聖ジャンヌ・ド・シャンタル Ste. Jeanne de Chantal, 1572 - 1641

 聖ジャンヌ・ド・シャンタル 1636年に描かれた肖像


 聖ジャンヌ・ド・シャンタル(Ste. Jeanne de Chantal, 1572 - 1641)は貴族の未亡人で、「愛の博士」(仏 Docteur de l'amour)として知られる教会博士、聖フランソワ・ド・サール(フランシスコ・サレジオ François de Sales, 1567 - 1622)と同時代の人物です。聖ジャンヌ・ド・シャンタルと聖フランソワ・ド・サールは「聖母訪問会」(l'Ordre de la Visitation de Sainte-Marie)の共同設立者です。


【聖ジャンヌ・ド・シャンタルの生涯】

 聖ジャンヌ・ド・シャンタルは結婚前の名前をジャンヌ=フランソワーズ・フレミオ(Jeanne-Françoise Frémiot)といい、ディジョンの名家に生まれました。

 ジャンヌの父ベニーニュ・フレミオ(Bénigne Frémyot, 1538 - 1611)はディジョン(Dijon ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県)近郊の村トスト(Thostes)とトリー(Tolly)の領主であり、1571年にディジョン会計院(Chambre des Comptes)の院長に就任した後、1581年からは国王参事官(conseiller du roi クリア・レギスの一員)及びブルゴーニュ高等法院の上級部長評定官(仏 président à mortier)となり、1595年から97年にはディジョン市長(vicomte-mayeur / vicomte maïeur)を務めた貴族でした。ジャンヌはベニーニュ・フレミオとその妻マルグリット(Marguerite Berbisey)との間に生まれた娘ですが、母マルグリットはジャンヌの弟アンドレを産んだ際に亡くなってしまいました。このときジャンヌは生後十八か月の幼い子供でした。


 ジャンヌの弟アンドレ(Mgr. André Fremyot, 1573 - 1641)は長じて司祭となり、1595年にサン=テティエンヌ・ド・ディジョン(Saint-Etienne de Dijon ディジョンの聖エチエンヌ教会)における聖アウグスティヌス律修参事会(les chanoines réguliers de saint Augustin)の参事会長、1603年にブールジュ大司教となります。


【ジャンヌの結婚、夫と子供との死別】




 ジャンヌは 1592年に貴族男性クリストフ・ド・シャンタル(Christophe II de Rabutin, baron de Chantal, 1563 - 1601)と結婚し、死産した二人を含めて三人の男子、次いで三人の女子を得ました。ただし死産でなかった四人の子供のうち、長生きしたのは第五子にして次女のフランソワーズ(Françoise de Rabutin-Chantal, c. 1599 - 1684)のみです。

 第四子にして長女のマリ・エメ(Marie Aymée de Rabutin-Chantal, 1598 - 1617)は 1609年、十一歳のときにベルナール・ド・サール(Bernard de Sales, baron de Sales et Thorens, 1582 - 1616)と結婚しました。マリ・エメの夫ベルナールは十二人きょうだいの第七子でしたが、このきょうだいの長子が聖フランソワ・ド・サール(St. François de Sales, 1567 - 1622)です。ジャンヌ・ド・シャンタルとフランソワ・ド・サールの間にこのようなつながりができたのは、ジャンヌの弟であるブールジュ大司教アンドレ・フレミオが、ジュネーヴ司教(prince-évêque de Genève)であったフランソワ・ド・サール師と親交を結んでいたためでしょう。


 話が前後しますが、ジャンヌの夫クリストフ・ド・シャンタルは、結婚十年目の 1601年、末娘シャルロット(Charlotte de Rabutin-Chantal, 1601 - 1610)が生まれたのと同じ年に、狩猟中の事故で亡くなってしまいました。悲しみに打ちひしがれたジャンヌは、再婚せずに慈善に一生を捧げることを心に決めました。




(上) 聖フランソワ・ド・サールの肖像 フィリップ・ド・シャンペーニュ(Philippe de Champaigne, 1602 - 1674)による絵を、サヴィニアン・フランソワ・シャルル・プチ(Savinien François Charles Petit, 1815 - 1878)がデッサンにし、J. シェヴロン(J. Chevron)が版画にしたもの。


 夫が亡くなって三年後の 1604年、フランソワ・ド・サール師が復活祭の説教をしにディジョンを訪れた際、ジャンヌはド・サール師に会って決心を伝えました。ド・サール師はこのときからジャンヌの霊的指導者となりました。

