アンティーク品になぜ温かみを感じるのか ― 「摩滅した美術品」と「生きて働く想像力」の親和性に関する論考
D'ou l'affection pour l'etat lisse des objets anciens? - un essai sur l'intimité
entre l'etat d'usure et notre "imagination qui vive"
(上) 恩寵の光を受けるマリア・マグダレーナ アルマ・クリスティのあるピエタ ローマ巡礼の大型メダイ 30.4 x 25.1 mm 教皇領ローマ 十七世紀
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アンティーク品に特有の個性的特徴、すなわち破損や欠損、摩滅、変色や褪色、名前や日付の記入や刻印などは、その品物がたどってきた年月の刻印であり、来歴の記録です。アンティーク品の持つ《歴史性》に重点を置いて考えるならば、古さゆえの摩滅や変色は、歴史と不可分な存在である古美術品にとって本質的属性であるといえます。一見したところ欠点とも見えるこれらの属性こそ、個々のアンティーク品を一点限りのアンティーク品たらしめている本性的魅力です。このことは
別稿にて実例を挙げながら詳しく論じました。
しかるにアンティーク品が有する特性は、《歴史性》だけに留まりません。美術品であるアンティーク品、すなわち古美術品は、現代の美術品と同じく美術品であって、単なる「死せる物品」、「過去に属する歴史資料」ではありません。古美術品は年代が古いからといって美術品としての性格が減じるわけではなく、未だ美術品としての生命を失わずに、現代人による鑑賞の対象であり続けています。そうであるならば、古美術品の価値は《歴史性》すなわち《歴史資料としての側面》だけでなく、《芸術性》すなわち《美術品としての側面》からも論じられるべきでしょう。本論では剥落や摩滅によって細部が失われたアンティーク美術品(古美術品)の価値を、その《芸術性》、すなわち現代人にとっての《美術品としての側面》に重点を置いて論じます。
(上) アール・ヌーヴォーの美麗メダイユ 《ジャンヌ・ダルク列福記念メダイ 23.2 x 18.7 mm》 ドミニク・アングルの油彩に基づく作品 フランス 1909年
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筆者(広川)の考えによれば、古い絵の表面が剥落したり、彫刻の突出部分が摩滅したりして細部の描写が失われた古美術品は、まさにその剥落や摩滅によって、新たな芸術性、すなわち美的感情を惹き起こす力を獲得しています。この現象の類例として美術史上の名画を取り上げ、「古美術品の剥落や摩滅が新たな芸術性を生んでいる」という筆者の主張の論拠を明らかにします。
【第一の例 スフマートで描かれた「モナ・リザ」】
我々は名画を鑑賞する際に、物の材質、手触り、固さや柔らかさが驚くべき技術で「手に取るように」正確に再現されていることに感心します。しかしながら少し離れた所から見るとこの上なく写実的に見えた作品も、近寄って観察すると輪郭の曖昧さや筆致の粗さに驚かされることがしばしばです。
ヨーロッパの絵画史を見れば、ルネサンス頃を境にして、細部の描写方法に革命的な変化が起こりました。この革命が起こる以前の画家たちは、可能な限り細緻な描写によって対象を正確に描き尽くそうとしていました。しかるにルネサンス期以降の画家たちは、細密な描写に精魂を傾けることを止め、細部の仕上げを鑑賞者の想像力に任せるようになったのです。
(上) Léonard de Vinci,
"La Joconde", 1503 - 1506, Huile sur panneau de peuplier, 77 x 53 cm, Musée du Louvre,
Paris
