マルグリット=マリ・アラコック
Ste Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690



(上) 聖心を示すキリストを幻視するマルグリット=マリ。石版画による19世紀後半の小聖画。当店の商品です。


 マルグリット=マリ・アラコック (Ste. Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690) は聖母訪問会 (L'ordre de la Visitation Sainte-Marie) に属するフランスの修道女で、ジャン・ユード (St. Jean Eudes, 1601 - 1680) とともに聖心への信心を広めた功績により知られます。マルグリット=マリ・アラコックは1864年9月18日にピウス9世により列福、1920年5月13日にベネディクトゥス15世により列聖されました。ちなみにジャン・ユードは1925年5月31日にピウス11世により列聖されています。


【マルグリット=マリ・アラコックの生涯】

 マルグリットは 1647年、六角形のフランス国土の中心よりも少し東、クリュニーから20キロメートルほど西にある大きな村ヴェローヴル (Verosvres) の、ロートクール (l'Hautecour) という集落に生まれました。公証人の父は土地も所有しており、裕福な家庭でしたが、マルグリットよりも先に生まれた三人の男の子と一人の女の子のうち、姉に当たる女の子は既に亡くなっており、マルグリットの誕生は両親を喜ばせました。

 マルグリットの代母はフォートリエール侯爵夫人マルグリット・ド・サンタムール (Marguerite de Saint-Amour, la Marquise de Fautrières) という貴婦人で、マルグリットの生家から5キロメートルほど西、ボーベリ (Baubery) のコルシュヴァル城 (le château de Corcheval) に住んでいました。マルグリットは 1651年にこの貴婦人に引き取られ、1655年までコルシュヴァル城で育ちましたが、1655年に父が亡くなるといったんロートクールに戻り、翌1956年に、ロートクールから12キロメートルほど東に離れたシャロル (Charolles) にあるクララ会の寄宿学校に入りました。マルグリットはこの寄宿学校に入学した直後、9歳のときに初聖体を拝領しましたが、その二年後に病を得て生家に戻りました。マルグリットの病状は重く、四年に亙って床に就きましたが、発病の四年後、14歳のときに、あたかも奇蹟に拠るかのように突然快癒しました。

 マルグリット=マリの自叙伝によると、修道生活に入ることを聖母に誓ったところ病が突然癒されたということですが、同じく自叙伝によると、元気になったマルグリットはダンスをはじめ若者らしい楽しみに心を奪われるようになりました。

 この頃、マルグリットのきょうだいのうち、生存していた四人の兄弟は家を離れており、マルグリットと母は父方の祖母、大叔母、叔母と同じ建物に暮らしていましたが、母娘はこの三人から苛められ、経済的にも精神的にも追い詰められるようになりました。マルグリットは独りになれる場所に身を隠して、一日中祈りのうちに沈潜することが多くなりました。母は重病になり、マルグリットひとりが看病しましたが、マルグリットは近所を回って母の食べる物を恵んで貰わなければなりませんでした。自叙伝によると。聖女はこの頃、キリストの苦しみに自分の生を一致させることを喜ぶようになりました。

 マルグリットが18歳の頃、結婚話が持ち上がります。マルグリットは父方の祖母たちと同居せざるを得ない状況から母を救い出したいという気持ち、及び地上の幸せや楽しみに心を惹かれる自分自身の気持ちと、修道女になって信仰にのみ生きたいと思う気持ちの間で悩み苦しみます。マルグリットは俗世に心を惹かれる自分を罰するために苦行に励むようになり、やがてはっきりと結婚を拒むようになりました。ただし烈しい苦行を繰り返しながらも、その一方では地上の楽しみに惹かれる思いを断ちがたく、1671年6月20日に聖母訪問会に入会する直前まで、「虚栄」に身を任せた、と自叙伝に書いています。

 なおマルグリットは 1670年、22歳のときに堅信を受けましたが、このときから自分の名前「マルグリット」(Marguerite) に「マリ」(Marie フランス語で「マリア」) を付加し、「マルグリット=マリ」(Marguerite-Marie) と名乗るようになりました。


