ガスコーニュ湾に面したコート・ドールの巡礼地ノートル=ダム・デュ・プラタン(仏 Notre-Dame du Platin 海辺の聖母)を主題に、ウクライナ出身のメダイユ彫刻家ミハイル・ヤンポルスキーが制作した美しいプラケット。プラケット(仏 une plaquette)とは四角いメダイユのことです。
本品は吊り下げられた幡旗あるいは幕のような形状の大型プラケットに、若きマリアの横顔を浮き彫りにしています。光背の上半分にはフランス語で次のように記されています。
Notre-Dame du Platin, Protectrice des Aviateurs 飛行士の守護聖女、ノートル=ダム・デュ・プラタン
ノートル=ダム・デュ・プラタン(仏 Notre-Dame du Platin 海辺の聖母)はプラケットに浮き彫りにされている聖母マリアの称号ですが、この聖母に捧げられた礼拝堂の名前でもあります。フランス語プラタン(platin)は海辺の意味ですが、現在は廃れた古い言葉で、ここでは定冠詞付きの地名として残っています。
光背の下半分にはフランス語で次のように記されています。
Regarde-La et prends ton vol. 聖母の御顔を拝して飛び立つべし。
これは聖クリストフに関する次の言葉を、ノートル=ダム・デュ・プラタンに当て嵌めたものです。
Regarde St. Christophe, puis va t'en rassuré. 聖クリストフを眺め、心安らかに行け。
聖クリストフは旅行者の守護聖人であり、その図像を見る者はその日のうちに悪い死、すなわち臨終の場に司祭が立ち会えない突然の死に遭うことがないと伝えられます。これをノートル=ダム・デュ・プラタン(海辺の聖母)に当て嵌めたのが、聖母の御顔を拝して飛び立つべしという言葉です。
初期の飛行機製作者ルイ・ブレリオ(Louis Blériot, 1872 - 1936)は数々の試作機で失敗を繰り返し、離陸に成功した場合でも、飛距離は数百メートルにとどまっていました。ブレリオ1型機は小さな無人機でした。2型機から10型機までは有人機でしたが、そもそも離陸できなかったり、離陸しても着陸の際に壊れたりして、まともなものは一機もありませんでした。
ルイ・ブレリオは破産状態であったにもかかわらず、1909年にブレリオ11型機を完成させました。そして 1909年7月25日、ブレリオは自らこの機を操縦して、英仏海峡横断に成功したのです。10型機までがことごとく失敗であったのに、11型機でいきなり英仏海峡を横断するのは、あまりにも無謀な挑戦でした。それにもかかわらずブレリオが自殺行為とも言える横断飛行に挑戦したのは、11型機の仕上がりに或る程度の自信を持ったためでもあるでしょう。しかしながら筆者(広川)が思うに、ブレリオはここまで頑張ったのだから、英仏海峡に墜落して死んでも本望だと考えたに違いありません。
11型機を完成させたとき、ブレリオは既に破産状態でしたから、11号機をさらに改良して12号機を作れるとは思っていませんでした。生涯の情熱をかけて完成した最後の飛行機が11号機であれば、たとえ生還できなくても、自分は最後の花を咲かせよう
― ルイ・ブレリオはそう考えたのだと思います。
1909年7月25日、ルイ・ブレリオは11型機を自ら操縦して、4時41分の日の出と同時にカレー近郊のレ・バラーク(Les Baraques)を飛び立ち、地図も方位磁石も時計も使わない有視界飛行で英仏海峡横断を敢行しました。この日は強風にも関わらず、11型機は約100メートルの高度、平均毎時61.6キロメートルの速度を保ち、離陸から36分あまり後の5時17分、ル・マタン紙(Le
Matin 1883年から 1944年までパリで発行されていた日刊紙)の記者が目印の旗を振るドーバー城に着陸しました。着陸にはかなり大きな衝撃を伴いましたが、11型機は破壊されず、無事着陸できたのです。
ブレリオの英仏海峡横断成功は各国で大々的に報じられ、この時の機体はル・マタンが買い取って、パリ工芸美術博物館(仏 le Musée des Arts et Métiers)に寄贈しました。機体は博物館の天井に懸架して展示され、今日に至っています。
ルイ・ブレリオと同時代、パリにジョゼフ・オドラン(Joseph Odelin, 1852 - 1921)という実業家がいました。ジョゼフ・オドランは熱心なカトリック信徒で、イエズス会が運営するリセの理事として功績があったゆえ、1889年と
1904年には教皇から聖大グレゴリウス勲章を授与されました。
十九世紀後半のフランスでは鉄道網が飛躍的に発展するとともに、汽車に乗って観光地を訪れる旅客が急増しました。フランス西部アキテーヌの風光明媚な保養地コート・ダルジャン(仏
Côte d'Argent 銀の海岸)にもロワヤン鉄道(仏 le tramway de Royan)が敷設され、半島の南隣の村サン=ジョルジュ=ド=ディドン(Saint-Georges-de-Didonne)から、半島南端にある経済活動の中心都市ロワヤンを経てサン=パレ=シュル=メールまで、全長十六キロメートルを結びました。ジョゼフ・オドランはパリの人ですが、この鉄道の運営会社取締役に就任した縁で、ロワヤン鉄道の北端サン=パレ=シュル=メールに地所を購入しました。
1904年、ジョゼフ・オドランは妻の求めに応じて、サン=パレ=シュル=メールの海辺にある所有地に小さな御堂を建てました。オドランは御堂を聖母に捧げて、ノートル=ダム・デュ・プラタン(ル・プラタンの聖母、海辺の聖母)と名付けました。