たとえば「モナ・リザ」ははっきりとした輪郭線を持たない「スフマート」(伊 sfumato ぼかし)の技法で描かれています。現実の物体に幅を持った輪郭線はありませんが、空気の層や靄(もや)で輪郭がぼやけた遠くの物は別として、目の前にいる女性にははっきりとした輪郭があるはずです。しかしながら「モナ・リザ」を制作する際、レオナルドは明瞭な輪郭を描きませんでした。画家が画面のすべてを統制することを敢えて中止し、作品の細部を補完する作業を、観る人の想像力に委ねたのです。これにより作品は却って活き活きとした生命力を得て、「モナ・リザ」は生身の女性さながらの現実性を獲得しました。
Henri Bergson, 1859 - 1941
細部を補完する作業を観る人の想像力に委ねると、作品はなぜ活き活きとした生命力を得るのでしょうか。筆者の考えによると、それは作品を観る人の想像力が、画家の想像力とまったく同程度に、《生きて働く作用》であるからです。
アンリ・ベルクソンが指摘したように、生命の活動は片時も静止することがありません。生きて働く想像力も、絶えて静止することがない生命作用のひとつです。細部まで克明に描写された絵が鑑賞者に示されるとき、鑑賞者の精神と絵の間には相互作用が成立せず、前者は後者をただ受動的に受け入れざるを得ません。絵の鑑賞者から見れば、細部まで描写済みの絵は、鑑賞者との交流を拒み、鑑賞者とは無関係に自存する外界です。それは他者によって固定された「生命の無い所与(データ)」にすぎません。生命の無い所与は「観察」の対象にはなり得ますが、「鑑賞」の対象とはなりません。なぜなら「鑑賞」が成立するためには、鑑賞者の精神が絵のうちに入り込み、いわば生命の共振が起こらなければならないのに、生命の無い所与は生きて働く精神に合わせて形を変えることができないからです。
これに対して細部をぼかした絵は、鑑賞者の精神がそのうちに入り込む余地を残しています。鑑賞者の想像力が自らの力で絵の細部を補い、完成するとき、鑑賞者と絵の間には、あたかも他の人物との間におけると同様に、人格的関係が成立します。
(上) Jean-Léon Gérôme,
"Pygmalion et Galatée", 1890, Huile sur toile, 88,9 x 68,6 cm, Metropolitan Museum of Art, New
York
人間同士の関係においても「観察」は成立します。心理学者と実験の被験者の関係はその一例です。この場合心理学者は被験者をマジック・ミラー越しに観察するだけでなく、場合によっては言葉も交わします。しかしながらそこに人格的関係は成立しません。これに対して通常の交友関係や恋愛関係などでは人格的な人間関係が成立します。
鑑賞者が芸術作品を「鑑賞する」という関係は、人間同士の関係に当てはめれば、通常の交友関係や恋愛関係に相当します。自作の彫像に恋をした
ピグマリオーンの物語は虚構ではありますが、実際に起こっても不思議でない気がします。しかしこれに対して、人体模型に恋をすることは考えられません。ピグマリオンの彫像と人体模型は、前者が「鑑賞」の対象、後者が「観察」の対象である点において、決定的に異なるのです。「モナ・リザ」を鑑賞する人が生身の女性を眼前にしているかのように感じるのは、鑑賞者の精神が「モナ・リザ」の内に入り込み、両者の間に人格的関係が成立するからです。
【第二の例 ヤン・ファン・エイクの犬と、ベラスケスの犬】
(上) Jan van Eyck,
"The Arnolfini Portrait", 1434, Oil on oak panel, 82.2 x 60.0 cm, The National Gallery, London
(上) Diego Vélasquez,
"El príncipe Felipe Próspero", 1659, Huile sur toile, 128,5 x 99,5 cm, das Kunsthistorische Museum,
Wien