 さて、17世紀初頭のヨーロッパには幾多の修道会がありましたが、その頃のほとんどの修道会は規律がたいへん緩く、例外とも言えるカルメル会の規律はあまりにも厳しく、真摯に神を求めながらも身体がとりわけ丈夫でもない女性に相応しい修道会がありませんでした。そのような状況の中で、カルヴァン派から逃れてサヴォワに滞在中のジュネーヴ司教フランソワ・ド・サール (St. François de Sales, 1567 - 1622) が、貴族の未亡人ジャンヌ・ド・シャンタル (Ste. Jeanne de Chantal, Jeanne-Françoise Frémyot, baronne de Rabutin de Chantal, 1572 - 1641) を指導して 1610年に設立したのが、聖母訪問会です。「聖母訪問会」という名称は、受胎を告知されたマリアが親類のエリザベトを訪問した故事に基づきます。「聖母訪問会」は一般には「サント=マリ」(Sainte-Marie 聖マリ、聖マリア)という略称で呼ばれていました。

 この聖母訪問会は、1626年、ロートクールから西へ30キロメートル足らずのパレ=ル=モニアル(Paray-le-Monial ブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)に、女子修道院を新設しました。おそらく「サント=マリ」という修道会名のせいもあって、マルグリットはかねてからパレ=ル=モニアルの修道院に心を惹かれていました。1671年5月25日、マルグリットは兄と共にここを訪れて、神がこの場所での修道生活を望んでおられると確信します。この日修道院長と修練院長に面会したマルグリットは入会の許可を貰い、ひと月足らず後の6月20日、晴れて入会を果たしました。二カ月後の同年8月25日には着衣式を行い、修練女となりました。




(上) パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院付属礼拝堂。向かって右のガラスの棺に、マルグリット=マリが安置されています。


 マルグリット=マリは幼少時からたびたび幻視を経験しましたが、修練女として厳しい修道生活を送るなかでその傾向は強くなり、仲間の修道女たちに嘲笑され、修練院長に叱責されました。修練期の終わりが近付き、修道誓願を立てる許可をマルグリット=マリに与えるかどうかについて議論がされましたが、マルグリット=マリは修練院長と、この頃着任した新修道院長マリ=フランソワーズ・ド・ソメーズ (Marie-Françoise de Saumaise) に完全な従順を示し、これが認められて、1672年11月6日、無事に初誓願を立てることができました(註1)。

 マルグリット=マリは祈り(ミサと聖務と念祷)から担当する職務、雑務に至るまで、修道院で行われる活動を他の修道女と同様にこなしました。1673年には修道院内の病室で看護を担当していましたし、1674年には修道院に短期滞在する修道女候補の女性たちの指導係を務めました。これらの職務を一人前にこなす一方で、マルグリット=マリはたびたび自己の内部に沈潜して神の声を聴き、あるいは幻視を行いました。

 マルグリット=マリに限らず、一般に神秘思想家とされる人たちは、余人には窺(うかが)い知れない内的世界への扉とでも呼ぶべきものを常に内に抱えて日々生活しているのであり、その扉がいつ、どの程度開くかは、本人を含め誰にも分かりません。神秘思想家の心の中でその扉が開くと、本人は扉の向こうの内的世界に魂を奪われてエクスタシーに陥ります。周囲で見ている人間があれば、神秘思想家に何らかの異変が起きていることに気付きますが、周囲の人には出現物が見えるわけでも声が聞こえるわけでもありません。

 マルグリット=マリの場合も、この事情は同じです。初誓願を立てて半年経った頃から、ド・ソメーズ院長はマルグリット=マリに勧めて内的経験を記録させましたが、その内容は神秘主義的思索と神やキリスト、聖母、諸聖人からの「声」のようなメッセージ、およびいわゆる「アパリシオン」(apparitions 御出現)が、互いに判別不可能な形で混然一体となっています。マルグリット=マリは大きなアパリシオンを三度経験したと言われていますが、聖女の内的世界に通じる扉はいつでも開閉自在であり、ときに半開きにもなって、深い神秘的思索から脱魂状態まで、さまざまな程度の内的状態を聖女に経験させます。よく知られている三度のアパリシオンは、このようにして起きる脱魂状態のうち、聖女がキリストの臨在を圧倒的に強く感じ、限りない大きな深みへと引き込まれたケースと考えることができましょう。

