美術作品に描かれたハレー彗星
La comète de Halley dans les arts
(上)
"The Great Comet of 1881" (Plate XI from
"The Trouvelot Astronomical Drawings", 1881), by Étienne Léopold Trouvelot (1827 - 1895)
彗星の彗は掃除に使う箒(ほうき)のことですから、漢語の彗星はほうき星という意味です。コメット(英 comet 仏 comète)の語源はギリシア語のコメーテース・アステール(希
κομήτης ἀστήρ 髪のある星)で、コメーテースはコメー(希 κόμη, ης, ἡ 髪)の形容詞形ですから、コメットは髪のある星という意味です。
地球から観測される彗星には、軌道が太陽を周回するものと周回しないものがあります。太陽を周回しない彗星は、地球の近傍をただ一度しか通過しません。太陽を周回する彗星のうち、公転周期が二百年未満のものを短周期彗星、それ以外を長周期彗星と呼んでいます。短周期彗星はカイパー・ベルト(英
the Kuiper belt 註1)に、長周期彗星はオールトの雲(英 the Oort cloud 註2)に、それぞれ起源を有すると考えられています。
公転周期 3.3年のエンケ彗星は、短周期彗星としてよく知られています。しかしながらエンケ彗星の 3.3年は公転周期としては極端に短く、多くの短周期彗星は数十年ないし百数十年の周期で太陽を周回しています。また毎晩同じ時刻にほぼ同じ位置に見える惑星とは違って、彗星は地球の近くに突然現れますから、エンケ彗星のような短周期彗星であっても、同じ彗星が繰り返して現れていることにはなかなか気づきません。
それゆえ古来彗星は予期せぬ時に出現する神秘的な天体と考えられ、吉兆あるいは凶兆と捉えられました。彗星が地球に衝突すると気候に甚大な影響があり、更新世と完新世の境界に当たる亜氷期(ヤンガー・ドライアス期)は、実際に彗星の衝突によって惹き起こされたとの説が有力です。ヤンガー・ドライアス期の到来が彗星の衝突によるとすれば、これは白亜紀末の小惑星衝突以来の大災厄であると同時に、人類が農耕を始めたのも、エリコが建設されたのも、ギョベクリ・テペ(トルコ南東部の大遺跡)が造営されたのも、すべては彗星がもたらした恵みといえます。
しかしながら昔の人が彗星に迷信的恐怖や希望を抱いたのは物理的な衝突を想定したせいではなく、むしろ彗星を天界から人間に向けて発せられたメッセージと見做してのことでした。一世紀の博物学者大プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 23/24 - 79) は
「ナートゥーラーリス・ヒストリア」(羅 "LIBRI NATURALIS HISTORIAE" 「博物誌」)第二巻三十二章から三十四章で、彗星をはじめ突然姿を現す各種の天体について論じ、それらは「大部分の人によって、恐ろしく簡単には慰撫されない天体」( terrificum
magna ex parte sidus atque non leviter piatum)と考えられていると述べています。しかるにその一方で、アウグストゥスが或るコメーテースの出現を喜び、これを自身と同一視したとも述べています。
このページでは西ヨーロッパにおいて彗星が描かれた幾つかの美術作品を概観します。これらの作品に描かれているのは、いずれもハレー彗星です。
【バイユーのタペストリーと、1066年のハレー彗星】
中世前期のイングランドは九世紀以来アングロ・サクソン系のウェセックス朝が治めていました。十一世紀半ばに即位したエドワード( Edward,
c. 1004 - 1042 - 1066)は懺悔王あるいは証聖王(the Confessor)とも呼ばれる信仰篤い王で、妃がいるにもかかわらず貞潔を守り、跡継ぎとなる子を儲けませんでした。
エドワード王が亡くなると王の義兄ハロルドがハロルド二世(Harold II, 1022 - 1066 - 1066)として即位しましたが、エドワードと遠い血縁であったノルマンディー公ギュイヨームがこれに異を唱えてイングランドに侵攻し、即位したばかりのハロルド二世は
1066年10月14日、ヘイスティングズ近郊の戦闘で戦死しました。ギュイヨームはイングランドの諸都市を攻めて次々に陥落させ、同年12月25日、ウェストミンスター聖堂において、イングランド王ギュイヨーム二世(Guillaume
le Conquérant, William the Conqueror, 1027/28 - 1066 - 1087)として戴冠しました。
ノルマンディーの海岸から数キロメートル内陸にあるバイユー(Bayeux ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)は、ガロ=ロマン期から続く古都です。十八世紀末頃まで、当地の司教座聖堂宝物庫には、バイユーのタピスリ(仏
la tapisserie de Bayeux)、別名マチルド妃のタピスリ(仏 la tapisserie de la reine Mathilde 註3)と呼ばれる刺繍作品が保管されていました。本来タピスリ(仏
tapisserie)、タペストリー(英 tapestry)とは絵柄を織り出した作品のことですが、バイユーのタピスリは長さ 68.3メートルの亜麻布を使い、ノルマンディー公によるイングランドの征服を、刺繍によって描いています。現在このタピスリは、バイユー神学校を改装した博物館施設、ギュイヨーム征服王センター(仏
le centre Guillaume-le-Conquérant)に展示されています。
上の写真の部分には、ハロルド二世の家臣たちが彗星を見上げて驚く様子が刺繍されています。"ISTI MIRANT STELLAM."