上の二点の絵は、一点目がヤン・ファン・エイクによる「アルノルフィーニ夫妻像」(1414年)、二点目がディエゴ・ベラスケスによる「皇太子フェリペ・プロスぺロ」(1659年)です。「アルノルフィーニ夫妻像」は結婚する二人を描いた作品で、ヤン・ファン・エイクは画面にさまざまな象徴を描き込み、そのなかには「忠実」を象徴する犬も含まれます。「皇太子フェリペ・プロスぺロ」においてベラスケスは幾多の護符を身に着けた病弱な幼子を愛情をもって描き、傍らには愛らしい犬を描き添えています。ヤン・ファン・エイクの犬とベラスケスの犬を比べると、毛並みの描き方が大きく異なります。それぞれの犬を拡大して示します。
一点目の犬は「アルノルフィーニ夫妻像」に登場するもので、ヤン・ファン・エイクはこの犬の毛を一本ずつ描いています。二点目の犬は「皇太子フェリペ・プロスぺロ」に登場するものです。この犬を描くベラスケスの筆致は粗く、ヤン・ファン・エイクのような丁寧さはありません。しかしながら結果を比べると、ベラスケスの犬の毛並みはヤン・ファン・エイクの作品よりもはるかに自然に見えます。ベラスケスは犬の毛並みの細部を自分で描かずに、その仕上げを我々鑑賞者の想像力に任せたのです。
ちなみに「アルノルフィーニ夫妻像」は結婚の風景を描いた作品です。後方の壁に書かれた「ヨハネス・ファンアイク、ここに立ち合いき 1434年」(羅
Johannes de Eyck fuit hic 1434)という言葉は、ファン・アイクがこの結婚の証人であったことを示します。犬は忠実さを象徴するゆえに、この作品において花嫁の貞操を表します。シャンデリアに燃える一本の蝋燭は神の臨在と祝福を、後方の壁に掛かった数珠は信仰を、それぞれ象徴しています。神の臨在により、この部屋は神聖な場所となっています。結婚への祝福を願うアルノルフィーニ夫妻は、あたかも聖地におけるように、神の御前に裸足で立っています。
【第三の例 レンブラントの兄が被る兜】
(上)
„Der Mann mit dem Goldhelm“, um 1650/55, Öl auf Leinwand, 67,5 x 50,7 cm, Die Berliner Gemäldegalerie
ルネ・ユイグ(René Huyghe, 1906 - 1997)は「見えるものとの対話」(
"Dialogue avec les visibles", 1955)で想像力の問題を取り上げ、レンブラントあるいはその弟子がレンブラントの兄を描いた上掲の作品を例に挙げています。この作品に描かれた黄金の兜はあたかも本物の金属のように見え、打ち出し細工の描写も見事です。
しかしながらこの兜を拡大すると、思いがけない筆致の粗さに驚かされます。画家に操られた我々自身の想像力が、絵の中の兜を本物のように見せていたのです。
以上の三例を見れば、美術品が写実的であるために、細部の精細な描写は必ずしも必要でないことがわかります。美術品の制作者が作品の細部まで完全に統制しようとすれば、活き活きとした生命は却って作品から失われ勝ちです。事物を細部までありのままに描こうとする意図とは裏腹に、不自然に硬直した画面となってしまうことが多いのです。
一見したところ、作品が硬直するのは技法の不完全さによると思われるかもしれません。しかしながら技法の優劣は本質的問題ではありません。画家がどれほど優れた技術を持ち、どれほど正確に細部を再現しても、出来上がった作品が学術書の図版のようで、美術作品とは言い難いということも充分に起こり得ます。
美術品は単なる物体ではなく、美的価値を有します。しかるに美的価値は、そもそも価値である以上、哲学でいう「当為」に属する事柄です。これは美術品の有する《芸術性》が精神とは無関係に外在する客観的実在ではないということ、すなわち活きた精神の働きによってこそ美的価値が生じるということを意味します。そしてここで見落としてはならないのは、「活きた精神」には「制作者の精神」と「鑑賞者の精神」が両方とも含まれるということです。