 大きなアパリシオンに関して述べると、マルグリット=マリは1673年12月27日にキリストの聖心の圧倒的な臨在を感じ、聖心への信心を広めるように命じられたとされています。第二回目のアパリシオンは翌年のいずれかの月の第一金曜日、マルグリット=マリが礼拝堂の聖体顕示台に向かって跪いているときに、キリストが現れました。キリストは五つの傷口から太陽のようにまばゆい光を発し、全身から、特に聖心から、愛の炎が噴き出ていました。キリストは聖心を取り出して聖女に示しました。


 二回目の出現によってまたもや脱魂状態に陥ったマルグリット=マリを、ド・ソメーズ院長は厳しく責めました。マルグリット=マリは高熱を出し、ド・ソメーズ院長はすぐに健康を取り戻すならマルグリット=マリの経験が神に由来すると信じよう、と言いましたが、マルグリット=マリは実際すぐに回復し、院長をはじめとする周囲の人々は判断に苦しみました。院長は外来の司祭に判断を求めましたが、司祭たちは、マルグリット=マリが気が触れているか、あるいは悪魔に憑かれていると言います。おそらく周囲の影響により、聖女自身も自分の体験が神によるものだという確信が持てなくなってしまいました。ド・ソメーズ院長はマルグリット=マリに対して厳しい態度で臨みましたが、マルグリット=マリは従順であり続けました。


 1675年、パレ=ル=モニアルのイエズス会修道院にクロード・ド・ラ・コロンビエール神父 (St. Claude de la Colombière, 1641 - 1682) が院長として着任しました。ド・ラ・コロンビエール神父は弱冠34歳でしたが、若い年齢にもかかわらず聖性に秀でていました。優れた知能と学的素養の持ち主でもあり、宰相コルベール (Jean-Baptiste Colbert, 1619 - 1683) に見込まれて、息子ふたりの家庭教師を務めたこともありました。

 ド・ラ・コロンビエール神父


 ド・ラ・コロンビエール神父は四旬節に聖母訪問会を訪れて修道女たちの告解を受けましたが、その際にすぐにマルグリット=マリに注目し、マルグリット=マリもまた、聖心の信心を広めるにあたり、ド・ラ・コロンビエール神父が協力者となるであろうことを、神の啓示により知りました。告解のときは修道女の顔を見ることはできませんが、後日聖母訪問会を再訪した際に神父はマルグリット=マリに目を留めて、ド・ソメーズ院長に対し、マルグリット=マリは神の恩寵を受けていると言いました。

 院長は別の日にマルグリット=マリに命じて神父に面会させ、自身の内的状態を話させました。神父とマルグリット=マリは対話を重ね、神父はマルグリット=マリが精神病でも悪魔に憑かれているのでもないと明言し、聖心への信心を広め続けるように励まし、自らもそのためにあらゆる努力を惜しまない決意を固めました。

 1675年の聖体の祝日(6月13日)から八日間にわたり、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院礼拝堂では聖体が顕示されていました。マルグリット=マリは聖体顕示台に向かって跪いていましたが、このとき第三回目の大きなアパリシオンを受けました。神は聖心を示して人々の忘恩について語り、聖体の祝日後の八日間が過ぎて最初の金曜日を、聖体の祝日とするように命じました。



(上) 1675年の御出現を浮き彫りにしたメダイ。1900年のもの。当店の商品です。


 マルグリット=マリの指導司祭であり、聖女の内的経験を神からの啓示と信じるド・ラ・コロンビエール神父は、この第三回目のアパリシオン後の金曜日に、自分自身を聖心に捧げました。翌1676年の秋、神父はヨーク公(イギリス国王ジェイムズ2世の弟)の妃付司祭として指名されてイングランドに渡りましたが、マルグリット=マリとの書簡のやり取りは続きました。


