思春期頃の少年キリストを浮き彫りにした稀少なアンティーク・メダイ。大型の作品で、500円硬貨とほぼ同じサイズがあります。
この作品において、イエスはようやく薄いひげが生え始めた頃の初々しい少年として表され、わずかに憂いを含んだ端正な横顔を見せています。キリストと神に特有な十字架文のある光背が、イエスの背後で柔らかな光を放っています。イエスを取り囲むように、ラテン語でクリストゥス・アドレスケーンス(羅
CHRISTUS ADOLESCENS 少年キリスト)と記されています。この文字は大きさを変えながら、浮き彫りの背景を美しく埋めています。
アドレスケーンス(羅 ADOLESCENS)は動詞アドレスコー(羅 ADOLESCO 成長する)の現在分詞です。したがってクリストゥス・アドレスケーンスあるいはアドレスケーンス・クリストゥスとは、成長の途上にあるキリスト、すなわち少年キリストを意味します。
ラテン語の動詞において、"-SC-" という音は量的・質的変化を含意し、状態の変化を表す動詞に現れます。アドレスコー(羅
ADOLESCO)、アウゲースコー(羅 AUGESCO)、クレースコー(羅 CRESCO)、インクレースコー(羅 INCRESCO)(以上いずれも「成長する、増える」)、デークレスコー(羅 DECRESCO 減る)、ノースコー(羅 NOSCO 知る)、ナースコル(羅 NASCOR 生ずる)等が例として挙げられます。
これらの動詞の完了形や完了分詞では、変化が終わったことに伴い、-SC-は脱落します。たとえばアドレスコー(ADOLESCO)の現在分詞はアドレスケーンス(ADOLESCENS)ですが、育ち終わった(成人した)ことを表す完了分詞はアドゥルトゥス(ADULTUS)です。大人になって成長が止まったキリストはクリストゥス・アドゥルトゥス(CHRISTUS
ADULTUS)ですが、成長の途上にある少年キリストはクリストゥス・アドレスケーンス(CHRISTUS ADOLESCENS)です。
要するに私が言いたいのは、同じ年頃の少年イエスを表すのに、通常の形容詞や名詞を使ってクリストゥス・ユウェニス(羅 CHRISTUS JUVENIS 若きキリスト)、クリストゥス・プエル(羅
CHRISTUS PUER 少年キリスト)等と言う代わりに、動詞の分詞を使ってクリストゥス・アドレスケーンス(羅 CHRISTUS ADOLESCENS 大人になろうとしているキリスト)という表現が為されていることによって、成年の入り口に立つ若者特有の希望や悩みを抱えたイエス、人と為り給うた生身のキリストが、この作品の鑑賞者自身と同じひとりの人間として、親しみ深く感じられるということです。
天地の造り主、全知全能の神、三位一体の第二のペルソナ、世の救い主、最後の審判で世を裁く栄光のキリスト等、キリスト像にもさまざまな表し方がありますが、これらのいずれをとってもキリストは常人とは隔絶された神々しい存在であり、鑑賞者がキリスト像に感情を移入することはできません。しかしながらこの作品において、若きキリスト、クリストゥス・アドレスケーンスは、誰もが経験した年頃の一人の少年として表されています。信心具としてのメダイにおいて、本品はまことに稀有(けう)の作例といえましょう。
公生涯に入る前のイエス・キリストを彫ったメダイは、6、7歳頃までの幼子として描いた作品、特に幼児キリストを聖家族とともに描いた作品を時折目にすることがあります。しかしながら十代の若者イエスを彫った作品は非常に珍しく、私自身、本品以外に類例を見たことがありません。
さらにこのメダイは、ほとんど入手不可能なメダイユ彫刻家ミハイル・ヤンポルスキー(ミシェル・ヤンポルスキー Michel Jampolsky)の作品である点でも注目に値します。ヤンポルスキーのサイン(M.
JAMPOLSKY)はキリストの肩の後ろに刻まれています。
ミハイル・ヤンポルスキーはウクライナのキエフで生まれたメダイユ彫刻家です。メダイユ彫刻の本場であるフランスに活躍の場を求めてパリに移り住み、ジャン=バティスト・ダニエル=デュピュイ(Jean-Baptiste Daniel-Dupuis, 1849 - 1899)、ユベール・ポンカルム(Francois Joseph Hubert Ponscarme, 1827 - 1903)、J. ラジュムニ(J.
Rasumny)に師事しました。サロン展には、1896年の浮き彫り「アテナ」を皮切りに、ほぼ毎年出品しています。1896年の「ジャンヌ・ダルク」、1897年の「ウィルゴー・プリッシマ」(VIRGO
PURISSIMA いと清きおとめ)、「わが母ロシア」(Russia, ma mère)、1898年の「キリスト」「ディアナ」の他、「竜を倒す聖ゲオルギウス」(St
Georges terrassant le dragon)もよく知られています。
(下・参考画像) ミハイル・ヤンポルスキー 「竜を倒す聖ゲオルギウス」 Michel Jampolsky, "St Georges terrassant le dragon"
メダイの右下にはポーセル・コケ(PEAUCELLE COQUET Editeur)の刻印があります。ポーセル・コケは 1859年、シャルル・ルネ・ポーセル(Charles
René Peaucelle, 1829 - 1903)と義弟ベルナール・コケ(Bernard Coquet, 1836 - 1879)が、パリ、セーヴル通り57番地に設立した信心具の製造販売店です。このメーカーのメダイは現在では非常に珍しく、私自身、本品がこれまでに目にした唯一の作例です。
(下・参考画像) 木製の十字架に貼ってあったステッカー。信心具商ポーセル=コケ、パリ、セーヴル通り、とあります。
Peaucelle-Coquet, Marchand des objets de religion
なおベルナール・コケは盲目の調律師でしたが、ポーセル=コケ社は1860年からピアノの製造販売を開始し、社名と所在地を幾度か変えながらも、1920年頃まで存続しています。
(下・参考画像) ポーセル=コケ社製のピアノ
本品は十九世紀末のパリで制作された真正のアンティーク工芸品ですが、制作当時のままの状態で保存されています。写真ではあまりきれいに見えませんが、実物は金属光沢があって美しく、必ずご満足いただけます。成年の入り口に立つ若きイエスの希望や悩みが、若者らしい横顔に読み取れる名作であるうえに、ミハイル・ヤンポルスキーの手による非常に稀少な作品でもあります。