 1610年、末子にして三女のシャルロットは九歳で亡くなりました。ジャンヌはこの年にディジョンを離れてアヌシーに行き、フランソワ・ド・サール師を共同設立者として、同地に「聖母訪問会」(l'Ordre de la Visitation de Sainte-Marie)を作りました。


【聖母訪問会】

 1610年6月6日、ジャンヌ・ド・シャンタルを含む四人の女性がアヌシー近郊の小さな家「メゾン・ド・ラ・ガルリ」(la maison de la Galerie)で共同生活を始め、同年十月以降は日々のミサに与れるようになりました。共同生活を始めて一年後となる翌 1611年6月6日、フランソワ・ド・サール師の指導の下に修練期を終えた四人の女性は修道誓願を立てました。


(下) 「メゾン・ド・ラ・ガルリ」 ルイ・ジュリアン・ブレリオ神父(Louis Julien Blériot, Frère Fulgence, 1824 - 1883)による 1870年頃の石版画。

 lithographie par "un Religieux de Tamié"


 四人が最初に住んだ「メゾン・ド・ラ・ガルリ」は病者や貧者を十名以上も収容して手狭になったので、「聖母訪問会」は同年10月30日にこの家を売って大きな家(la maison Nycollin)に移り、翌1612年1月1日からはアヌシーの町に出て病者を訪問する活動を始めました。1613年9月18日にはサヴォワ公シャルル=エマニュエル一世の娘であるマルグリット・ド・サヴォワ(Marguerite de Savoie, 1589 - 1655)によってアヌシー修道院の定礎が行われました。同修道院は 1614年に完成します。

 当時の修道女は修道院の外に出ることを厳しく禁止されるのが普通でした。「聖母訪問会」は病者や貧者を訪問するための会ですから、会員たちは町に出て活動しましたが、これが教会当局の目に留まり、リヨン大司教であるドニ=シモン・マルクモン枢機卿(Mgr. Denis-Simon de Marquemont, 1572 - 1626)からは、聖母訪問会を指導するフランソワ・ド・サール師に対して大きな圧力が掛かりました。その結果ド・サール師も不本意ながら教会当局の要求を受け入れざるを得ず、ド・サール師が1615年または 1616年に起草した会憲では、「聖母訪問会」を修道院から外に出ない観想修道会と位置づけることになりました。


 当初四人の会員で始まった「聖母訪問会」の発展は目覚ましく、創始五年後の1615年にはリヨンにおいて二か所めの修道院の定礎が、翌 1616年にはムーラン(Moulins オーヴェルニュ地域圏アリエ県)において三か所めの修道院の定礎が、それぞれ行われました。1618年にはグルノーブルとブールジュ、1619年にはパリに修道院ができています。また 1618年10月16日には教皇パウルス五世により、聖アウグスチノ会則に基づく会憲が承認されています。

 「聖母訪問会」の修道院数は、1622年12月28日、フランソワ・ド・サール師がリヨンで客死したときには十三箇所、1641年12月13日にジャンヌ・ド・シャンタルが亡くなったときにはヨーロッパ全域の八十七箇所に達していました。


(下) アヌシーの聖母訪問会修道院 1870年頃の様子。ルイ・ジュリアン・ブレリオ神父の石版画。




【列聖など】

 ジャンヌ・ド・シャンタルは 1751年にベネディクトゥス十四世によって列福、1767年にクレメンス十三世によって列聖されました。聖ジャンヌ・ド・シャンタルの遺体は、聖フランソワ・ド・サールの遺体とともに、アヌシーのバジリク・ド・ラ・ヴィジタシオン(la basilique de la Visitation 聖母訪問会のバシリカ)に安置されています。


(下) 聖ジャンヌ・ド・シャンタルの棺がバジリク・ド・ラ・ヴィジタシオンのクリプトに運ばれた際の行列。1912年の絵葉書より。




 聖ジャンヌ・ド・シャンタルは母親と未亡人の守護聖人であるのに加え、前科のある人の守護聖人ともされています。前科のある人の守護聖人であるのは、ポール・ロワイヤルのアンジェリーク・アルノー修道院長(Mère Angélique Arnauld, 1591 - 1661)やアベ・ド・サン=シラン(Jean-Ambroise Duvergier de Hauranne, abbé de Saint-Cyran, 1581 - 1643)との交流があったために、ジャンセニストの疑いをかけられたからでしょう。

 聖ジャンヌ・ド・シャンタルの祝日は長い間 12月12日でしたが、現在では 8月12日に移っています。



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