フランソワ・ド・サール (フランシスコ・サレジオ)
仏 François de Sales 伊 Francesco di Sales 羅 Franciscus Salesius, 1567 - 1622




(上) 聖フランソワ・ド・サールの肖像 フィリップ・ド・シャンペーニュ(Philippe de Champaigne, 1602 - 1674)による絵を、サヴィニアン・フランソワ・シャルル・プチ(Savinien François Charles Petit, 1815 - 1878)がデッサンにし、J. シェヴロン(J. Chevron)が版画にしたもの。


 16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパは宗教改革に続く宗教戦争の時代でした。聖フランソワ・ド・サール(仏 François de Sales, 1567 - 1622)はこの時代に生きた人物で、当時アヌシーに逃れていたジュネーヴ司教の職にあり、カトリックの精神的指導者として尊敬されました。「何事も力によらず、すべてを愛によって」と説いたド・サール師は、「愛の博士」(仏 Docteur de l'amour)と呼ばれています。普及し始めたばかりの活版印刷を活用したド・サール師の著作群は、カトリック世界において聖書に次いで多く読まれてきた書物であり、プロテスタントを含めたキリスト教界に大きな影響を及ぼしています。

 わが国において、ド・サール師は「フランシスコ・サレジオ」(註1)という名前で知られています。


【聖フランソワ・ド・サールの生涯】

1. 幼少期から青年期まで

 ヨーロッパ人の姓が「ド」「デ」「ディ」「フォン」「ファン」等の冠詞で始まる場合、その姓は領地の名前を表しています。したがってそのような姓を持つ人は、もともと領主(貴族)階級に属します。フランソワ・ド・サールの場合も、領主の家系の出身であること、所有する地所の名が「サール」(Sales)であることが、「ド・サール」という姓からわかります。

 1416年から1720年まで、フランス南東部からイタリア北西部を領地とする国「サヴォワ公国」(仏 Duché de Savoie 伊 Ducato di Savoia)がありました。フランスのシャンベリー(Chambéry ローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県)とイタリアのトリノ(Torino ピエモンテ州トリノ県)は、サヴォワ公国の古都です。サヴォワ公国北部の美しい湖ラック・ダヌシー(Lac d'Annecy)のほとりにはアヌシー(Annecy ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)の町があり、ここからおよそ二十キロメートルほど北西に行くとド・サール家の城、ル・シャトー・ド・サール(le château de Sales サール城)があります。




(上) フランソワ・ド・サール師が生まれた城、ル・シャトー・ド・サール。ルイ・ジュリアン・ブレリオ神父(Louis Julien Blériot, Frère Fulgence, 1824 - 1883)による 1870年頃の石版画。


 フランソワ・ド・サールは、1567年8月21日、この城で、六人きょうだいの長子として生まれ、アッシジのフランチェスコに因んで「フランソワ」と名付けられました。息子を行政官にしたいと考えた父により、フランソワはパリに送られ、イエズス会のコレージュ(現リセ・ルイ=ル=グラン le lycée Louis-le-Grand)で学びました。フランソワがとりわけ関心を持ったのはアウグスティヌスにおける恩寵論と救済予定説の関係でした。 1586年12月から翌年にかけて、フランソワは自分が滅びに定められていると思い込み、苦悩しました。パリのサン=テティエンヌ=デ=グレ教会(l'église Saint-Étienne-des-Grès)にあるノートル=ダム・ド・ボンヌ・デリヴランス(Notre-Dame de Bonne-Délivrance)像の前で熱心に祈って、不安から解放されたフランソワは、聖母に一生を捧げて貞潔に生きることを誓いました。1588年にコレージュを卒業したフランソワ青年は、パドヴァに移って法学と神学を学び、1592年に大学を卒業してサヴォワに戻りました。




(上) ジュネーヴ、サン・ピエール聖堂にある「ラ・シェーズ・ド・カルヴァン」(仏 la chaise de Calvin カルヴァンの座)。サン・ピエール聖堂はジュネーヴの司教座聖堂でしたが、1535年にカルヴァン派に占領され、それ以来プロテスタント教会になっています。1870年代のアルブミン・プリント。


