ベネディクト会修道院サント=フォワ・ド・コンクと付属聖堂
L'abbaye de Sainte-Foy et l'église abbatiale, Conques





 コンク (Conques) はピレネー山中ルエルグ(Rouergue おおむね現在のミディ=ピレネー地域圏アヴェロン県に相当)に位置する小村で、ル・ピュイ (Le Puy-en-Velay, Lo Puei de Velai) を発しサンティアゴ・デ・コンポステラに至る巡礼路沿いにあります。コンクという地名は「貝殻」(ラテン語でコンカ CONCHA) という意味で、ドゥルドゥ川 (Le Dourdou) とウーシュ川 (L'Ouche) が合流する地勢がその由来となっています。

 この町の修道院付属聖堂サント=フォワ (L'eglise abbatiale Sainte-Foy) は、3世紀末頃の殉教者アジャンの聖フォワ (Ste Foy d'Agen) の聖遺物を安置する霊場として、中世以来多くの巡礼者を惹きつけてきました。コンクという地名は、イタヤガイ(コキーユ・ド・サン・ジャック coquille de Saint Jacques 「聖ヤコブの貝」)をシンボルとする巡礼の村にぴったりです。


【ベネディクト会修道院サント=フォワ・ド・コンクの歴史】

 人里はなれた場所で瞑想に耽ることを願ったダドン Dadon (ラテン語表記ではデオダートゥス DEODATUS、あるいはダートゥス DATUS 「神に献身したる者」)という名前の隠修士が、795年、コンクに居を定めました。819年の記録によると、ダドンがコンクに来て間もなく、隠修士メドラルドゥス (MEDRALDUS) が最初の弟子としてこれに加わります。彼らの聖徳の噂が広まるにつれ隠修の生活を求める大勢の人たちが二人の許に集まり、やがてベネディクト会修道院が開かれ、キリストに捧げた付属聖堂が建てられました。修道院付属聖堂サント=フォワはこの修道院に起源を遡りますが、最初の聖堂に関しては記録が残らず、ほとんど何もわかっていません。なおダドンはコンクの修道院をメドラルドゥスに委ね、自身はより寂しい場所を求めて、ドゥルドゥ川をコンクから数キロメートル下流に下ったグラン=ヴァーブル (Grand-Vabre) の谷間に移り住みました。修道院長となったメドラルドゥスは聖ベネディクト戒律を導入しました。

 当時はシャルルマーニュ(Charlemagne またはカール大帝 Karl der Große, 742 - 814)からルイ1世(Louis I またはルイ敬虔王 Louis le Pieux, ou le Dobonnaire、ルートヴィヒ1世 Ludwig I, oder Ludwig der Fromme, 778 - 840)に続くカロリング朝時代でした。ローマ教会と親密な関係にあったカロリング朝はフランク王国領内の教会、修道院を保護しました。メドラルドゥスの修道院も手厚い庇護を受けましたので、耕す土地とて無い山中に位置するにもかかわらず、多数の修道士を養うことができました。シャルルマーニュの存命中、王子ルイ(後のルイ1世)はメドラルドゥスの修道院を繰り返し訪れています。この地をコンクと名付けたのもルイ1世です。

 ルイ1世はコンクの修道院に対して、819年の段階で、10箇所もの地所を寄進しています。またルイ1世の息子であるアキテーヌ公ピピン2世 (Pepin II d'Aquitaine, 823 - 864) は、 838年、金、銀、高価な布地、宝石などとともに、コンクの修道院の移転先用地として、コンクの西 30キロメートル、フィジャック (Figeac) の土地を寄進しました。

(下) Charlesmagne et Louis le Pieux, Bibliothéque Nationale




 民衆にとって「信仰」とは「聖遺物への崇敬」に他ならなかった当時のこと、地の利に優れ、聖ヴィヴィアン (St Vivien) の聖遺物を安置するフィジャックの修道院は、結局移転せずにコンクに残った古い修道院に勝る勢力を得つつありました。そこでフィジャックとの対抗上、コンクの修道院では霊験あらたかな聖遺物を他所から移葬する(盗み出す)ことになり、当時アジャン (Agen) に安置されアキテーヌ中の崇敬を集めていた聖フォワの聖遺物に狙いを定め、866年頃、ついに聖物盗掠に成功しました。

 コンクに移された聖フォワの聖遺物はすぐに霊験を発揮し始め、盲人の癒しや囚人の解放をはじめとする奇跡が続発して、フランス中から巡礼者が集まるようになりました。そのため修道院の財政は劇的に改善し、「聖フォワの栄光像」 (la Majeste de Sainte Foy) をはじめとする初期の宝物・工芸品群の製作につながりました。