 ド・ラ・コロンビエール神父がパレ=ル=モニアルを去った翌年、キリストはマルグリット=マリに対し、修道女たちが神に心を向けないゆえに父なる神が怒っておられること、その怒りを逸らすために聖女が自分を犠牲に捧げるよう求めました。マルグリット=マリは修道院においてほとんど最年少であったにもかかわらず、先輩修道女たちの罪を全員の前で告発せざるを得ない状況になりました。聖女は極度に怖れ悩みましたが、最後は従順に聴き従い、1677年11月20日の夜にこのことを実行しました。その結果、一部の修道女たちは耳を傾けて告解と悔悛の苦行を行いました。しかしながら当然予想されたように、一部の修道女たちは激高して聖女に十字を切り、聖水を投げつけ、それから後のマルグリット=マリは精神的に追い詰められる日々が続きました。しかし聖女は神への愛ゆえ、歓びを以ってすべてに耐えました。


 ミサに与(あず)かるマルグリット=マリ。古い絵葉書から。


 1678年6月17日、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院に新院長ペロンヌ=ロザリー・グレイフィエ (Péronne-Rosalie Greyfié, 1638 - 1717) が着任しました。この頃のマルグリット=マリは、宗教的な罪の意識に以前と変わらず苛まれるとともに、周囲からの批判を自分に非があるせいだと思い込み、絶えずわが身を鞭打つ等の苦行に励んで、身体の健康状態はたいへん悪化していました。新院長はマルグリット=マリの行動に、前任者以上に戸惑い、聖女に対して非常に厳しく接しました。しかしながら院長がマルグリット=マリに宛てた忠告のメモあるいは手紙を読むと、院長の厳しい態度は、マルグリット=マリの霊的成長を願う気持ちから発していたことがわかります。

 1675年から76年にかけてマルグリット=マリを指導したド・ラ・コロンビエール神父は、その後帰国してリヨンにいましたが、ロンドンで罹った病気のために、1681年夏、環境の良いパレ=ル=モニアルに転地しました。当地でも良くならなかったので、さらなる療養のために、パレ=ル=モニアルから南南西におよそ120キロメートル離れた生地サン=サンフォリアン=ドゾン(Saint-Symphorien-d'Ozon ローヌ=アルプ地域圏ローヌ県)に戻ることになりましたが、マルグリット=マリは神父が当地で天に召されることを神が望んでおられると言って神父を引きとめました。神父は聖女の言を容れてパレ=ル=モニアルに留まり、1682年2月15日に当地で亡くなりました。

 1684年5月、院長ペロンヌ=ロザリー・グレイフィエはセミュール=アン=オソワ(Semur-en-Auxois  ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県)の修道院長に選ばれてパレ=ル=モニアルを後にし、後任にスール・ムラン (Marie-Christine Melin) が選ばれました。パレ=ル=モニアル修道院生えぬきの人であったムラン新院長は、マルグリット=マリが優れた人材であることをよく理解しており、聖女を院長の補佐役に抜擢し、さらに半年後には修練院長に任命しました。聖女は1685年から翌86年まで二年に亙る任期を修練院長としてよく務め、聖心に対する崇敬を修道院内に広めました。またド・ラ・コロンビエール神父の著書「ルトレート・スピリチュエル」("Retraite spirituelle", Lyon, 1684) が広く読まれることにより、聖心への崇敬は他の修道院にも広まってゆきました。

 マルグリット=マリはその後看護担当助手、修道院に短期滞在する女性たちの指導係、修道院長の補佐役を務めた後、1690年10月17日、43歳で亡くなりました(註2)。


【マルグリット=マリの列福と列聖】

 マルグリット=マリに関する列福の調査は 1714年10月15日に始まりました。1830年に聖女の棺が開けられた際、二件の奇蹟的治癒が起こったと報告されています。マルグリット=マリは、1864年9月18日、ピウス9世によりローマで列福され、1920年5月13日、ベネディクトゥス15世によりローマで列聖されました。また1929年には教会暦上の祝日が定められました。

 マルグリット=マリの祝日は10月16日です。現行の教会暦において、マルグリット=マリの祝日と聖女がが亡くなった日に一日のずれがある理由は、聖女が亡くなった日付である10月17日が、使徒時代の教父アンティオキアのイグナティウス (Ignatius Antiochenus, c. 35 - c. 108) の祝日となったため、聖女の祝日が1969年に一日ぶん繰り上げられたことによります。