 フランソワの帰りを待っていた父は、息子に領地を与え、結婚させてシャンベリー市の参事会員にしようとしました。シャンベリーはフランソワが生まれる数年前まで公国の首都であった重要な町です。しかしながらフランソワは父の勧めを断り、司祭になる希望を伝えました。当時ジュネーヴ司教はカルヴァン派によってジュネーヴから追放され、アヌシーに司教座を置いていましたが、司教クロード・ド・グラニエ師(Mgr. Claude de Granier, 1538 - 1602)がアヌシーにあるジュネーヴ司教座聖堂参事会主事の地位をフランソワのために用意しました。司教座聖堂参事会の主事は教会内でもかなり高い地位ですので、父もこれに納得して、息子のアヌシー行きを許しました。

 フランソワは 1593年5月に司教座聖堂参事会員となり、長子としてのすべての権利と領地の権利を放棄しています。同年12月に叙階された後、ジュネーヴ司教座聖堂参事会主事に就任しました。


2. 若き司祭フランソワ

 フランソワ・ド・サールが生まれたときのサヴォワ公は、エマニュエル=フィリベール(Emmanuel-Philibert de Savoie, 1528 - 1580)でした。エマニュエル=フィリベールは公国の首都をシャンベリーからトリノに遷した人です。1580年にエマニュエル=フィリベールが亡くなると、正妻との間に儲けた十八歳の公子が、シャルル=エマニュエル一世(Charles-Emmanuel Ier, 1562 - 1630)としてサヴォワの公位を継ぎました。

 エマニュエル=フィリベールはカトリック信徒でしたが、領地が侵されない限り、領民のプロテスタント信仰に寛容でした。次のサヴォワ公シャルル=エマニュエル一世は、公国の全域において、領民がカトリックを信仰することを望みました。サヴォワ公国に属するシャブレ(le Chablais)ではプロテスタントの勢力が強かったので、公はこの地域にカトリック宣教団を送りこみましたが、宣教団はカルヴァン派によって追い返されました。


 サヴォワ公シャルル=エマニュエル一世


 1594年9月、フランソワは「聖書」とイエズス会士ロベルト・ベラルミーノ枢機卿の「現代の異端者たちに対する駁論集」(Disputationes de controversiis christianae fidei adversus hujus temporis haereticos, 1586 - 93)だけを持って、単独でシャブレに乗り込みました。フランソワはシャブレで唯一のカトリック教会で説教をしましたが、魔術師であるとの中傷を受け、プロテスタントに殺害される危険さえありました。またプロテスタント側は信徒がフランソワの説教を聴くことを禁じたため、思うように宣教を進めることができませんでした。そこでフランソワはチラシに説教を印刷して配り、一年を費やして、ようやく数名の改宗者を得ました。

 シャブレの中心都市トノン=レ=バン(Thonon-les-Bains ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)に居を定めたフランソワは、1595年になるとプロテスタントとの間に神学論争を行う一方、病者を見舞う活動を続けました。1596年と1597年には公開説教を始め、プロテスタント側もこれに応えざるを得なくなります。フランソワと密かに対話を重ねていたアヴュリー(Avully 現スイス西端)の領主が 1596年2月にカトリックに改宗すると、ジュネーヴのカルヴァン派神学者アントワーヌ・ド・ラ・フェイ(Antoinede de La Faye, 1540 - 1615)がフランソワに論争を挑み、フランソワはジュネーヴに赴いてこれに応えました。

 フランソワはトリノに出向いてサヴォワ公シャルル=エマニュエル一世の許可を得、1596年のノエル(クリスマス)に、トノンにおいて三度、公開のミサを行いました。また 1597年1月にはトノンで毎日ミサを立てる許可をサヴォワ公から与えられました。1597年と98年にはシャプレの住民多数がカトリックに改宗し、1598年、アヌシー在のジュネーヴ司教クロード・ド・グラニエ師はフランソワに協働司教となるよう求め、教皇クレメンス八世はフランソワをジュネーヴの協働司教及びニコポリス(Νικόπολις ἡ πρὸς Ἴστρον ブルガリア)司教に任じました。

