ルイ・オスカル・ロティ
Louis Oscar Roty, 1846 - 1911
ルイ・オスカル・ロティ 1897年頃
ルイ・オスカル・ロティ (Louis Oscar Roty, 1846 - 1911) は、ジュール=クレマン・シャプラン (Jules-Clement Chaplain, 1839 - 1909)、アレクサンドル・シャルパンティエ (Alexandre Charpentier, 1856 - 1909) と並び、アール・ヌーヴォー期のフランスで最も高く評価されているメダイユ彫刻家のひとりです。
フランスの切手やコインの図柄として繰り返し採用され、フランス人の誰もが知っている「ラ・スムーズ」(la Semeuse 種播く女 註1)の図像は、ロティが1887年に原型を製作したメダイユの図柄が元になっています。オルセー美術館には、この作品の原型を含め、ロティ作品の蝋の原型が150点以上収蔵されています。
パリ15区とシャンボン=ラ=フォレ(Chambon-la-Foret サントル地域圏ロワレ県)には「オスカル・ロティ通り」(rue Oscar
Roty) がありますし、ジャルジョー(Jargeau サントル地域圏ロワレ県)には「オスカル・ロティ美術館」(le musée Oscar-Roty)
と「オスカル・ロティ広場」があります。
ロティの作品はヨーロッパのあらゆる美術館に収蔵されていますが、まとまった数を収蔵する館としては、パリのオルセー美術館、ジャルジョーのオスカル・ロティ美術館、ハンブルク美術館
(Hamburger Kunsthalle) が挙げられます。
【ルイ・オスカル・ロティの生涯】
ルイ・オスカル・ロティは1846年6月11日、パリで生まれました。1860年頃からパリの国立装飾美術学校 (L'École nationale
supérieure des Arts Décoratifs, ENSAD) でルコック・ド・ボワボードラン (Horace Lecoq de
Boisbaudran, 102 - 1897) に師事し、1864年からはパリの国立高等美術学校 (L'École nationale supérieure
des beaux-arts, ENSBA) でデュモン (Augustin-Alexandre Dumont, 1801 - 1884) から彫刻を、ポンカルム
(François Joseph Hubert Ponscarme, 1827 - 1903) からはメダイユ彫刻を学びました。
有名な逸話によると、国立高等美術学校に入学した当時のロティは絵画を学びたかったのですが、画材を買うために用意していた二十フランを紛失してしまい、その日一日デュモン教授の部屋で過ごしました。そのときに眼にした作品に惹かれて彫刻を専攻することにしたといわれています。
ロティは 1872年にローマ賞二等、1875年に同一等を獲得し、続く三年をローマのヴィッラ・メディチで過ごし、研鑽を積みました。
1878年、ロティはマリ・ブーランジェ (Marie Boulanger) と結婚します。マリの父、ピエール・ブーランジェ (Pierre François Marie Boulanger, 1813 - 1891) は高名な金具職人で、1859年から1867年にかけて、ヴィオレ=ル=デュク (Eugene Emmanuel Viollet-le-Duc, 1814 - 1879) の下でノートル=ダム・ド・パリの修復に参加し、西側正面の中央入り口の扉のために金具を製作し、左右入り口の扉の修復も行っています。
当時のメダイユはみな円形でしたが、1880年、ロティは少女を浮き彫りにした長方形の作品を発表して注目を浴びました。四角いメダイユという斬新なアイディアはイタリア留学でルネサンス美術を研究した成果でしたが、人々はこれを高く評価し、ロティのもとにはメダイユ製作の依頼が殺到しました。
1882年のル・サロンで二等、1885年のル・サロンで一等のメダルを獲得したあと、ロティはレジオン・ドヌール・シュヴァリエを受章しました。
1888年、フランス学士院アカデミー・デ・ボザールは、ジュール=クレマン・シャプラン (Jules-Clement Chaplain, 1839
- 1909) の提案により、メダイユ彫刻部門の会員を一人増やして計二名とすることとし、ロティが新会員に選ばれました。
翌1889年のパリ万博で、ロティはグラン・プリを受賞し、レジオン・ドヌール・オフィシエを受けました。さらに1900年のパリ万博で再びグラン・プリを獲得し、同年にレジオン・ドヌール・コマンドゥールを受章しました。
ロティはこの頃から体調がすぐれず、1902年以降はごくわずかの作品しか製作していません。ル・サロンは規約の改正によりメダイユ彫刻部門を独立させることになりましたが、ロティは新部門でメダルを獲得した最初のメダイユ彫刻家となりました。
【ラ・スムーズ 種播く女】
「ラ・スムーズ」(la Semeuse)とは「種を播く女性」という意味です。この図像において、女性は種の入った布袋を左肩に掛け、右腕を伸ばして畑に種を播いています。女性の頭にはフリジア帽があり、長い髪は向かい風に靡(なび)いています。
(下) 1964年のフランス共和国五フラン貨。両面ともオスカル・ロティによる 1897年のデザインで、表(おもて)面にはラ・スムーズを、裏面にはオリーヴ、シェーヌ、小麦をあしらいます。
フランス第二共和政 (1848 - 1852) 時代に穀物の女神ケレスを刻んだ貨幣が製作され、第三共和政 (1870 - 1940) 初期にもこの型が使用されましたが、レオン・ブルジョワ内閣
(1895 - 1896) の財務大臣であったポール・ドゥメ (Paul Doumer, 1857 - 1932) は、1896年、フランス共和国の新しいシンボルをあしらった貨幣のデザインを、ルイ・オスカル・ロティに委託しました。
これを遡る九年前、1887年に、ロティはフランス農業省の委託を受けて、種を播く女性をデザインした型を製作していましたが、農業省のメダイユは結局鋳造されませんでした。ロティはこの型を再利用して新硬貨を製作し、1897年に「ラ・スムーズ」の五十サンチーム貨が発行されました。1903年には「ラ・スムーズ」は郵便切手にも採用されました。
「ラ・スムーズ」はマリアンヌ (Marianne) と並んでフランス共和国を象徴する図像です。ロティの図像を継承した「ラ・スムーズ」は、現行のフランス十ユーロ貨、二十ユーロ貨、五十ユーロ貨に採用されています。
註1 「マタイによる福音書」第十三章一節から八節、「マルコによる福音書」第四章一節から九節、「ルカによる福音書」第八章四節から八節には、キリストが語り給うた「種を播く人」の譬え話が記録されています。この譬え話において、種は福音を象徴します。また種を播く人は、第一義的にはキリストご自身を象徴します。
(上) Sir Edward Burne-Jones, "The Sower", a design for stained glass at Brighouse, West Yorkshire, 1896
したがって「種を播く人」の男性形「ル・スムール」(仏 le Semeur 種を蒔く男)は、キリストを指します。「ラ・スムーズ」はキリストをマリアンヌに置き換えていますが、やはりキリスト教の文化的背景に由来する図像です。