ニコメディアの聖バルバラ(ヘリオポリスの聖バルバラ)
Ἁγία Βαρβάρα της Νικομηδείας, Sancta Barbara Nicomediensis/Heliopolitana, premières années du IVe siècle




(上) Parmigianino, Santa Barbara, c. 1522, 48 x 39 cm, Museo del Prado


 ニコメディアの聖バルバラ(Ἁγία Βαρβάρα της Νικομηδείας)はギリシアの植民市ニコメディアで生まれ、ヘリオポリス(レバノンの古代都市バールベク)で殉教したと伝えられる三世紀の聖女で、異教徒の父により塔に閉じ込められたという聖人伝で知られます。

 聖バルバラはカトリック教会と正教会において古くから崇敬される聖人で、四世紀前半にはローマの暦に殉教聖女として祝日が割り当てられ、380年頃にはニコメディアでギリシア語の聖人伝が成立したと考えられます。12月4日の聖バルバラ祭はノルマンディー、ブルターニュをはじめとする西ヨーロッパの諸地域で十三世紀以来親しまれてきましたし、聖バルバラは鉱夫たちが誰よりも頼みとする守護聖女でした。しかしながら聖バルバラは歴史的実在性が不確かなため、現在はカトリックの典礼暦から外されています。



【聖人伝によるバルバラの生涯】



(上) Robert Campin, dit le Maître de Flémalle, Ste Barbe, 1435, Peinture sur bois, 101 x 47 cm, Museo del Prado, Madrid


 聖人伝によると、聖バルバラはディオクレティアヌス、マクシミアヌス両帝の治世(284 - 305年 註1)に、ニコメディア(註2)またはヘリオポリス(註3)で生まれました。父ディオスコロス(Διόσκορος)はフェニキア系の富裕な異教徒で、ニコメディアの造営官(註4)を務めていたとも伝えられます。娘は極めて美しかったので求婚者たちが殺到したため、父は窓が二つしかない塔に娘を幽閉し、侍女を付けました。しかるにこの侍女はキリスト教徒で、侍女に感化された娘はキリストを信じるようになりました。

 さて或るとき父は一時的な用事で遠方に出かけましたが、少女は石工に命じて水が流れる浴槽を作り、洗礼盤としました。さらに父が命じて作らせた二つの窓に加えて三つ目の窓を作らせました。父の留守中、一人の司祭が医者に変装して塔に少女を訪ね、塔の浴室で洗礼を授けました。父が旅先から戻ると、少女は塔に三つめの窓を設けたことを父に知らせ、三つの窓が三位一体を表すこと、自身がキリスト教徒になったことを父に話しました。怒った父は県を抜いて娘に斬り付けましたが、岩が二つに裂けて少女を包み、遠くの山に運びました。その山では二人の羊飼いが羊を放牧しており、彼女の居場所を父に告げたので、少女は捕まってしまいました。しかるに少女の居所を密告した羊飼いたちは石に、羊はイナゴに変わりました。

 父はローマ総督マルキアノスの前に娘を連れて行きました。総督は神々にいけにえを捧げるよう少女に命じましたが、少女はこれを拒んだため、総督は少女を裸にして鞭で痛めつけた後、独房に閉じ込めました。翌朝総督が娘の牢を訪ねると、少女の傷は一夜にして治り、体は全くの無傷でした。少女がなおも神々を拒むので、怒り狂った総督は少女の胸に燃える松明を押しつけ、少女の頭に鉄鎚を振り下ろし、更には剣で少女の胸を貫かせましたが、少女は全く傷つきませんでした。棄教を拒む少女を総督は各地で引き回した後、処刑の場である山上に引き立てました。少女は勝利の歌を歌い、自らの父が振り下ろす剣によって殉教しました。娘の殉教後、山から下りた父は稲妻に打たれて立ちどころに死にました。

