。
O Dieu! qui par un privilège de votre miséricorde, avez daigné nous accorder pour protectrice, la plus pure ders vierges, faites qu'après avoir porté intact et immaculé le lis d'une inaltérable pureté, enseigné les enfants, soigné les malades et soulagé les pauvres, il nous soit donné de mourir entre les bras de la sainte famille de Jésus, Marie et Joseph. | 憐れみという恵みによりて、乙女らの中で最も清き乙女を我らの守護者と為し給える神よ。常に清らかなる百合を汚れなきままに守り給い、子らを教え給い、病者を世話し給い、貧者を助け給い、しかる後にその者を我らの許に来させ給いて、聖家族なるイエス、マリア、ヨセフの腕の中にて、生を全うさせたまえ。 | |||
Nous vous demandons cette grâce par Jésus-Christ, votre Fils, qui
vit et règne avec nous en l'unité du St-Esprit, dans tous les siècles des
siècles, Ainsi doit-il. |
御身が独り子イエス=キリストによりて、この恩寵を我らに与え給え。イエスは聖霊と一つになり給い、世々に亙って我らとともに生き、統べ給う。アーメン。 |
この下にはカニヴェの図版番号 (805) に続いて、ブアス=ルベルの社名と詳しい所在地が記されています。
Bouasse-Lebel, 29, rue St. Sulpice, Paris ブアス=ルベル パリ、サン=シュルピス通29番地
ブアス=ルベル社 (Bouasse-Lebel Éditeur et Imprimeur) は、「ブアス=ルベル」と名乗ったエングレーヴァー、アンリ=マリ・ブアス
(Henri-Marie Bouasse, 1828 - 1912) が創業したカトリックの出版社で、数多くの美しいアンティーク小聖画の版元として知られています。
額装例
本品は 十九世紀半ば、わが国で言えば幕末から明治初年頃にフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、良質の中性紙に刷られているため、紙の劣化は無く、非常に良好な保存状態です。ミニアチュール版画としての出来栄えもたいへん優れており、お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。上の写真は別料金での額装例です。