1909年7月、ジョゼフ・オドランは、ルイ・ブレリオの英仏海峡横断飛行に深く感動しました。破産寸前になるまで飛行機製作の夢をあきらめず、命懸けで事業をを為し遂げたことに、同じ事業家として大きく心を動かされたのです。
熱心なカトリックであったオドランは、ルイ・ブレリオの成功に聖母の加護を読み取りました。ブレリオの成功をきっかけに、ジョゼフ・オドランはノートル=ダム・デュ・プラタン(海辺の聖母)に対し、今後も飛行機乗りを守り給うように願いを掛けました。このような経緯により、ノートル=ダム・デュ・プラタンはノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール(仏
Notre-Dame-des-Aviateurs)すなわち飛行士の聖母とも呼ばれるようになりました。
メダイユ(プラケット)の浮き彫りにおいて、若きマリアは整った横顔を見せています。マリアの後ろでは、アジサシと思われる一羽の鳥が軽やかに空を舞っています。マリアは優しい眼差し(まなざし)を心持ち上に向け、地上から立ち上る祈りを神に取り次いでいるようにも、飛行機で空を翔ける飛行士たちを見守っているようにも見えます。
フランス語で守護天使をアンジュ・チュテレール(仏 un ange tutélaire)、守護霊をエスプリ・チュテレール(仏 un esprit
tutélaire)といいます。守護するという意味の形容詞チュテレール(仏 tutélaire)は、ラテン語の動詞トゥエオル(羅 TUEOR 見る)に由来します。すなわちアンジュ・チュテレールは見る天使、エスプリ・チュテレールは見る霊という意味です。単に見ることがなぜ守護に繋がるのかというと、天使や守護霊の眼差しは空中に充満する邪視に対抗し、邪視する者を打ち負かすからです。天使や守護霊の眼差しは神の力に裏付けられていますから、悪霊の邪視に負けることが決してないばかりか、邪視の本体である悪霊自体を滅ぼします。
守護の聖母についても同じことが言えます。聖母マリアの優しい眼差しは墜落事故から守ってくれる ― 飛行士たちは自然にそう感じることでしょう。聖母の眼差しというと、筆者(広川)にはシューベルトの「アヴェ・マリア」が思い出されます。下に示すのは三番の歌詞で、ウォルター・スコットによる英語の原詩、アダム・シュトルクによる独語訳、筆者によるドイツ語からの和訳です。
Ave, Maria! stainless-styled! Foul demons of the earth and air, From this their wonted haunt exiled, Shall flee before thy presence fair. We bow us to our lot of care Beneath Thy guidance reconciled, Hear for a maid a maiden’s prayer; And for a father bear a child! Ave Maria! |
Ave Maria! Reine Magd! Der Erde und der Luft Dämonen von deines Auges Huld verjagt. Sie können hier nicht bei uns wohnen, Wir woll'n uns still dem Schicksal beugen, Da uns dein heil'ger Trost anweht; Der Jungfrau wolle hold dich neigen, Dem Kind, das für den Vater fleht. Ave Maria! |
マリアさま。清き乙女よ。 地と空中の悪霊どもは 御身の眼差しから逃れるところを探します。 彼らはこの地上で私たちのそばに住まうことができません。 私たちは運命をじっと耐え忍びます。 すると御身から聖なる慰めが吹き寄せるのです。 祈る乙女の方に、 父のために切に祈る子供の方に、優しく身を傾けたまえ。 マリアさま。 |
プラケットの左下にはジュアン・エディトゥール(仏 Jouan, éditeur メダイユ発行元:ジュアン)と刻まれています。
フランス語エディトゥール(仏 éditeur)は英語のエディター(英 editor)に相当しますが、英語のエディターが新聞や雑誌、映画の編集者・発行責任者を指すのに対し、フランス語エディトゥールは英語エディターと同様の意味に加え、メダイユやレコードの発行元、版画や楽譜の版元をも含みます。
プラケットの右下にはミハイル・ヤンポルスキー(ミシェル・ヤンポルスキー)のサインが刻まれています。
メダイユ彫刻家ミハイル・ヤンポルスキー(Michael Jampolsky/Jampolski, 1874 - 1957)はウクライナのキーウに生まれました。メダイユ彫刻の本場であるフランスに活躍の場を求めてパリに移り住み、ダニエル=デュピュイ(Jean-Baptiste Daniel-Dupuis, 1849 - 1899)とユベール・ポンカルム (Francois Joseph Hubert Ponscarme, 1827 - 1903)に師事しました。1894年から
95年にかけて国立装飾美術学校 l'École nationale des arts décoratifs(現在の国立高等装飾美術学校 l'École