 ジュネーヴ司教クロード・ド・グラニエ師は、1602年、フランソワをパリに派遣します。フランソワが宮廷で行った説教は評判となり、国王アンリ四世はフランソワにパリ司教になるよう求めましたが、フランソワはこれを断りました。フランソワは九か月間パリに滞在し、その間にバルブ・アカリ(Barbe Acarie, 1566 - 1618) のサロンに出入りしました。バルブ・アカリはフランスで最初の跣足カルメル会修道院がパリにできるに当たって功績のあった人で、夫の死後、自身もカルメル会修道女となり、「マリ・ド・ランカルナシオン」(Marie de l'Incarnation 御託身のマリア)として知られることになります。バルブ・アカリ、御託身のマリア修道女は、1791年、ピウス六世によって列福されています。


3. ジュネーヴ司教として

 フランソワがパリからサヴォワに戻る直前、クロード・ド・グラニエ師が死去します。このことにより、1602年12月8日、フランソワ・ド・サールはジュネーヴ司教に叙任されました。新司教ド・サール師は教区民のためにカテキズム教育を復活させます。1604年、ド・サール師は復活祭の説教をするためにディジョン(Dijon ブルゴーニュ地域圏コート・ドール県)を訪れ、そこでジャンヌ・ド・シャンタル(Jeanne de Chantal, 1572 - 1641)と知り合います。ド・サール師とジャンヌ・ド・シャンタルは、後に聖母訪問会(l'Ordre de la Visitation de Sainte-Marie)を設立することになります。またド・サール師はこの頃から多くの人々と文通し、信仰生活や慈善の勧めを行うようになります。ド・サール師の著作のうち最もよく知られた「信仰生活への手引き」(Introduction à la vie dévote, 1609)は、これらの書簡を基にしています。




(上) 「信仰生活への手引き」 パリ、レオナール書店から出版された1696年版の扉


 ド・サール師はジャンヌ・ド・シャンタルとも文通を重ねています。ジャンヌ・ド・シャンタルは未亡人で、修道女になりたいという望みを持っていました。1610年6月6日、ド・サール師とジャンヌ・ド・シャンタルは、アヌシーの町を望む山中の小さな家に聖母訪問会を設立します。「聖母訪問会」という修道会の名前は、受胎を告知されたマリアがエリザベトを訪問して喜びを伝えたのと同様に、この会の修道女たちがキリストの良き知らせを持って貧者を訪問することに因んでいます。

 この頃、ド・サール師の聖性を慕う病者たちが、癒しを求めて師の許(もと)を訪れました。奇跡的治癒を得た人々もいましたが、ド・サール師は「私が癒したのではない。信仰を持つ者を、神が癒し給うのです」と言いました。

 1615年、ド・サール師は「神愛論」(Traité de l'amour de Dieu)を著します。「神愛論」は一般の人々に語り掛けるとともに、その一部を聖母訪問会員に向けた内容とし、修道者の霊的生活について語っています。




(上) アンジェリーク・アルノー(向かって右)とアニェス・アルノーの肖像 Jean-Baptiste de Champaigne, "Portrait de la mère Angélique Arnaud et de sa sœur la mère Agnès Arnauld", Huile sur toile, Musée de Port-Royal des Champs, Magny-les-Hameaux


 サヴォワ公シャルル=エマニュエル一世の息子であり、1630年に父が亡くなると公国を継ぐことになるヴィクトル・アメデ一世(Victor-Amédée Ier, 1587 - 1637)は、1619年に、フランス王アンリ四世の娘クリスティン(Christine de France, 1606 - 1663)と結婚します。この結婚に際して、ド・サール師はサヴォワ公に同行してパリに赴き、十年ぶりにパリで説教を行ったほか、ポール=ロワイヤル修道院長であるアンジェリーク・アルノー(Mère Angélique Arnauld, 1591 - 1661)の霊的指導者となり、ヴァンサン・ド・ポール(Vincent de Paul, 1581 - 1650)とも知り合っています。

 翌 1620年にサヴォワに戻ったド・サール師は、その後しばらくして体調を崩しましたが、サヴォワ公のパリ行きに再び同行するように求められ、病を押して従います。死期を悟ったド・サール師は、パリへの途上、各地の聖母訪問会修道院に立ち寄り、リヨンではジャンヌ・ド・シャンタルを尋ねました。これは 1622年12月12日のことです。その直後、ド・サール師の体調はさらに悪化し、同月28日、リヨンで亡くなりました。ド・サール師の遺体は速やかにアヌシーに運ばれ、何件もの奇跡的治癒を起こしたと伝えられています。