はラテン語で「この人たちは星に驚いている」という意味です。1066年4月24日頃から5月1日頃まで、ハレー彗星が肉眼で観察できました。これは同年1月に即位したハロルド二世にとって不吉な前兆となりました。一方勝者のギュイヨームから見れば、ハレー彗星は吉兆であったことになります。
【エアドウィン・ソールターと、1145年のハレー彗星】
フランスの E, D, P. シヤンス(Édition Diffusion Presse Sciences)が発行する「アストロノミー・アンド・アストロフィジックス」("Astronomy
& Astrophysics")は最も権威ある天文学雑誌ですが、1987年に発行された同誌 187巻 1, 2号に、ロバータ・J・M・オルソン氏とジェイ・M・パサチョフ氏の共著論文「ジョット・ディ・ボンドーネをはじめ西洋の美術家に描写されたハレー彗星に関する新知見」(Olson,
R. J. M. & Pasachoff, J. M, "New Information on Comet p/ Halley
as Depicted by Giotto Di Bondone and Other Western Artists", Astronomy
and Astrophysics, Vol. 187, NO. 1&2/NOV(I), 1987 註4)が掲載されました。同論文によると、ハレー彗星はヨーロッパにおいて幾つもの図像に描かれています。1066年に地球に接近したハレー彗星がバイユーのタピスリに表現されていることはよく知られていますが、同論文ではこれ以外にも様々な美術作品を取り上げています。1145年に出現したハレー彗星が、エアドウィン・ソールターに描かれているのもその一例です。
(上) 写字僧エアドウィンによるソールター(詩篇)の挿絵。1160年頃。
エアドウィン・ソールター(Tripatrum psalterium Edwini, the Eadwine Psalter エアドウィン詩篇)はカンタベリーのエアドウィンによる写本で、当時カンタベリーにあったユトレヒト・ソールター(der
Utrechter Psalter 1732年以降はユトレヒト大学図書館が収蔵)をさらに豪華に筆写した詩篇集で、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジが収蔵しています。このソールターが制作されたのは
1160年頃ですが、写字僧エアドウィンは 1145年に出現したハレー彗星の絵をこの本に描き込んでいます。
天文学では彗星核を取り巻く気体をコマといいますが、これは頭髪、乱れ髪を意味するラテン語コマ(羅 COMA)を借用したものです。長時間露光の写真で見ると、コマはぼんやりとした光球にしか見えませんが、視力の良い人が肉眼で観測すれば、コマには箇所によって濃淡が判別できるはずであり、そもそもコマという名前も乱れ髪のように見えるからそう名付けられています。大プリニウスも「ナートゥーラーリス・ヒストリア」第二巻三十二章の冒頭で、彗星は「血の色の髪を逆立て、まるで髪を乱したように、頭頂に剛毛がある」と書いています。「頭頂に剛毛がある」(
comarum modo in vertice hispidas)との表現は、コマに明暗が判別できたことを伺わせます。エアドウィンが描くハレー彗星のコマに放射状の模様があるのも、コマの部分ごとの明暗を描写したものでしょう。
1986年4月撮影
上の写真は 1986年にハレー彗星が地球に接近した際、マウナ・ケア山で撮影されたもので、「アストロノミー・アンド・アストロフィジックス」の上掲論文に掲載されています。この写真において、ハレー彗星の尾はエアドウィン・ソールターの挿絵と同様の形に見えます。星が線状に映っていることからもわかるようにこの写真は長時間露光によりますが、非常に優れた視力を持つ人であれば、彗星を肉眼で見てもコマの明暗の斑(むら)や扇状に開大した尾が見えるでしょう。したがってエアドウィン・ソールターの彗星の絵は、一見したところ非現実的描写に思えますが、実際の観察を反映しているとも考えられます。
【スクロヴェーニ礼拝堂の降誕画と、1301年のハレー彗星】
新約聖書は旧約聖書の上に成り立っています。福音書はイエスが旧約で預言されたメシアであることを証明するために書かれており、中でも「マタイによる福音書」は旧約に通暁したユダヤ人を対象とするゆえに、旧約を半ば引用する形で記述されています。しかるに旧約聖書では、「民数記」