 聖フォワはもともとルエルグ地方とその周辺でのみ崇敬されてきた聖女でしたが、9世紀以降その崇敬が瞬く間にヨーロッパ全域に広まったのは、サンティアゴ・デ・コンポステラ (Santiago de Compostella, Saint Jacques a Compostelle) がヨーロッパで最も重要な巡礼地となった時期に、巡礼路に位置するコンクに移葬されたためでした。聖フォワの崇敬拡大には、11世紀初め頃にアンジェの神学教授ベルナール (Bernard d'Angers) が著した「聖フィデースの奇跡の書」(LIBER MIRACULORUM SANCTAE FIDIS aut LIBER DE MIRACULIS SANCTAE FIDIS) も大きな影響を及ぼしました。


(下) ガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂




 聖フォワの崇敬が広まるにつれてサント=フォワ・ド・コンク修道院の勢力も拡大し、地元ルエルグ地方に数多くの地所や小修道院を所有するのみならず、イタリア北西部ピエモンテ州カヴァニョーロ (Cavagnolo) にサンタ・フェーデ修道院 (L'Abbazia di Santa Fede 12世紀)、イングランド東部ノーフォーク州ホーシャム (Horsham) にセイント・フェイス小修道院 (The Priory Saint Faith 1105年)、ドイツ中部バイエルン州バンベルク (Bamberg) にザンクト・ゲトロイ教会 (Sankt-Getreu-Kirche 1124年)、カタロニア東部サンタ・フェ・デル・ペネデス (Santa Fe del Penedes) にサンタ・フェ・デル・ペネデス教会 (Esglesia de Santa Fe del Penedes)、ナバラ北東部にサンタ・フェ・デ・エパロスのバシリカ (Basilica de Santa Fe de Eparoz 12 - 13世紀) 等、ヨーロッパ全域にわたって教会や分院を設置しました。

 12世紀に作成されたサント=フォワ修道院の土地台帳を見ると、9世紀以来およそ300年の間に多くの土地が奉納され、勢力が強くなってゆく様子を読み取ることができます。10世紀から12世紀にかけてはクリュニー改革の時代で、クリュニー修道院 (L'abbaye de Cluny) の影響力はサン=ピエール・ド・モワサック (Abbaye Saint-Pierre de Moissac) やサン=ジェロー・ドーリヤック (Saint-Geraud d'Aurillac) のような大修道院を含む全ヨーロッパのベネディクト会修道院に及びました。しかしサント=フォワ・ド・コンク修道院はほとんど影響を受けず、レコンキスタによって回復されたナバラやアラゴンに教会堂を建てたり司教を派遣したりして、クリュニーに対抗する勢力を誇りました。

 サント=フォワ修道院の勢力が最大になったのはオドルリク (Odolric 在職 c. 1030 - 1065)、エチエンヌ2世 (Etienne II 在職 1065 - 1087)、ベゴン3世 (Begon III 在職 1087 - 1107) が修道院長であった頃です。修道士の数が増えたので、修道院の建て増しが行なわれ、莫大な寄進によって宝石やエマイユ(七宝)をちりばめた金銀細工の聖遺物容器が製作されました。この頃修道院内には図書室を備えた神学校もありました。修道院付属聖堂が建てられたのもこの時期です。サント=フォワ・ド・コンクの周囲には職人や商人が集まって小都市が形成され、最盛期には3000人を超える人口を擁しました。


(下) 幼子イエズスの割礼の御包皮用聖遺物容器




 1537年、サント=フォワ・ド・コンクはベネディクト会修道院ではなくなり、聖アウグスティヌス会則に従う在俗の聖堂参事会員たちが住むようになります。聖堂参事会員たちは多額の聖職碌を得ており、修道院の周辺に形成された町でそのお金を消費しましたので、サント=フォワ・ド・コンクがベネディクト会修道院でなくなっても、コンクの町が大きな打撃を受けることはありませんでした。しかし31年後の1568年にはプロテスタントがサント=フォワ・ド・コンクを略奪し、また付属聖堂に放火してその一部を焼きます。その後 1628年の黒死病をはじめ、疫病や飢饉によってコンクは疲弊し、とりわけ1693年から94年にかけての凶作で多くの住民が亡くなりました。コンクの人口は18世紀中頃に1000人以下に、フランス革命 (1789年) の直前にはわずか 600人ほどになりました。

