トゥールーズ、ラ・バジリク・ノートル=ダム・ド・ラ・ドラード ラ・ドラードの聖母のバシリカ
La Basilique de Notre-Dame de la Daurade, Toulouse


 ラ・バジリク・ノートル=ダム・ラ・ドラード ラ・ドラードの聖母のバシリカ


 ピレネーを発して北東方向に流れるガロンヌ川は、途中で流路を北西に転換し、ボルドーから少し下って大西洋に注ぎます。ガロンヌ川が北東から北西へと方向を変えるあたりに、フランス南西部で最も大きな都市のひとつ、トゥールーズ(Toulouse オクシタニー地域圏オート=ガロンヌ県)があります。

 トゥールーズの中心部、北流してきたガロンヌ川が大きく湾曲して西に向かう地点の右岸に、ラ・バジリク・ノートル=ダム・ラ・ドラード(la basilique Notre-Dame la Daurade ラ・ドラードなる聖母のバシリカ )、別名「サント=マリ・ラ・ドラード」(Sainte-Marie la Daurade ラ・ドラードなる聖マリア教会)とも呼ばれる小バシリカが建っています。ラ・バジリク・ノートル=ダム・ラ・ドラードは建物正面が古典建築の様式であることが特徴です。

 ラ・バジリク・ノートル=ダム・ラ・ドラードの場所には、もともと十二角形のアポロン神殿が建っていましたが、この建物はトゥールーズが西ゴート王国に属していた時代(418年から507年)に、「トゥールーズの聖マリアのバシリカ」(basilique Sainte-Marie de Toulouse) となりました。それゆえラ・ドラードはガリアで最の古いマリアの聖地と考えられています(註1)。「聖マリアのバシリカ」は後陣が旧約聖書、新約聖書の場面を主題とするモザイク画に飾られており、その背景が金色であったことから、やがて「ラ・ドラード」(la Daurade)と呼ばれるようになりました。「ラ・ドラード」とは「ラ・バジリク・ドラード」(la Basillique Daurade)、すなわち「金色のバシリカ」という意味です。




(上) フランスからサンティアゴ・デ・コンポステラに至る四つの主要な巡礼路(Les chemins de Saint Jacques)。レモン・ウルセルによる図。


 トゥールーズはフランスからサンティアゴ・デ・コンポステラにいたる主要な巡礼路のひとつ、プロヴァンスを通るルートの通過点として、中世以来、聖母マリアの重要な巡礼地です。ラ・ドラードは九世紀にはベネディクト会修道院の聖堂となり、十一世紀にはもとの十二角形の建物にロマネスク様式の身廊が加わりました。トゥールーズ市民の間ではラ・ドラードの聖母「ノートル=ダム・ラ・ノワール」への崇敬が極めて篤く、十四世紀にはこの聖堂を本拠に「無原罪の御宿り信心会」が設立されています。

 1618年にパリに設立されたサン=モール会はベネディクト会の一会派です(註2)。アンシアン・レジーム期において、パリのサン=モール会修道院はフランスで最も水準が高い学術研究機関でした。パリにサン=モール会ができて間もなく、トゥールーズ高等法院はラ・ドラードをサン=モール会修道院(l'Abbaye Notre-Dame de la Daurade)とすることを決定しました。

 ラ・ドラードはサン=モール会の下(もと)で最盛期を迎えました。サン=モール会では 1627年から 1790年まで、聖母の執り成しによる恩寵が記録されました。トゥールーズでは毎年八名のカピトゥル(capitouls 町役人)が選出されましたが、サン=モール会時代のラ・ドラードでは、旱魃、洪水、疫病等の災厄が起こるたびに、カピトゥルの命によってノートル=ダム・ラ・ノワール像の宗教行列が行われました。「ノートル=ダム・ラ・ノワール」は数々の奇跡を起こしましたが、なかでも トゥールーズ中心部の南側にあるサン=ミシェル地区(le quartier Saint-Michel)を大火から守った1672年の奇跡はよく知られています。十八世紀になってもこのような行列は 1738年、1741年、1775年に催行され、最後の行列は 1790年6月23日に行われました。