24章 17節においてエドム人の預言者バラムが、モアブとエドムの征服者であるダヴィデ王の出現を星に喩えて預言し、「イザヤ書」 14章 12節はバビロンの王を「明けの明星、曙の子」と呼んでいます。
「マタイによる福音書」 2章 1節から 12節によると、明るく輝く新星を認めた
東方のマギが、ユダヤに王が出現したと考え、イエスがベツレヘムでお生まれになっておよそ二年後に、幼児イエスを礼拝しにやってきました。マギが星の出現を見てユダヤに王が出現したと考えたのは、このように
星と王を結びつける東方の伝統に拠ります。
イタリア北部のパドヴァには、高利貸しエンリコ・スクロヴェーニ夫妻が滅罪のために建設した
スクロヴェーニ礼拝堂があります。礼拝堂は 1300年に定礎が行われ、1305年に完成しました。スクロヴェーニ礼拝堂は内壁のほぼ全面がジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto
di Bondone, c. 1267 - 1337)のフレスコ画で覆われており、黎明期のイタリア・ルネサンス美術における最も重要な作例と見做されています。
ジョットと助手たちが礼拝堂の南北内壁に制作したフレスコ画連作は四層になっており、第一層は聖母マリアの生涯、第二層と第三層はイエス・キリストの生涯を描きます。南壁第二層の東端にはイエスの誕生が、その左にはマギの礼拝が描かれています。
マギをベツレヘムに導いた星は、しし座アルファ星(αLeonis)のレーグルスと考えられています。レーグルス(羅 REGULUS)はレークス(羅
REX)の語幹(REG-)に指小辞を付けた語で、小さな王という意味です。しかしながらジョットはこの絵において、聖家族を覆う簡素な建屋の上空に、赤く輝く彗星を描いています。夜空に突然現れる星は彗星だけではなく、超新星もありますが、ジョットは「マタイによる福音書」
2章 2節が言及する星を彗星と解釈したのでしょう。
(上) Giotto,
"L'Adorazione dei Magi", 200 x 185 cm, affresco, la Capella degli Scrovegni, Padova
ハレー彗星は 1301年に地球に接近し、この年の 9月半ばから 11月初頭頃まで肉眼で観測できました。ジョットは自身が目撃したハレー彗星をモデルに、おそらく美術史上で初めて、マギを導いた星を彗星として描いています。ジョットが描くベツレヘムの星あるいはハレー彗星の頭部は金箔の八芒星に黄と赤と金色を塗り重ねており、尾も同様の色を重ねています。赤をふんだんに使った色合いは、コメーテースが「血の色の髪を逆立て」(horrentes
crine sanguineo)ている、という大プリニウスの記述(「ナートゥーラーリス・ヒストリア」第二巻三十二章冒頭)を思い起こさせます。
ベツレヘムの星が実際にはどのような天文現象であったのかは不明で、惑星の合(ごう)や超新星であったとする説もあります。ジョットの描写は革新的でしたが、アレクサンドリアのオリゲネス(Ὠριγένης
ὁ Ἀλεξανδρεύς, Ὠριγένης Ἀδαμάντιος, 184/185 - 253/
254)もジョットと同様に、ベツレヘムの星を彗星と考えました("κατὰ Κέλσου", I, 59)。
「アストロノミー・アンド・アストロフィジックス」の上掲論文は、ジョットが自ら目撃したハレー彗星をモデルにスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画を描いたと論じ、弟子たちが降誕画に描いた様式的な星を、ジョットが描いた自然主義的な彗星と比較しています。スクロヴェーニ礼拝堂の壁画制作に当たってジョットは少なくとも一人の神学者に意見を求めたとされますが、ここで革新的表現を為し得たのは、私的礼拝堂ゆえに画家の裁量できる範囲が大きかったからでしょう。またパドヴァで
1222年に設立された大学では当初は神学と弁証法が教えられましたが、十四世紀中には医学、数学、天文学などの近代自然科学が講じられるようになりました。パドヴァ大学では
1592年から 1610年までガリレオ・ガリレイが教授を務めています。ジョットの彗星が様式化されず自然主義的に描写されている背景には、パドヴァならではの精神的雰囲気があると考えられます。
【ルツェルン年代記と、1456年のハレー彗星】
(上) ein Bild aus der Luzerner Chronik, page 124 folio 61v, für 1456