 殉教処女の遺体を引き取ったキリスト教徒ヴァレンティヌスは、彼女の俗名が異教風であるのを嫌いつつも彼女の洗礼名を秘匿するため、この少女をバルバラと呼びました。バルバラは本来人名ではなく、ギリシア人ではない女性、という意味ですが、以後この殉教処女は聖バルバラの名で呼ばれるようになりました。ビザンティン帝国の歴代皇帝は殉教処女バルバラを篤く崇敬し、バルバラの聖遺物(遺体)は六世紀にコンスタンティノポリスに移葬されました。遺体の一部はヴェネツィア人によってイタリアに運ばれました。一部は十一世紀にキーウに運ばれ、聖ヴォロディーミル主教座聖堂に安置されて今日に至ります。



【図像における聖バルバラ】



(上) Domenico Ghirlandaio, Santa Barbara, c. 1473, Olio su tavola, 68 x 47 cm, collezione privata


 図像に描かれる少女バルバラは、殉教者の栄光を表すナツメヤシを手にし、三つの窓がある塔とともに描かれます。殉教の栄冠を戴き、聖書、あるいは永遠の象徴であるクジャクの羽根を手にしている場合もあります。ときに稲妻とともに描かれ、迫害者である父を踏みつけている図像もあります。

 聖人伝におけるバルバラは、父の手で斬首される直前に天の声を聴き、恍惚の祈りのうちに殉教を遂げました。それゆえバルバラは安らかな臨終を齎す聖女と考えられるようになり、しばしば聖体を納めた顕示台を手にした姿で描かれました。

 聖バルバラはキリストのみを求めて男性との結婚を拒んだゆえに、アレクサンドリアの聖カタリナアンティオキアの聖マルガリータパリの聖ジュヌヴィエーヴをともに描かれることがあります。



【守護聖人としての聖バルバラ】



(上) Francisco de Goya, Santa Bárbara, 1773, Óleo sobre lienzo, 95 x 78 cm, Museo del Prado, Madrid


 聖バルバラはアレクサンドリアの聖カタリナアンティオキアの聖マルガリータ他と並ぶ十四人の救難聖人のひとりであり、とりわけ鉱山やトンネルで働く人々の守護聖人として篤く崇敬されています。聖バルバラの祝日は12月4日で、同時代の殉教処女聖ユリアナと同じ日に設定されています。

 聖バルバラの父は稲妻に打たれて死んだゆえに、この聖女は稲妻と雷に関連付けられ、落雷から守ってくれる守護聖人とされ、さらに火に関連付けて冶金学者と鐘の鋳造技師の守護聖人、フランスの消防士の守護聖人(註6)とされます。

 また岩が二つに割れて聖女を隠した故事により、バルバラは鉱山で働く技師や鉱夫、トンネル掘削の労働者たち、下水道の関連職種、石切り工、スレート採掘業者と屋根葺き職人の守護聖人ともされます。トンネル工事に際しては、聖バルバラ像が現場に必ず安置されるようになっています。

 塔に関連付けて、聖バルバラは建築家、測量技師、地質学者、石油開発調査技師、幾何学者、数学者の守護聖人とされます。また塔を要塞や陣地に見立てることに加えて爆発物との関連によっても、砲兵、工兵、地雷撤去兵、軍事技術者、化学者の守護聖人とされます。船上の火薬庫はフランス語でサント=バルブ(仏 une sainte-barbe 聖バルバラ)と呼ばれます(註7)。

 バルバラは安らかな臨終を齎す聖女であるとともに、悪しき死、すなわち病者の塗油を受ける間もなく突然訪れる死から守ってくれる聖女として、聖クリストフォロスと同様に守護聖人の役割を果たしています。



【火の女神としての聖バルバラ ― 聖女が岩中に隠れる意味、及び落雷との関連について】

 聖人伝によると、迫害者に追われる聖バルバラは岩の中に逃げ込んで難を逃れました。岩の間に隠れたのであれば理解できますが、バルバラは岩の内部に入り込み、その岩が遠くの山に移動してバルバラを逃がしたと伝えられます。しかるに人間が岩の内部に入り込むことなど出来ませんから、この伝承は聖バルバラと火あるいは火の女神の習合に基づく神話的記述であると筆者(広川)は考えます。