このように考えるならば、美術品の鑑賞において、観る者の想像力が大きな役割を果たす理由が納得できます。想像力は活きた精神の働きであるゆえに、鑑賞の対象となる美術品に自らの生命力を注ぎ込みます。鑑賞者の活きた想像力によって賦活された美術品は、画布と絵具、大理石、金属などの生命を持たないマチエールからいわば身を起こし、復活して、生きたものとなるのです。あたかも観察者が素粒子の在り様(よう)を決めるように、鑑賞者の想像力こそがその作品の美的価値を励起するのだと、筆者(広川)は考えています。
【第四の例 アンリ・マティスの聖人画】
アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)は二十世紀の美術界に最も大きな影響を与えた芸術家のひとりです。作品を特徴づける美しい色彩ゆえに、マティスはしばしば「色彩の魔術師」(仏 un
magicien des couleurs)とも呼ばれています。
(上) 体の自由が利かなくなっていたマティスは、棒の先にチョークを取り付け、ロザリオ礼拝堂の壁画下絵を制作しました。
マティスの芸術活動の掉尾を飾るのは、南フランスの南東端近く、ニース近郊ヴァンス(Vence プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルプ=マリティーム県)にある
ロザリオ礼拝堂(la chapelle du Rosaire)の装飾です。ロザリオ礼拝堂は当地のドミニコ会女子修道院の付属聖堂で、建築家でもあるドミニコ会士ルイ・ベルトラン・レシギエ修道士(Frère Louis-Bertrand Rayssiguier, 1920 - 1956)の設計によります。マティスは 1941年に結腸癌の手術を受けたのですが、このとき画家の世話をした看護師が後にヴァンスのドミニコ会修道女となり、修道院付属聖堂の装飾をマティスに依頼したのです。マティスはロザリオ礼拝堂の仕事に 1949年から取り組み、1951年に完成させました。ロザリオ礼拝堂の装飾は、マティスの生涯の集大成となりました。
(上) ロザリオ礼拝堂内壁にマティスが描いた
聖ドミニコ(部分)
マティスはロザリオ礼拝堂の内壁に、聖母子像、聖ドミニコ像、十字架の道行きを描いています。しかるに「色彩の魔術師」と呼ばれたマティスの作品であるにもかかわらず、壁画はすべて黒の線による線描であり、人物の顔も輪郭だけで、目鼻は全く描かれていません。マティスは聖人たちを輪郭だけで描くことにより、礼拝堂を訪れる全ての人の魂が、心の目で見る「自分の聖人」と親しく対話することを望んだのでした。
【摩滅したアンティーク品との対話】
「モナ・リザ」やベラスケスの犬、レンブラントの兜などの例が示すように、細部に至るまで描き込まれていない作品は、細部まで描き込まれた作品よりもむしろ自然に感じられ、優れて写実的であるとさえ感じられます。そう感じられる理由は、画家が描き残した細部を、鑑賞者が生きて働く想像力を使って自ら補うからです。鑑賞者の想像力は、身体の生命活動と同様に、片時も休まず動き続けます。精神のこの働きは芸術品と有機的に結びつき、芸術品と人格的関係を結んでいわば「我が物」とするのです。これに対して最も細かい部分まで描き込まれた作品は、最小の部分に至るまで疑問の余地なく完全に決定づけられているゆえに、鑑賞者の想像力の介入を拒みます。鑑賞者の精神にとって、そのような作品は「自分と無関係に存在する外界の事物」です。鑑賞者の精神とそのような作品の間に人格的関係が成立する余地はなく、人格的関係が無いところに親和性は生じません。
摩滅や剥落によって細部が失われたアンティーク品は、細部を描き残した絵画に相当します。絵画の場合はわざと描き残しているのに対して、アンティーク品の細部が失われたのは摩滅や剥落によるという違いがありますが、結果は同じです。