 いっぽう、聖堂の建物は 1703年に十二角形部分の穹窿(丸天井)が破損したうえに、1760年には丸屋根が架けられて壁面に掛かる重量が増し、建物全体に崩落の危険が生じました。そのため翌年には教会を取り壊さざるを得なくなり、教会の再建は、教会が面するガロンヌ川の河岸(かし)の工事が完成するまで延期されました。

 再建が始まると、教会の形は以前とは大きく変わり、ローマ時代の神殿跡にあたるもともとの教会の中心部に、新しい翼廊が位置することとなりました。聖堂は 1776年に再建され、1800年以降は教区教会となりました。なお新聖堂の献堂は、フランス革命による中断をはさんで、1876年に教皇ピウス九世によって行われました。工事が最終的に完了したのは1883年でした。この頃ラ・ドラードでは三つの信心会、すなわち「無原罪の御宿リ信心会」「聖母御生誕信心会」「聖母被昇天信心会」が活動を再開し、ラ・ドラードの教区はノートル=ダム・デ・ヴィクトワール大信心会に加わりました。1874年にはラ・ドラードの聖母が教皇ピウス九世によって戴冠し、ラ・ドラードは小バシリカの称号を与えられました。


 なおラ・ドラードのバシリカと、ガロンヌ川をはさんで対岸にあるサン=ジャック救貧院(l'hôpital Saint-Jacques)はいずれもベネディクト会の施設でした。十ニ世紀以来、二つの施設の間にはラ・ドラード橋(le Pont de la Daurade)が架けられていましたが、この橋は老朽化のため、1639年に取り壊されました。ラ・ドラード橋のすぐ脇には、旧来の橋に代わってル・ポン=ヌフ(Le Pont-Neuf 新橋)が架けられました。ル・ポン=ヌフは 1632年に完成しています。


【トゥールーズの黒い聖母、ノートル=ダム・ラ・ノワール】




 ラ・ドラードの聖母のバシリカには黒い聖母の像があります。

 ラ・ドラードの聖母像が文献に初出するのは十世紀です。また十四世紀には像が盗まれたという記録があり(註3)、このときに複製が作られています。ラ・ドラードの黒い聖母は妊産婦の守護聖人として熱心な信者の崇敬を集め、もともと「褐色の聖母」(Notre-Dame la Brune)として知られていた像が、詰め掛ける信者のろうそくの煤で真っ黒になりました。そのため十四世紀の褐色の聖母像は、十六世紀には「ノートル=ダム・ラ・ノワール」(Notre-Dame la Noire 黒の聖母)と呼ばれるようになりました。

 フランス革命が起こると「ノートル=ダム・ラ・ノワール」は一旦博物館に移されましたが、1795年にラ・ドラードに戻されました。しかしながらこのときは聖母像を一目見ようと群衆が聖堂に押し掛けたので、信仰の高まりを恐れた市政府は聖母像の破壊を命じ、「ノートル=ダム・ラ・ノワール」は 1799年に焼却されてしまいました。その後 1807年に新しい複製が作られて、6月14日、市内を行列した後、ラ・ドラード聖堂に安置されました。


 ノートル=ダム・ラ・ノワール像はおよそ二メートルの高さがあり、陶磁器による装飾を伴って祭壇に安置されています。この祭壇装飾はトゥルーズの陶芸家ガストン・ヴィルバン(Gaston Virebent, 1837 - 1925)によるもので、アール=ヌーヴォー様式による非常に美しい作品です。

 聖母子像の手前に跪くふたりの聖人は、向かって左がグスマンの聖ドミニクス、右がアッシジの聖フランチェスコです。聖ドミニクスはカタリ派を説得するためにラングドックを訪れ、1215年にはトゥールーズに滞在しています。聖フランチェスコはトゥールーズに来てはいませんが、フランチェスコとフランシスコ会は、ドミニクスとドミニコ会と同様に、グレゴリウス改革の申し子ともいえる聖人および教会改革勢力であり、やはり同時代の信仰改革勢力でありながらカトリック教会と決別したカタリ派に対抗するうえで、間接的にせよ大きな役割を果たしました。