 「金枝篇」で知られるジェイムズ・フレイザー(Sir James George Frazer, OM FRS FRSE FBA, 1854 - 1941)は、1930年の著書「火の起源の神話」(Myths of the Origin of Fire - an Essay, 1930)において、人類に火が齎された経緯に関する世界各地の神話を報告しています。同書によると、トラジャ族の説話において火は水との戦いに敗れ、竹や石の中に隠れました(註8)。竹や木、石の中に火が隠れているという考えは、竹や木を強く摩擦し続ければ発火するという事実、及び火打石を鋼に衝突させれば火花が散って火を起こせる事実に基づきます(註9)。

 さらにフレイザーの同書によると、北西マダガスカルのサカラヴァ族(the Sakalava)とトシミエティ族(the Tsimihety)の説話では、火が稲妻との戦いに敗れ、火山の内部に隠れました(註10)。山の内部に火が隠れているとの考えは、火山を見れば納得できます。また隧道や坑道を掘り進めるにつれて、内部はしばしば高温になります。我が国では鉱山や炭鉱の他、黒部第三発電所建設に伴う阿曾原谷側軌道トンネル工事において岩盤温度が 166℃に達した例(註11)がよく知られています。仮に熱や火を物質と考えるならば(註12)、山を掘り進めれば高温になる事実から、山の内部に火があるとの考えが成立するでしょう。

 「火の起源の神話」には、人類が落雷によって火を手に入れたとする説話も数多く収録されています。聖バルバラがキリスト教以前の火の女神と習合したとすれば、落雷と聖バルバラを関連付ける聖人伝や民間信仰も、この習合によって説明できます。「火の起源の神話」には火を運んでいた鳥が上空から火を落とす話がたびたび出てきますが、これはおそらく落雷の神話的表現でしょう。



【聖バルバラに関わる民俗】

■ プロヴァンスのレ・ブレ・ド・ラ・サント=バルブ

 プロヴァンス(Provence 南フランスの地中海沿岸地域)の家庭では、レ・ブレ・ド・ラ・サント=バルブ(仏 les blés de la Sainte-Barbe 聖バルバラの日の小麦)と呼ぶ予祝儀礼が行われます(註13)。

 レ・ブレ・ド・ラ・サント=バルブでは直近に収穫された種籾から少量の小麦を取り、12月 4日すなわち聖バルバラの祝日に、三位一体を表す三つの鉢または皿に綿を敷いて播き、水をやって屋内で育てます。小麦の代わりにレンズ豆やひよこ豆、地域によっては大麦や燕麦、裸麦が使われることもあります。プロヴァンスでは12月24日、真夜中のミサに行く前にル・グロ・スペ(仏 le gros souper)という肉抜きの食事を摂りますが、皿の小麦はその食卓を飾ります。翌25日に一家の主婦が赤と黄のリボンで小麦を飾り、26日から顕現節(1月6日)までクレシュに置かれた後、戸外の畑に移植されます。


■ 中央ヨーロッパのバルバラの枝

 聖バルバラ伝によると、獄に引かれ行く際、聖女は桜桃の枝を折り取り、獄中で壺に挿しました。この枝はバルバラが殉教する日に見事な花を咲かせたといいます。この故事にちなみ、アルザスを含むライン渓谷から南ドイツ、旧オーストリア=ハンガリー帝国領、モルドヴァとヴァラキアを経て黒海に至る地域では、12月4日に桜桃やりんご、すももなどの枝を伐って持ち帰ります。花瓶に挿した枝の水切りと水換えを日々怠らなければ、クリスマス頃に花が咲きます。花が見事に咲けば吉兆とされます。