nationale supérieure des arts décoratifs)に在学後、サロン展には 1896年の浮き彫り「アテナ」を皮切りに、1915年までほぼ毎年出品しています。
1896年の「ジャンヌ・ダルク」、1897年の「ウィルゴー・プリッシマ」(羅 VIRGO PURISSIMA いと清きおとめ)、「わが母ロシア」(Russia,
ma mère)、1898年の「キリスト」「ディアナ」の他、「竜を倒す聖ゲオルギウス」(St Georges terrassant le dragon)もよく知られています。当店では
1898年の作品「クリストゥス・アドレスケーンス」(羅 CHRISTUS ADOLESCENS 少年キリスト)を扱ったことがあります。ヤンポルスキーの作品は美術館や博物館に収蔵され、美術品市場に出ることはまずありません。本品「ノートル=ダム・デュ・プラタン」も再入荷は不可能な稀少品です。
プラケットの裏面にはコート・ダルジャンの保養地、サン=パレ=シュル=メールの海辺が浮き彫りで再現されています。浜辺にほど近いル・プラタン地区にはノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂が、浜辺には灯台が浮き彫りにされています。ガスコーニュ湾(ビスケー湾)に沈む夕日が、美しいル・プラタンに挨拶を送っています。
浮き彫りの左下にはジュアン・エディトゥール(メダイユ発行元:ジュアン)の名が、右下にはミハイル・ヤンポルスキー(ミシェル・ヤンポルスキー)のサインが刻まれています。
パリの実業家ジョゼフ・オドランはル・プラタン地区に地所を所有しており、1904年に妻の求めに応じて礼拝堂を建てました。最初の礼拝堂はごく小さな建物でしたが、やがて地域住民のための宗教施設として機能し始めたので、オドランは鐘楼以外の部分を全面的に建て替えることにしました。1908年、フランス領コンゴのプロスペル・オグアール司教(Mgr
Prosper Philippe Augouard, 1852 - 1921)がサン=パレ=シュル=メールを訪れ、増築が完了した礼拝堂を祝別しました。本品プラケットに彫られているのは、1908年から
1945年の建物です。その後この建物は第二次世界大戦で爆撃されて損壊し、1945年に補修・改築されて今日に至ります。
ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂には 1919年以来、本品プラケットと同じ浮き彫り像、ノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール(仏 la chapelle
Notre-Dame-des-Aviateurs 飛行士の聖母)が安置されていました。しかしながらこの美しい浮き彫り像は1945年の爆撃によって失われ、その後に石膏のレプリカで置き換えられました。そのレプリカも
2003年に悪質ないたずらで破壊され、2008年に新しい聖母像が安置されて現在に至ります。
飛行士を守護するノートル=ダム・デュ・プラタン(海辺の聖母)の礼拝堂が、飛行機からの爆撃で破壊されたのは皮肉なことです。
人工知能の暴走を防ぐため、開発に歯止めをかけようという議論が現在盛んに行なわれています。ちょうどこれと同様に、飛行機が作られ始めた最初期には、航空機開発に歯止めをかけようとの議論が起こりました。空を飛ぶことはロマンを掻き立てる人類の夢でしたが、この夢がいよいよ実現し始めたとき、兵器として使われて人を殺し、文明を破壊するのではないかとの心配が浮上したのです。
第一次世界大戦では飛行機も戦場に赴きましたが、初期の爆撃は複葉機から煉瓦や釘を落とす程度でした。航空機が戦争の主役となる現代から見ると、嘘のようにのどかな話です。しかしながらその後の二、三十年で飛行機は長足の進歩を遂げました。世界最大、最強と言われた戦艦武蔵も戦艦大和も、わずかな人数の乗員が操縦する飛行機に沈められました。戦艦大和の沈没では
2500名近くが亡くなりましたが、巨艦にとどめを刺したのは僅か六機の艦載機でした。ドレスデンも東京も神戸も、飛行機による空襲で壊滅しました。広島と長崎はそれぞれ一機の飛行機が落とした爆弾で地上から拭い去られました。
飛行機からはせいぜい煉瓦や釘を落とす程度と軽視し、警戒心を緩めたことが、このような結果に繋がりました。飛行士の守護聖女である聖母マリアは、如何に心を痛めておられることでしょうか。
本品は縦横 94 x 75ミリメートル、重量 204.8グラムと、フランスの美術メダイユの中でもひときわ立派な作品です。上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きく感じられます。
第一次世界大戦終結直後のフランスで制作された本品は、美術館でしか見ることができないヤンポルスキー作品の実物です。レプリカではなく、オリジナルのアンティーク品であり、百年余りの歳月を掛けて獲得した美しい古色に覆われています。保存状態は極めて良好であり、特筆すべき問題は何もありません。
本品の価格は、仕入れ値とほぼ同じです。自分の一生のうちでおそらく二度と出会えないこの作品に巡り合ったとき、どうしても手に取りたいと思って購入しました。売れなくとも構いませんが、本品の芸術的価値、歴史的価値を理解してお買い上げいただける方がいらっしゃれば、それほど嬉しいことはございません。