結果が同じであっても、細部が表現されない状態になった経緯の違いが重要だと思われる方もあるかもしれません。アンティーク品の細部が失われた現状は制作者が意図した状態ではないゆえに、制作者が敢えて細部を描出しなかった作品とは事情が違うと思われるかもしれません。しかしながらアンティーク品を鑑賞するのがその制作者ではなくあなたである以上、あなたは自分の立場から、現在あるがままの状態のアンティーク品に向き合うことしかできません。それはあなたにとって唯一為し得る鑑賞の仕方であると同時に、唯一為すべき鑑賞の仕方であるのです。
(上)
"Nebamun hunting in the marshes", Nebamun's tomb-chapel, 1400
– 1300 B. C., the British Museum
分かりやすい例を挙げます。あなたが「エジプト美術展」に出かけて、墓室壁画の前に立っているとします。この墓室壁画は「エジプト美術展」に出品されていますが、実のところ、本来は美術品ではありません。
壁画が完成すると、墓室の扉は閉められます。墓室内は真っ暗になり、完成した壁画を見ることは誰にもできません。しかしそれで良いのです。なぜならば墓室壁画は装飾のため、すなわち生きている人間が観るために描かれたのではなくて、被葬者に来世の召使いや来世の食物を用意する目的で描かれたものだからです。壁画を描いた絵師は被葬者が来世で困らないために、「実際に働く召使い」「実際に食べられる食物」を作ったのです。絵師をはじめとする古代エジプトの人々は、生きた人間が墓室壁画を「絵」「装飾」として観ることを想定していません。
我々が墓室壁画を観るときに、古代の絵師が本来意図したあり方で墓室壁画に関わることは、原理的に不可能です。我々は死んではいないし、その墓室の被葬者でもないからです。我々は自分の立場からしか物を見ることはできないので、我々から見た壁画の人物は「死んだ自分のために働いてくれている召使」ではなく、「古代エジプト美術の人物画」とならざるを得ません。壁画に描かれた人物を「古代エジプト美術の人物画」として鑑賞の対象とするのは、絵師による本来の制作意図とはかけ離れた関わり方です。しかしながら我々がその墓室に埋葬された死者ではなく、現代の美術鑑賞者である以上、関わり方におけるこのような変質は仕方がないことです。
(上) サンタ・マリア・デ・グアダルペ 反宗教改革期の巡礼用メダイ 31.0 x 21.7 mm スペイン 十六世紀前半
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この論考の目的は、摩滅や剥落によって細部が失われたアンティーク品の特性と価値を、《芸術性》を重視する立場から考察することです。ここで筆者(広川)が言う《芸術性》とは、鑑賞者の精神に働きかけ、美的感情を惹き起こす力を意味します。摩滅や剥落によって細部が失われたアンティーク美術品は、細部を意図的に描かない絵画の場合と同様に、生きて働く鑑賞者の想像力を拒絶せずに受け容れます。マティスは聖人たちを輪郭だけで描いて、礼拝堂を訪れる全ての人が心の目によって「自分の聖人」と出会うことを期待しました。我々が摩滅したアンティーク品と向き合うとき、それと全く同じことが起こります。我々は自身の心の目によって、摩滅したアンティーク品の細部を補い、品物と親和するのです。
アンティーク品の愛好家は、品物の細部を消し去る摩滅や変色、ときには汚れさえも「アンティーク品ならではの温かな味わい」であるとし、「古色」(パティナ)と呼んで慈(いつく)しみます。アンティーク愛好家が感じる「使い古された物の温かみ」とは、摩滅や剥落によって細部を失った品物が、それと引き換えに手に入れた「生きて働く想像力との親和性」に他なりません。アンティーク品は鑑賞者が触手のように伸ばす「生きて働く想像力」を拒絶せずに受け容れ、鑑賞者と人格的関係を築いて睦み合います。これこそが、アンティーク品が細部を失うのと引き換えに獲得した《芸術性》の本質です。そしてこのとき我々の心に惹き起こされる美的感情が、アンティーク品の温かみとして感じられるのです。