 ウィーンをはじめとするオーストリアの各地では、数本の枝の束から家族のメンバーが自分の枝を選び、名札をかけておきます。いちばん見事に花が咲いた枝の持ち主には、最高の幸運が訪れるとされます。


■ パレルモの聖バルバラ祭

 シチリアのパレルモは聖バルバラを守護聖人と仰ぎ、12月4日の前後三日間、12月11日、5月27日、7月27日にこの聖女の祝祭を行ないます。12月4日は聖バルバラが殉教した日で、かつてはローマの教会暦において聖バルバラの祝日でした。5月27日は 1780年にエトナ山が噴火した際、聖バルバラがパレルモを壊滅から守ったことを記念します。7月27日は 1576年に聖バルバラがパレルモに移葬された記念日です。

 バルバラを守護聖人と仰ぐ国としてはレバノン、都市としてはパレルモの他にイタリア本土のリエティ(Rieti ラツィオ州)がありますが、パレルモの聖バルバラ祭は盛大な規模であり、ヨーロッパで最も美しい聖人祭とも言われます。


■ レバノンの聖バルバラ祭関連行事

 レバノンではバルバラが塔から逃げた出来事を 12月4日に祝います。バルバラが逃亡に成功したのは変装を勧めた友人たちのお蔭とされ、聖バルバラ祭の前日すなわち 12月3日に、子供たちがあらゆる仮面と仮装を身に着けて、近所の家々をまわります。またバルバラが麦畑に逃げ込んだ時、奇跡によって麦が急に成長し、追跡する兵士たちからバルバラの足跡を隠したと伝えられます(註14)。

 レバノンやシリア、ヨルダン、パレスチナなど中東諸国のキリスト教徒は、12月4日の聖バルバラ祭に小麦、大麦、ザクロの種、干しブドウ、アニシ-ドを煮て甘い粥ソースを掛けて食べます。これをブルバラ(burbara バルバラ)と呼んでいます。




 註1    ローマ帝国は当時あまりにも広大になっていたので、ディオクレティアヌスは帝国の東半分を治める皇帝としてマクシミアヌスを任命し、286年以降はディオクレティアヌスとマクシミアヌスが共同正帝として帝国を治めた。305年5月1日、マクシミアヌスはディオクレティアヌスと同時に退位したが、306年から308年、及び310年に皇帝を僭称し、最後は女婿コンスタンティノス一世との戦いに敗れて廃位させられた。なおキリスト教との関連で言えば、303年と 311年にとりわけ過酷な迫害が行われ、数多くの殉教者を出した。
     
 註2    マルマラ海東端のイズミット湾は北アナトリア断層に沿って形成された南北二ないし三キロメートル、東西四十八キロメートルの細長い入江で、大地震の頻発地帯として知られる。イズミット湾東端の湾奧にあるのがイズミット(İzmit トルコ共和国コジャエリ県)である。
     イズミットはもともと古代ギリシアの植民市で、当時はニコメディア、正しくはニコメーデイア(Νικομήδεια)と呼ばれていた。交通の要衝であったニコメディアは重要な都市であり、コンスタンティノポリスが建設される以前はローマ帝国の東の首都として機能した。
     ニコメディアから八十キロメートルあまり北西、ボスポラス海峡の西岸にコンスタンティノポリスが建設された後も、ニコメディアは変わらず繁栄を続けた。ちなみにコンスタンティノス一世はニコメディアの別荘で没している。
     
 註3    古代都市ヘリオポリス、正しくはヘーリオウポリス(Ἡλιούπολις)はフェニキア人の植民市で、レバノン東部ベッカー高原にあった。この遺跡は現在バールベクの名で知られ、ユネスコの世界遺産に登録されている。
     