【聖フランソワ・ド・サールの精神】

 十七世紀のヨーロッパは宗教戦争の時代でしたが、フランソワ・ド・サール師はキリスト教信仰を日々の生活に活かすことを教え、この時代の上流階級に大きな影響を及ぼしました。また各地の修道院改革に取り組んだことからも分かるように、聖職界の意識改革にも熱心に取り組みました。

 カール五世に外交官として使えた司祭ユスタシュ・シャピュイ(Eustache Chappuis, 1491 - 1556)は、外交官を辞めた後に、アヌシーとルーヴェンにコレージュを設立します。シャピュイ師のコレージュはプロテスタントと論争しても負けない人材を育成するための中等学校で、あらゆる階層の若者に門戸を開いていました。アヌシーのコレージュ(Le Collège Chapuisien d'Annecy)はド・サール師が学んだ場でもありました。聖性への道は万人に開かれていると考えたド・サール師は、アヌシーのコレージュに優れた教育者を招くことにも心を砕き、ミラノのバルナバ会(聖パウロ修道聖職者会)からレデント・バランザーノ神父(P. Redento Baranzano di Serravalle Sesia, 1590 - 1622)を招聘し、コペルニクスとガリレオの地動説を教えさせました。

 ド・サール師の精神を最も特徴づけるのはキリスト教信仰に基づく「愛」であり、この特質ゆえにド・サール師は「ドクトゥール・ド・ラムール」(仏 Docteur de l'amour 「愛の博士」の意)と呼ばれています。ド・サール師は「何事も力によらず、すべてを愛によって」(Rien par force, tout par amour)と説きました。信仰に基づく愛は敵対勢力であるプロテスタントにも向けられました。ド・サール師はジュネーヴ司教座聖堂の参事会員たちに対して「ジュネーヴの市壁を揺るがすのは、愛によらなければなりません。ジュネーヴに愛を溢れさせなければなりません。ジュネーヴを取り戻すのは、愛によらなければならないのです」(C'est par la charité qu'il faut ébranler les murs de Genève, par la charité qu'il faut l'envahir, par la charité qu'il faut la recouvrer.)、「ジュネーヴの市壁を熱心な祈りによって崩し、兄弟愛によって攻撃するのでなければなりません」(Il faut renverser les murs de Genève par des prières ardentes et livrer l'assaut par la charité fraternelle.)と説いています。


【列福と列聖など】

 ド・サール師は死後間もない 1626年に列福に向けた調査が始まり、1661年12月18日にアレクサンドル七世により列福、1665年4月19日に列聖されました。1877年にはピウス十一世により教会博士とされました。「教会博士」(羅 DOCTOR ECCLESIAE)とは学識と聖性において特に優れた聖人に贈られる称号で、カトリック教会全体で三十五人しかいません。

 聖フランソワ・ド・サールは作家とジャーナリストの守護聖人です。祝日は1月24日です。

 ドン・ボスコ(Giovanni Melchiorre Bosco, 1815 - 1888)が 1854年に設立したサレジオ会(羅 Societas Sancti Francisci Salesii 伊 La Società Salesiana di San Giovanni Bosco, S.D.B.)は、ド・サール師の精神を規範と仰ぎ、師の名前を修道会名としています。



註1 辞書や事典の見出しにおいて、ラテン語の人名は「主格」(文の主語になるときの語形)で表示されるのが普通です。しかしながらわが国のキリスト教界では、多くの場合、聖人の名前をラテン語の「主格」ではなく、「奪格」(だっかく)という形で呼んでいます。たとえばイエースス、ペトルス、パウルスというように主格で言わず、イエス、ペトロ、パウロのように奪格を使います。聖フランソワ・ド・サールの場合も、ラテン語名の主格形は「フランキスクス・サレシウス」(羅 Franciscus Salesius)ですが、わが国のカトリック教会ではこれを奪格形にし、さらに近代語風に発音を変えて、「フランシスコ・サレジオ」と呼んでいます。



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