当店アンティークアナスタシアではフランスのアンティーク・メダイユを数多く扱っています。ベル・エポック期頃までのフランスのメダイユ彫刻は、古典的写実性を旨とします。しかしながら細部まで克明に描写された美術作品が鑑賞者に示されるとき、鑑賞者の精神と作品の間には相互作用が成立せず、前者は後者をただ受動的に受け入れざるを得ません。美術作品の鑑賞者から見れば、細部まで描写済みの作品は、鑑賞者との交流を拒み、鑑賞者とは無関係に自存する外界です。それは他者によって固定された「生命の無い所与(データ)」にすぎません。生命の無い所与は観察の対象にはなり得ますが、鑑賞の対象とはなりません。なぜなら「鑑賞」が成立するためには、鑑賞者の精神が美術作品のうちに入り込み、いわば生命の共振が起こらなければならないのに、生命の無い所与は生きて働く精神に合わせて形を変えることができないからです。
これに対して意図的な作風によるにせよ、摩滅や経年変化に拠るにせよ、細部がぼかされた美術作品は、鑑賞者の精神がそのうちに入り込む余地を残しています。鑑賞者の想像力が自らの力で作品の細部を補い、完成するとき、鑑賞者と作品の間には、あたかも他の人物との間におけると同様に、人格的関係が成立します。本品においても、メダイを鑑賞者する人の心眼は、摩滅して見えなくなった細部を自発的に補い、ペナンとポンセが作った後で時が摩滅させた作品を、彫刻家とともに再び完成させるのです。アンティーク品に見られる突出部分の摩滅は、そのような心眼の能力と働きを、鑑賞者から自然に引き出します。ここに鑑賞者と作品の人格的関係が成立します。
(上) 茨の繁みに立つルルドの聖母 無原罪の御宿り アール・ヌーヴォーのメダイ 25.0 x 17.0 mm フランス 十九世紀末から二十世紀初頭
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信心具としてのメダイユについてもう一つ付言するならば、突出部分の摩滅がもたらすいま一つの効果として、浮き彫りが細部を失うことにより、本来不可視である宗教的事象との親和性を獲得するという事実を挙げることができます。その好例として、ルルドにおける聖母出現の場面がメダイユの浮き彫りで表され、その浮き彫りが細部の消失により、却って歴史的忠実性を手に入れる場合を考えることができます。
ルルドの聖母に見(まみ)えたベルナデット・スビルーは心眼で聖母を幻視したのであって、聖母は現実に(レアリテルに、物体として)ルルドに出現したわけではありません。ベルナデットがマサビエルの岩場で聖母を幻視している間、周囲には何百人もの見物人が集まりましたが、ベルナデット以外の人に聖母は見えませんでした。さらに、ベルナデットは自分が見ている物が聖母であるとは思わず、かといって何を見ているのかもわからずに、出現物を「あれ」(aquello)と呼んでいました。ベルナデットはカトリックとして育ちましたから、ルルドの聖母が聖画や聖像で見るような姿をはっきりと顕わしていれば、自分が聖母の出現を目撃していると分かったはずです。しかしながら岩場に幻視した「あれ」は明瞭な輪郭を持たず、ベルナデット自身さえ、その正体を知らなかったのです。
筆者(広川)は
不可視の幻視を分かりやすく形象化する聖画像に、美術品としての充分な存在意義を認めます。しかしながらベルナデットの「あれ」をメダイユ彫刻として再現するのであれば、ともすればキッチュ(俗悪)とも見られかねない細密描写によるよりも、滑らかに摩滅し、光に包まれた聖母像による方が、ベルナデットの心眼が捉えた「あれ」の描写に一層近く、相応しいでしょう。このような理由に基づき、摩滅して細部を失ったルルドのメダイは、長い時を経てアンティーク品になることで、より一層優れた精神性、すなわち不可視の宗教的事象までも再現しうる優れた描写性を備えるようになった、と考えることができます。
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