 註4    または按察官。公共の道路や建物、食糧などを管掌する高位の役人。
     
 註5    古典ギリシア語バルバロス(希 βάρβαρος)はオミクロン変化の形容詞で、「非ギリシアの」という意味である。この形容詞は男性形と女性形が同じ語尾を有するが、おそらく殉教者が女性であることを一見して明らかに示すために、聖女の名前はアルファ変化の語尾を付けてバルバラ(Βαρβάρα)と呼ばれるようになった。バルバロスが女性名バルバラになる過程で、鋭アクセントがアンテパエヌルティマからパエヌルティマに移動している(ふたつめのバにアクセントが移動している)が、筆者(広川)はこの理由を知らない。

 なおギリシア語の形容詞バルバロスはラテン語に移入され、バルバルス(羅 BARBARUS)となる。バルバルスは第一・第二変化の形容詞で、女性単数主格・呼格形はバルバラ(羅 BARBARA)である。聖女バルバラは正教会とカトリック教会の両方で崇敬されるが、聖女の名前はラテン語の影響を強く受けているのかもしれない。ラテン語バルバラのアクセントはアンテパエヌルティマ(最初のバ)にあり、これはギリシア語およびラテン語の通則通りである。
     
 註6    ドイツとオーストリアでは、ロルヒの聖フロリアーヌス(Hl. Florian von Lorch, + 304)が消防士の守護聖人とされている。
     聖フロリアーヌスはノーリクム(羅 NORICUM 現代のオーストリアからスロベニアにあった属州)出身の殉教者で、ローマ帝国軍司令官であった。キリスト教信仰が露見したために火による拷問を受けたが棄教せず、オーストリアのロルヒ(Lorch)すなわち現在のエンス(Enns オーバーエスターライヒ州リンツ=ラント郡)で、エンス川に沈めて殺害された。聖フロリアーヌスの祝日は 5月4日である。
     
 註7    火薬庫をサント=バルブと呼ぶ名の由来は、聖女の名にちなむ他、ラテン語キーンクタ・バルバラ(羅 CINCTA BARBARA 剛力の倉)を語源とする説もある。
     
 註8    青江舜二郎訳「火の起源の神話」(角川文庫 ISBN 4-04-320401-9)143ページ
     
 註9    木や竹を擦り合わせる発火法と、火打石による発火法は、いずれも摩擦熱で火を得ている。
     火打石と鋼で火花が得られるのは、硬い火打石の角が鋼と衝突した際に微量の鋼が剝がれ、それが火花となるためである。金属片と火打石との衝突すなわち瞬間的摩擦の運動エネルギーが熱エネルギーに変換されることに加え、剥がれた金属片は急激に酸化されることによっても熱を得て、高温の火花となる。
     火打石で発生する火花の正体は鋼に由来する金属片であり、石から火が出るのではない。しかしながらこのような理屈を知らなかった古代人の眼には、火打ち石に内在する火が鋼との衝突で取り出されたように見えたであろう。
     
 註10    上掲の角川文庫版 164 - 166ページ
     
 註11    阿曾原谷側軌道トンネル工事については、吉村昭「高熱隧道」に詳しい記述がある。
     
 註12    火はアリストテレスの四元素及び仏教の四大に含まれ、森羅万象を形作る根源的物質すなわち元素のひとつと考えられた。近代の自然科学においてもフロギストン(phlogiston 燃素)は十八世紀後半まで、カロリック(calorique 熱素)は十九世紀前半まで、その存在が信じられていた。
     
 註13    シラクサの聖ルチアの祝日である12月13日に、これと同様の行事を行う地域もある。その場合はルチアの麦と称される。
     
 註14    麦が奇跡的な成長によって聖女を隠した故事は、ポワチエの聖ラドゴンドに関しても全く同様の話がある。



関連商品

 ニコメディアの聖バルバラのメダイ





天使と諸聖人のレファレンス インデックスに戻る

キリスト教に関するレファレンス インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する


キリスト教関連品 その他の商品とレファレンス 一覧表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する




Ἀναστασία ἡ Οὐτοπία τῶν αἰλούρων ANASTASIA KOBENSIS, ANTIQUARUM RERUM LOCUS NON INVENIENDUS