中世から近世にかけてのヨーロッパでは、ニュルンベルク年代記(ドイツ)、フロワサールの年代記(フランス)等、いくつもの有名な絵入り年代記が制作されました。同様の絵入り年代記はスイスでも制作され、大ディーボルト・シリング(Diebold
Schilling der Ältere, c. 1445 - c. 1486)によるベルン年代記(独 die Berner Chronik
oder Berner Schilling)、小ディーボルト・シリング(Diebold Schilling der Jüngere, ? - 1515)によるルツェルン年代記はよく知られています。ルツェルン(独
Luzern 仏 Lucerne)はスイス中央部ルツェルン湖畔にある古い都市です。ルツェルン年代記はドイツ語でルツェルナー・シリング(独 die
Luzerner Schilling ルツェルンのシリング本)またはルツェルナー・クロニーク(独 die Luzerner Chronik)と呼ばれています。
ルツェルン年代記の 52ページ(図版 21v)には 1400年の彗星、124ページ(図版 61v)には 1456年の彗星、155ページ(図版
77r)には 1472年の彗星、445ページ(図版 220r)には 1506年の彗星が記述されています。上の写真は 1456年の図版で、二つの彗星が描かれています。二つの彗星のうち、少なくとも一つはハレー彗星です。この絵においても彗星は二つとも赤く彩色されていますが、これはプリニウス以来の伝統的観念によると思われます。二つの彗星の影響によって地上では疫病が流行し、双頭の子牛が生まれる、血の雨が降る、ローマでは空から肉が降ってくる、ナポリでは地震が起こるなど、天変地異が続発しています。
この時代のヨーロッパはオスマン・トルコの圧迫に苦しんでいました。1453年にコンスタンティノープルを陥落させたメフメト二世は、1456年にハレー彗星が出現したとき、ベオグラードを包囲中でした。当時のベオグラードはキリスト教文明圏の橋頭堡であり、いわばヨーロッパのドミリュヌ(仏
une demi-lune 弦月堡)です。オスマン・トルコは 1440年にベオグラード攻略に失敗した後、1456年に二度目の包囲を行っていましたが、ヨーロッパの命運はこの戦闘の帰趨にかかっていると考えられました。当時の教皇カリクストゥス三世は悪魔すなわちオスマン・トルコからの解放を願う特別なミサを各地の教会に命じたほか、一日に唱える天使祝詞の回数を増やすことを全ての人に求めました。この結果ベオグラードはトルコの包囲を再び耐え抜いて、ヨーロッパはひと時の安堵を得ることになります。
註1 太陽から地球までの距離を一天文単位(1 au)という。海王星の公転軌道は、太陽からおよそ 30天文単位離れている。海王星の軌道付近に始まり、太陽から50天文単位のあたりに至る黄道面付近には、直径100キロメートルを超えるものだけで10万個に上る小天体が存在する。この円盤状の空間をカイパー・ベルトと呼んでいる。冥王星はカイパー・ベルト天体の一つで、その軌道は太陽からおよそ30ないし40天文単位離れている。
註2 オールトの雲は太陽から一万ないし十万天文単位の範囲にあって、太陽系を球状に取り囲む数兆個の天体群である。ここにある天体は二酸化炭素、水、メタンなどから成る氷と考えられる。オールトの雲は長周期彗星及び非周期彗星の起源として想定されているが、直接観測することができないので、その存在は実証されていない。
註3 マチルド・ド・フランドル(Mathilde de Flandre, c.1031 – 1083)は、ギュイヨーム征服王の妃である。ベネディクト会士でもあった歴史家ベルナール・ド・モンフォーコン(Bernard
de Montfaucon, 1655 – 1741)は、タピスリの刺繍がマチルドによると考えた。マチルド妃のタピスリという別名はベルナールの説に基づく。
註4 論文著者の当時の所属は、ロバータ・J・M・オルソン氏がウィートン大学美術学部(Art Department, Wheaton College,
Norton, MA02766, U. S. A.)、ジェイ・M・パサチョフ氏がウィリアムズ大学ホプキンズ天文台(Williams College,
Hopkins Observatory, Williamstown, MA01267, U. S. A.)。
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