 マルグリット=マリは聖心を崇敬する人、及び両親を亡くした人の守護聖人です。


【「悔悛のガリア」】

 マルグリット=マリに対する大きなアパリシオン(apparitions 御出現)は三回とされていますが、前述したように、神秘思想家マルグリット=マリはその内面において、さまざまな様態の神秘体験を頻繁に経験しました。


 1689年、マルグリット=マリはフランス国王ルイ14世へのメッセージを含む啓示をキリストから受け取りました。キリストはルイ14世を「わが聖心の長子」(le fils aîné de mon sacré Cœur) と呼び、受難の際に受けた不正への償いとして、次のことを求めました。

・国王が自らを聖心に奉献し、その範によって宮廷および諸国の権力者をも聖心の信心へと導くこと。

・聖心に捧げた礼拝堂を、ヴェルサイユ宮に設けること。

・ルイ14世自らがローマの聖座(教皇)に働きかけて、聖心に捧げたミサを定めさせること。


 マルグリット=マリはキリストから受けた啓示をルイ14世宛ての手紙に記しました。聖女の手紙はパレ=ル=モニアルのド・ソメーズ院長から、パリのシャイヨ宮にある聖母訪問会修道院の院長、王妃、国王付聴罪司祭を経て国王に渡されるはずでした。

 しかしながら国王からの反応はありませんでした。聖女の手紙がいずれかの段階で止められたか、あるいは国王が手紙を読んでも内容を実行しなかったのです。聖女に対するこの時の啓示が明らかになったのは、マルグリット=マリ列福の三年後、聖女がド・ソメーズ院長に宛てた手紙のひとつ(第98書簡)が1867年8月に公開されたときのことです。

 19世紀後半のフランス人たちは、普仏戦争の敗北、コミューンの内乱など、フランスを襲った数々の不幸を、ノアの洪水に比して考えました。ルイ14世とフランス人の心が頑なになり、キリストの啓示に聴き従わなかった結果、それらの災厄が起こったと思われたのです。キリストはマルグリット=マリを通してフランスに啓示を与えたのに、それ以来百年経ってもフランスは回心せず、それどころかフランス革命を起こして、ますます悪くなりました。聖女に啓示が為されたちょうど百年後、1789年の聖心の祝日(6月17日)に第三身分が国民議会を結成し、反キリスト教的、反教会的なフランス革命が本格化したことは、保守的な人々の目から見れば、フランスが神に反逆した象徴的な出来事と映りました。




(上) キリストに身を投げかける悔悛のガリア。背景は 1914年9月4日のドイツ軍による空襲で炎上するランス司教座聖堂ノートル=ダム。ノートル=ダム・ド・ランスは歴代のフランス国王が戴冠した司教座聖堂です。手前にジャンヌ・ダルクの騎馬像が見えます。当店の商品。


 19世紀後半のフランスでは、こうして宗教的な「回心」の必要が叫ばれるようになり、「悔悛のガリア」(Gallia pœnitens) をキリストの聖心に捧げる国民的規模の運動が起こりました。この時代に、聖心に捧げた「サクレ=クール教会」がモンマルトルをはじめとするフランス各地に建てられたのは、悔悛のガリアを聖心に奉献しようとする運動の結果です。



註1 キリスト者の身に起こる奇跡や神秘体験は、悪魔による惑わしかもしれないと考えられました。それゆえそのような体験をした人の聖性は、教会に対する従順さを基準にして判断されました。

註2 聖母訪問会では、すべての修道女について伝記的な記録を残しています。修道者の日々は単調ですから、修道者の生涯に関する記録といっても、最も簡易な場合は主な出来事の日付のみになります。しかしながら神秘体験的な夢をこまめに記録した日記が伝記に添付される場合があります。睡眠時に見た夢をありのままに記録しても、それは夢でしかないので、夢の内容と教義の整合性が教会に精査されることもありません。したがって修道女の日記に現れる夢は教会の規制を受けないありのままの記録と考えられ、心理学や宗教学の優れた資料となります。


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