 教皇グレゴリウス七世はカタリ派やワルド派に対抗するために、正統信仰からの逸脱をも顧みず、カトリック教会の全力を挙げて改革を強行しました。トゥールーズを中心都市とするラングドックはカタリ派の勢力が非常に強い地方であり、ラ・ドラード聖堂はカトリック教会の橋頭堡のひとつでした。ふたりの聖人とその托鉢修道会はラングドックで戦うカトリック側の尖兵ともいうべき存在であり、ラ・ドラード聖堂においてふたりの像が聖母の前に跪く姿は、教会史の大きな出来事であるグレゴリウス改革を記念しています(註4)。


【妊産婦の守護聖人としてのノートル=ダム・ラ・ノワール】

 ノートル=ダム・ラ・ノワールは妊産婦の守護聖人「ノートル=ダム・デ・ボンヌ・クーシュ」(仏 Notre-Dame des Bonnes Couches 良き分娩の聖母、安産の聖母)としても知られ、ラ・ドラードのバシリカでは妊婦に腹帯が授けられます。





 上の写真はノートル=ダム・ラ・ノワールを安置する台の基部です。ノートル=ダム・ラ・ノワールの足元の白い帯には次の言葉が書かれています。

     Recevez et portez avec confiance cette ceinture benite comme signe de ma protection maternelle et comme gage d'une heureuse delivrance.    母なるわたしがあなたを守る印として、また幸いなる出産の保証として、この帯を受け取り、身に着けなさい。


 童形のケルビムに囲まれた磁器絵には、聖母子から腹帯を受け取る妊婦の姿が描かれています。





 二十一世紀の日本に住む我々は、ほんの数十年前まで、分娩が母子の生命を脅かす深刻な事態であったことを忘れています。中世から近世にかけての時代、妊産婦は十数人にひとりの割合で産褥死に至っていました。女性にとって、出産は最も大きな死因のひとつであったのです。女性たちがノートル=ダム・ラ・ノワールにすがる気持ちは、現代人、特に男性には想像できないほど強かったに違いありません。

 ノートル=ダム・ラ・ノワールの腹帯は、教区教会であるバシリカの主任司祭から祝福を受けた後、トゥールーズ市内、フランス国内のみならず、海外にも送られます。現在、腹帯を腹帯を希望する妊婦は、ラ・ドラードのバシリカ宛に電子メール(paroisse.daurade@wanadoo.fr)で申し込めばよいことになっています。


【ジュール・サリエージュ師による祈り】

 ジュール・サリエージュ師(Mgr. Jules-Géraud Saliège, 1870 - 1956)は 1928年12月6日から、1956年11月5日に亡くなるまでトゥールーズ大司教を務めた人物で、1946年2月18日から没するまで枢機卿もありました。アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任して間もない 1933年4月12日に、トゥールーズのル・カピトル劇場(le Théâtre du Capitole)でユダヤ人迫害に激しく抗議する演説をし、ドイツ占領下のフランスで自由のために戦いました。サリエージュ師は自由フランス(les Français libres)のシャルル・ド・ゴール将軍から「コンパニョン・ド・ラ・リベラシオン」(Compagnon de la Libération)として勲章(l'ordre de la Libération)を贈られ、またイスラエル議会からは「諸国民のうちの義人」(Juste parmi les nations)の称号を授けられました。

 サリエージュ師はラ・ドラードのノートル=ダム・ラ・ノワールに対する次のような祈りを作っています。日本語訳は筆者(広川)によります。


     Je vous salue, Marie, pleine de grâce, par qui Jésus a été donné au monde : par vous, je veux me donner à Lui.     めでたし、マリア。恩寵に満てる方。イエスは御身によりて世に与えられました。我は御身によりて、イエスに身を捧げます。
     Je vous salue, Immaculée-Conception, dont le glorieux privilège fut très longtemps honoré en votre église la Daurade.    めでたし、無原罪の御宿リ。御身が有し給う栄えある地位を、御身の教会ラ・ドラードにて、我らははるか昔から崇敬してきました。
     Je vous salue, Vierge Noire, dont le nom évoque les douleurs qui vous ont fait compatissante à nos angoisses et nos épreuves.    めでたし、黒き聖母。御身はその御名が思い起こさせる通り、我らの悩みと苦難に御心を添わせ給い、共に苦しみ給いました。
     Je vous salue, Maison d’or, siège de votre miséricorde, d’où se répandent sur ceux qui vous invoquent, les trésors de votre bonté puissante.    めでたし、金の家。憐みの座よ。御身は力強き優しさにより、御身を呼び求める者たちの上に、数々の恵みを与え給う。
     Je vous salue, Refuge des pécheurs, Consolatrice des affligés, Secours des chrétiens.    めでたし、罪びとの隠れ家、苦しむ者を慰め給う御方、キリスト者の守り手よ。
     Et je vous confie mes joies et mes souffrances, mes espoirs et mes craintes, mes efforts et mes faiblesses, ma vie et ma mort afin qu’en tout, vous me rendiez comme vous, conforme à votre divin fils Jésus, par qui soit gloire au Père, en l’unité du Saint-Esprit.    わが喜び、わが悩み、わが望み、わが恐れ、わが努力、わが弱さ、わが生と死を御身に委ねます。全てにおいて、我もまた御身に似た者となり、神なる御子に従う者となれますように。イエスを通して父なる神に、聖霊とともに、栄光がありますように。
     Amen.    アーメン。