 フランス革命の際にフランス中の教会、修道院の活動が禁じられ、コンクにも大きな打撃をもたらしました。1792年、国民議会 (l'Assemblée Constituante) の命令により、サント=フォワ・ド・コンクは閉鎖され、聖堂参事会員たちを退去させられました。サント=フォワ・ド・コンクの宝物は住民の手で隠されて破壊を免れました。

 19世紀になると、コンクはもはや寂れた山村にすぎなくなっていましたが、1837年、歴史記念物監督官としてコンクを訪れたプロスペル・メリメ (Prosper Mérimée, 1801 - 1870) が修道院付属聖堂の保存と修復を訴えたことでコンクに注目が集まり、エチエンヌ・ボワソナード (Etienne Boissonnade, 1796 - 1862) に緊急の修復が委ねられました。さらに 1874年からはジャン・カミーユ・フォルミジェ (Jean Camille Formige, 1845 - 1926) がより完全な修復を行い、内陣の列柱や穹窿が中世の姿に復元されたほか、1881年からは西側の塔2基も再建されました。

 後に枢機卿となるロデーズ司教ブーレ師 (Msr. Joseph-Christian-Ernest Bourret, 1827 - 1896) は、1873年、サント=フォワ・ド・コンクの管理をタラスコン(Tarascon プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県)近郊の修道院サン=ミシェル・ド・フリゴレ (l'abbaye Saint-Michel de Frigolet) に委ねました。サン=ミシェル・ド・フリゴレはプレモントレ会の修道院で、聖アウグスティヌス会則に従う聖堂参事会員で構成されています。1875年には修道院付属聖堂に隠されていた《ラ・マジェステ・ド・サント・フォワ》が発見され、巡礼者がふたたびコンクを訪れるようになりました。プレモントレ会は 1903年にコンクからいったん退去しましたが、1920年にサント=フォワ・ド・コンクに戻りました。


(下) 栄光像型聖遺物容器 《ラ・マジェステ・ド・サント・フォワ》 La Majesté de Sainte Foy




【修道院付属聖堂サント=フォワの歴史】

 サント=フォワ・ド・コンクには10世紀の建築であるバシリカ式聖堂がありましたが、1030年頃から 1065年まで修道院長を務めたオドルリク (Odolric) の時代、コンクのベネディクト会修道院サント=フォワは大きな勢力を誇るようになったため、修道士たちが聖務日課を行うとともに多数の巡礼者を収容できる大きな聖堂が必要となりました。そこで今日まで残るロマネスク式聖堂の建設が決定されました。

 工事はアプス(後陣)部分から始まりました。この部分の壁面に使われている赤みがかったグレーの石材は、ドゥルドゥ川沿いの小村コンブレ (Combret) で切り出されたものですが、少し脆いため、次の修道院長エチエンヌ2世 (Etienne II 在職 1065 - 1087) はリュネル(Lunel ラングドック=ルシヨン地域圏エロー県)に産する美しい黄色の石灰岩を採用し、後陣から西側に向かって工事を続けました。温かみのある色のリュネルの石灰岩は地元産の灰色の片岩とよく調和して、大きな聖堂の威圧感を和らげています。修道院サント=フォワ・ド・コンクの最盛期にあたる修道院長ベゴン3世 (Begon III 在職 1087 - 1107) の時代には建設作業が大きく進捗し、トリビューンが完成しました。聖堂の穹窿と西側ファサードの彫刻群が完成したのは、おそらく次の修道院長ボニファス (Boniface) の時代であると考えられています。





 身廊と翼廊が交差する部分にはロマネスク式の大きな採光塔があります。この採光塔は一度崩落したことがあり、15世紀後半に再建されました。1568年にはプロテスタントがサント=フォワ・ド・コンクを略奪して付属聖堂にも放火しました。このときに内陣の列柱が損壊したほか、西側の塔2基も破壊されました。

 宗教改革とフランス革命による破壊を経て、19世紀の聖堂は惨状を呈していましたが、プロスペル・メリメの訴えがきっかけとなって中世の姿に修復されました。その経緯は上に述べたとおりです。


【西側正面タンパン 最後の審判の彫刻群】

 修道院付属聖堂サント=フォワの西側正面タンパン(ティンパヌム)を飾る幅 6.7メートル、高さ 3.6メートルの彫刻群「最後の審判」は、その独自の美しさによって、12世紀前半におけるフランス宗教美術の最も重要な作品のひとつとして知られています。





