ジョルジュ・デュプレ
Georges Dupré, 1869 - 1909



 ジョルジュ・デュプレ 1902年頃


 ジョルジュ・デュプレ (Georges Dupré, 1869 - 1909) は、1869年10月24日、フランス南東部のサン=テティエンヌ(Saint-Etienne ローヌ=アルプ地域圏ロワール県)で生まれました。サン=テティエンヌは16世紀以来武器生産で有名な都市で、ジョルジュ・デュプレの大伯父にあたるメダイユと貨幣の高名な彫刻家オギュスタン・デュプレ (Augustin Dupré, 1748 - 1833) も、もともと武器の彫刻師でした。少年ジョルジュ・デュプレはサン=テティエンヌの工芸学校 (l'Ecole des Arts Industriels) で彫金技法を学びました。

 ジョルジュ・デュプレは 1883年、14歳の頃にパリに出て、彫刻家ウジェーヌ・マリオトン (Eugène Marioton, 1854 - 1933) のアトリエで長年働いたあと、1892年、23歳の頃に、パリ国立高等美術学校 (l'Ecole Nationale des Beaux-Arts) に入学し、ガブリエル=ジュール・トマ (Gabriel-Jules Thomas, 1824 - 1905) とオスカル・ロティ (Louis Oscar Roty, 1846 - 1911) の指導を受けることになりました。当時の新入生は入学時に作品を提出し、教授や先輩たちから厳しい批評を受けるのが慣例でした。ジョルジュ・デュプレも「マルリの馬」の一頭を写した鉄製彫刻を提出しましたが、在校生の誰も及ばないほどの見事な出来栄えでロティをうならせたという逸話が残っています。


 翌1893年、ジョルジュ・デュプレはフランス美術家協会 (la Société des artistes français) のサロン展に数点を出品して注目を集め、同年のローマ賞メダイユ部門では三位 (deuxième second grand prix) に入賞しました。

 1896年には「ミネルヴァ像の下で懇願するオレステース」("Oreste au pied de la statue de Minerve") によってローマ賞一等を獲得します。ローマで制作したメダイユ「サリュ・オ・ソレイユ」("Salut au Soleil")、「メディタシオン」("Meditation") はいずれもパリにおいて絶賛され、両作品は 1899年のサロン展でも三位入選を果たします。次いで1901年には二位、1904年には一位に入選し、ジョルジュ・デュプレの名声は揺るぎないものになりました。


【下】 「サリュ・オ・ソレイユ」(1899/1900年) 64.3 x 50.8 mm ブロンズに銀めっき 当店の商品です。



【下】 「メディタシオン」(1899/1900年) ブロンズ 当店の商品です。




 ジョルジュ・デュプレは 1909年、わずか39歳の若さで亡くなったために、作品の数は少ないのですが、その一つ一つが素晴らしい出来栄えです。それゆえジョルジュ・デュプレは、フランスのメダイユ彫刻史における最も重要な彫刻家のひとりと考えられています。




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