註1 現在ラ・ドラードにはこの時代に作られた二本の円柱が残っており、475年頃のものと考えられています。

註2 サン・モール(St. Maur, c. 512 - 584)すなわち聖マウロ(St. Mauro)はヌルシアのベネディクトゥスの弟子で、聖ベネディクト戒律をフランスに初めて導入したことで知られています。

註3 十四世紀に盗まれた像の行方について定説はありませんが、スペイン北東部ソルソナ(Solsona カタルーニャ州ジェイダ県)の司教座聖堂サンタ・マリア・デ・ソルソナ(la Catedral de Santa María de Solsona)の回廊礼拝堂(la capilla del Claustro)に安置されている「ラ・ビルヘン・デル・クラウストロ」(la Virgen del Claustro, Mare de Déu del Claustre 回廊の聖母)がこれに当たるとする説があります。




(上) "la Virgen del Claustro" de la Catedral de Santa María, Solsona


 ソルソナの「ラ・ビルヘン・デル・クラウストロ」はロマネスクからゴシックに変わろうとする時期の作品で、高さは 105センチメートルです。この像は十二世紀のトゥールーズの彫刻家ギラベルトゥス(Gilabertus de Toulouse, Maître Gilabert)によると考えられています。


註4 教皇グレゴリウス七世(Gregorius VII, c. 1020 - 1073 - 1085)が改革に着手する前、カトリック教会はシモニア(聖職売買)をはじめ、聖職者の徳性の弛緩に悩んでいました。これを批判する勢力は、腐敗した聖職者による秘跡の有効性を否定しました。しかし聖職者が堕落しているからという理由で秘跡の有効性を否定するならば、それは聖職者すなわち人間の働きによって(羅 EX OPERE OPERANTIS)秘跡が有効性を獲得すると考えることであり、正統教義に反します。秘跡が神の力による以上、仲立ちとなった人物の徳性とは無関係に、神が為し給う働きによって(羅 EX OPERE OPERATO)秘跡は常に有効であるはずです。

 秘跡の有効性が聖職者の徳性に左右されるとする主張はアウグスティヌス以前の時代からありましたが、カトリック教会(ἡ καθολικὴ ἐκκλησία 公同の教会)はこの考えを退け、「エクス・オペレ・オペラートー」(羅 EX OPERE OPERATO 為されたる秘跡自体によって)、すなわち秘跡を与えた聖職者の徳性の高低に一切関わりなく、秘跡は有効であるとの考えを貫いてきました。しかしながら教皇グレゴリウス七世は正統信仰からの逸脱をも顧みず、腐敗聖職者による叙任(すなわち秘跡)の有効性を否定してまで、カトリック教会の浄化を試みました。聖ドミニクスと聖フランチェスコ、及びそれぞれの托鉢修道会が現れたのは、この改革が続行している時代であったのです。もしも数十年ずれて現れていれば、すなわちグレゴリウス改革と時を同じくしていなければ、ふたりの聖人は福音的実践の厳格さゆえに異端視されたことでしょう。その結果、ふたりの聖人とその托鉢修道会は、カトリック教会に帰属する意思の有無にかかわらず、リヨンのピエール・ヴァルド(Pierre Valdo, 1140 - c. 1218)及びヴァルド派と同様の運命を辿ったことでしょう。



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