 この彫刻群は、修道院長ボニファス (Boniface) の時代、すなわち 1107年から 1125年の間に、サンティアゴ・デ・コンポステラの彫刻を手がけた職人によって製作されたと考えられ、125人の群像で構成されます。保存状態はきわめて良好です。


・キリストと天使たち

 半円形のタンパンはラテン語が刻まれた水平の帯によって大きく3段に分割されています。2段目の中心には星をちりばめたマンドーラ(アーモンド形の光背)型の玉座があり、大きなキリストが正面を向いて座しています。

 キリストはマタイによる福音書25章31節から46節において最後の審判の予言をしていますが、タンパンの2段目、3段目はこの聖句にもとづいた作品となっています。すなわちキリストは右手を上げ、祝福された人たちを迎えています。キリストの右(タンパンに向かって左)に描写されているのは天国の情景です。これに対しキリストの左手は有罪を宣告する裁判官がするように下に向けられ、キリストの左(タンパンに向かって右)には地獄の光景が繰り広げられています。

「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために要されている国を受け継ぎなさい。』」(マタイによる福音書25章34節 新共同訳)
「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(マタイによる福音書25章41節 新共同訳)





 キリストは右脇腹を露出していますが、そこには槍で突かれた傷痕が見えます。彫刻が製作された当時、この傷痕は赤く塗られていたはずです。

 キリストは天使に囲まれています。キリストの頭上では受難の釘と槍を手に持ったふたりの天使が十字架を支え掲げています。その横では他の二人が角笛を吹き鳴らしています。キリストの足許にいる二人の天使がろうそくを持っているのは、最後の審判の日には太陽も月も星も光を失って暗くなる(ヨハネの黙示録 8:12)からです。キリストの左(向かって右)には生命の書を広げる天使と香炉を振る天使がいます。そのさらに左(向かって右)の天使ふたりは剣と槍を持ち、呪われた人々を地獄に封じ込めています。


・天国に招かれた人たち

 キリストの右(向かって左)には聖母マリア、聖母の後ろには天国の鍵を持った聖ペトロがいます。このふたりは教会が認める聖人ですので、頭部に後光が表現されています。





 聖ペトロより後ろに続くのはサント=フォワ・ド・コンクにゆかりの人たちです。この人たちには後光はありません。

 まず、聖ペトロのすぐ後ろにいるのはコンクの開祖である隠修士ダドン、その後ろで司教杖を手にしているのは修道院長ベゴン3世でしょう。次に顔をのぞかせているのはタンパン製作当時の修道院長ボニファスではないでしょうか。その後ろの王冠を被った人物はシャルルマーニュです。その後ろにいるふたりの修道士は、大帝による奉納品のリストとおぼしき書板と、大帝が奉納した品々を代表する聖遺物をそれぞれ捧げ持ち、大帝が犯した数々の罪の赦し乞うています。


・魂の計量 大天使聖ミカエルと悪魔

 キリストの玉座のすぐ下では死者の復活と魂の計量が行われ、天使と悪魔が死者を分け合っています。





 上の画像の上段、向かって左側には最後の審判の日に裁きを受けるべく復活する死者の姿が見えます。上段中央では天秤を使って、復活した使者の魂が計量されています。悪魔は皿に人差し指を掛けて秤を自分のほうへ傾けようとしますが、善行を積んだ死者の魂は重く、聖ミカエルの方に傾きます。悔しがる悪魔は大天使を睨みつけ、聖ミカエルも負けじと悪魔を睨み返しています。

 上の画像の下段、向かって左側では天使が天国の入り口に立ち、恐ろしい地獄を逃れた人たちを中に招き入れています。


・聖フォワとコンクの教会 天国に招かれた人たち

 タンパンの3段目右側(向かって左側)には、聖フォワと天国に招かれた人たちの姿が刻まれています。





 スペインのロマネスク美術において、旧約時代の神やキリストに語りかける父なる神は、手のみの姿で表される場合が多くあります。神の手は必ず右手です。(註1)

 この浮き彫りにおいて、聖フォワは神の手の前に平伏して、人々のために執り成しの祈りを捧げています。神の手の後光にはキリストの後光におけると同様の十字架が表されていますが、これは聖人の手とはっきり区別するためでしょう。サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂の「金細工師の門」左側の壁にある「アダムを創造する神」の彫刻では神の全身像が表されていますが、後光にはやはり十字架があります。(註2)


 聖フォワの後ろの空間はサント・フォワ・ド・コンクの聖堂です。天井近くからぶらさがっている円い物は囚人の枷(かせ)で、聖フォワの執り成しによって解放された人々からのエクス・ヴォートー(EX VOTO 奉納物)です。





 聖フォワの下には、天国あるいは新しいエルサレム(ヨハネの黙示録 21章と22章)にいる使徒や聖人、殉教者たちの姿が表されています。中心にはひときわ大きな人物がふたりの子供を抱き寄せていますが、これはイスラエル民族の始祖アブラハムと幼子殉教者と考えられています。

 イエズスが降誕したおよそ2年後、東方から3人の占星術学者(マギ)が訪ねてきて幼子を礼拝しました。マギたちから「新しい王」誕生の知らせを聞いて脅威を感じたユダヤの王ヘロデ・アルケラオス (Herod Archelaus, B.C. 23 - A.D. c.18) は、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。(マタイによる福音書 2: 16 - 18) サン・チノサンとはこの虐殺の犠牲となった汚れなき幼子たちのことです。グイド・レーニによる下の絵では、殉教者の徴(しるし)であるナツメヤシの葉を、天使が幼子たちに与えています。


(下) Guido Reni, Massacre of the Innocent, 1611, oil on canvas, 268 x 170 cm, Pinacoteca Nazionale, Bologna




・地獄に堕ちた人たち

 新しいエルサレムのちょうど反対側には地獄のありさまが表されています。天国の中心にはアブラハムがいましたが、地獄の中心にいるのはサタンで、地獄に堕ちた罪人の腹を踏みつけて座っています。罪人の中には「高慢」を表す騎士の姿、「姦淫」を表す半裸の女性とその愛人の姿、財布を首にぶら下げた「貪欲」を表す人物の姿も見えます。





 タンパン2段目左(向かって右)の地獄では、向かって左端に裸の王がいて、王冠を載せた頭を悪魔にかじられながら、天国側にいるシャルルマーニュを指差して何やら不平を訴えています。王の周囲にいる悪魔たちは、手に手に12世紀の武器を持っています。この王はおそらく罪深い戦争を仕掛けたために地獄に堕ちたのでしょう。





 コンクに限らず、中世の聖堂に見られる絵や彫刻は単なる装飾ではなく、文字が読めない大衆、巡礼者たちに宗教の教えを伝える大切な役割を果たしていました。修道院付属聖堂サント=フォワの西側正面タンパンも最初は鮮やかに彩色されており、見る者に強烈な印象を残したはずです。



註1 下の画像はカタロニアのロマネスク美術における「神の手」の作例で、タウルにあるサン・クレメンテ教会 (Sant Climent de Taull, Alta Robagorca, Catalunya) の後陣祭室に描かれていた壁画です。現在はバルセロナの国立カタロニア美術館 (El Museu Nacional d'Art de Catalunya) に収蔵されています。

 「祝福する神の手」

 ちなみにタウルのサン・クレメンテ教会の後陣には、ロマネスク壁画の代表作「全能者キリスト」 (El Pancrator 下の画像) も描かれていました。こちらも現在は国立カタロニア美術館に収蔵されています。「神の手」と「全能者キリスト」は、どちらも 1123年頃の作品で、同じ画家の手によると考えられています。

 「全能者キリスト」


註2 旧約時代の神あるいは三位一体の神の後光に十字架を表現することに違和感を感じられる方もおられると思いますが、この表現の正当性は神学的には次のように説明できます。

 十字架に架かったのは三位一体の第二のペルソナ、子なる神であって、父なる神や聖霊ではありません。すなわち、位格の点から見るならば、十字架に架かったのは子なる神のみです。
 しかるに神は単純 (SIMPLEX) であって、複数の要素が複合したもの (COMPOSITUM) ではありません。(*)
 したがって、本質の点から見るならば、位格間のペリコーレーシス(**)により、三位一体の神が十字架に架かったと言い得ます。

 それゆえ、神を図像で表すことのそもそもの当否は差し措くとすれば、どの位格の神の後光に十字架をつけても、神学的には間違いといえないわけです。

* Hoc disputatur in Thomae Aquinatis Summae Theologiae, quaestione III, proprie apud articulum VII.
** ギリシア語 περιχώρησις (perichoresis) 「相互浸透」 (原意は「場所を譲り合うこと」)


(下) 参考画像 「アダムを創造する神」 サンティアゴ・デ・コンポステラ司教座聖堂 「金細工師の門」の浮き彫り(部分)






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