バジリク・ノートル=ダム・ダフリク (アフリカの聖母のバシリカ)
La Basilique Notre-Dame d'Afrique, Alger




(上) La Basilique Notre-Dame d'Afrique, Alger


 ラ・バジリク・ノートル=ダム・ダフリク(アフリカの聖母のバシリカ)は、アルジェリアの首都アルジェにあるビザンティン様式の聖堂です。バシリカはアルジェ市街の北、地中海を臨む高さ 124メートルの岬に建てられており、マルセイユのノートル=ダム・ド・ラ・ガルドと対をなすものと看做されています。


【トラピスト修道院の聖母像】

 初代アルジェ司教デュピュシュ師 (Mgr. Antoine-Louis-Adolphe Dupuch, 1800 - 1838 - 1845 - 1856) がフランスに一時帰国した際、 1840年5月にリヨンの信心会「リヨンの聖心婦人会」 (Les Dames du Sacré-Cœeur de Lyon) から聖母像を贈られました。この像はブロンズでできており、エドメ・ブーシャルドン (Edmé Bouchardon, 1698 - 1762) による 1750年の作品を写したものでした。

 デュピュシュ師がフランスから持ち帰ったこの聖母像は、アルジェの西方約20キロメートルの村ブシャウイ (Bouchaoui) にあるトラピスト修道院のファサードに、「我、この地の守護聖女と為されたり」(Ils m'ont établie leur Gardienne.) との銘を添えて置かれました。


【パヴィ大司教とふたりの修道女】

 1846年、デュピュシュ師に続き、パヴィ師 (Louis-Antoine-Augustin Pavy, 1805 - 1846 - 1866) がアルジェ司教となりました。

 パヴィ師はもともとリヨンのコルドリエ会(フランシスコ会)修道院サン=ボナヴェンチュール (Saint-Bonaventure, Lyon) の助任司祭でした。パヴィ師がアルジェに赴任する際、アンヌ・サンカン (Anne Cinquin) とアガリト・ベルジェ (Agarite Berger, Marguerite Bergesso) という信仰篤いふたりの修道女が、パヴィ師に同行することを願い出ました。アルジェに着いたパヴィ師は小神学校(カトリック系の中等学校)を設立し、ふたりはここで働くことになりました。


 小神学校の近くの谷に楡(ニレ)あるいはオリーヴの古木があって、古木の幹にはくぼみがあり、蔦がその上を屋根のように蓋(おお)っていました。ふたりの修道女はノートル=ダム・ド・フルヴィエールのバシリカに安置されている古い聖母のレプリカを古木のくぼみに置いて、この祠(ほこら)を訪れては祈りと瞑想に耽っていました。

 やがてパヴィ師はこの場所にロカイユ(rocaille 小石と貝殻をセメントで固めた人工石)のグロットを造らせて祝別し、木の祠に安置されていた聖母を「ノートル=ダム・デュ・ラヴァン(谷の聖母)」と新しく名付けて、ここに安置しました。小神学校の生徒たちは5月初めと終わりをはじめ、折に触れてこのグロットに参詣しました。とりわけクリスマスの夜、真夜中のミサのあとには、松明を掲げ、古くからフランスに伝わるクリスマスの聖歌を歌いながら、グロットまで行列が組まれました。

 ノートル=ダム・デュ・ラヴァン(谷の聖母)のグロットは、間もなく巡礼地として知られるようになり、アルジェの海沿いの地区バブ=エル=ウェド (Bab-el-Oued) や、郊外のサン=テュジェーヌ (Saint-Eugène) など、アルジェ周辺から多くの人が訪れて、ろうそくや各種の奉献物、軍人の勲章や松葉杖などを捧げるようになりました。


【「アフリカの聖母」のための聖堂建設】

 このようにしてノートル=ダム・デュ・ラヴァンのグロットは巡礼地となりましたが、ふたりの修道女は、リヨンを守護するためにフルヴィエールの聖母のバシリカが建てられたのと同様に、アルジェリアを守護する「ノートル=ダム・ダフリク(アフリカの聖母)」のバシリカを建てるべきだと考えており、パヴィ師に対して強く働きかけました。このようないきさつで、聖母のための礼拝堂をアルジェに建設し、当時ブシャウイのトラピスト会修道院に安置されていたリヨンの聖母像を、ブシャウイからアルジェに移して安置することが、1857年に決まりました。

 パヴィ師はブシャウイの修道士たちに、「あなたたちはこの聖母を修道院の守護聖女にしたが、私はアフリカの女王にしよう」("Vous en avez fait la gardienne de votre monastère, je veux en faire la Reine d'Afrique.") と語ったと伝えられています。


 ラ・バジリク・ノートル=ダム・ダフリクの設計者はソミュール (Saumur, Maine-et-Loire) 出身のアルジェの建築家フロマジョ (Jean-Eugene Fromageau, 1822 - 1897) です。建設工事は 1858年2月2日に始まりました。聖堂が祝別されたのは 1872年7月2日で、司式したのは当時のアルジェ大司教 (註1) ラヴィジュリ師 (註2) でした。

 ラ・バジリク・ノートル=ダム・ダフリクは、内陣が東側ではなく南西側にあるのが大きな特徴となっています。内陣の地下には、聖堂の建設が決定した当時のアルジェ司教、パヴィ師の遺体が埋葬されています。

 ラ・バジリク・ノートル=ダム・ダフリクのオルガンは 1912年製で、当時あるイギリス人の所有であったアルジェの別荘ヴィラ・ジョルジュ (Villa Georges) にあったものですが、所有者の死後、1930年にこの聖堂へ移されました。


【「アフリカの聖母」の戴冠と祝日】

 1873年5月、ラヴィジュリ師は聖母像をブシャウイの修道院からアルジェの新聖堂に移すとともに、聖母像を「アフリカの女王」(la Reine d'Afrique) として戴冠させる許可を、教皇ピウス9世に求めました。教皇はこれを承認し、1876年4月30日に戴冠式が行われました。アフリカの聖母は現在主祭壇に安置され、足下にはペリシエ元帥 (註3) の剣、及びユスーフ将軍 (註4) の剣が置かれています。

 4月30日は「アフリカの聖母」(Notre-Dame d'Afrique) の祝日として、現在もアフリカ大陸全体で祝われています。



註1 アルジェ司教区は 1838年に創設され、1866年以降大司教区に格上げされました。

註2 ラヴィジュリ師 (Mgr. Charles Martial Allemand Lavigerie, 1825 - 1892) は第二代アルジェ司教であったパヴィ師の後を襲って、1867年から 1892年までアルジェ大司教を務め、1885年にはカルタゴ大司教となった人です。1882年には枢機卿に選ばれています。

 ラヴィジュリ師はアフリカのイスラム教徒に宣教を行うために、1868年、アフリカ宣教師会 (La Société des MIssionnaires d'Afrique, Les Pères Blancs) を創設しました。晩年に奴隷制廃止に尽力したこと、ローマ教皇庁とフランス第三共和国政府の和解に尽力したことはよく知られています。


註3 ペリシエ元帥 (Aimable Jean Jacques Pélissier, 1794 - 1864) は聖母崇敬に熱心であったナポレオン3世時代の軍人で、1849年オラン(アルジェリア)でコレラが流行した際に聖母の行列を行うことを提案し、サンタ・クルスの聖母のバシリカ建設に関わったり、ル・ピュイ=アン=ヴレ(オーヴェルニュ)のノートル=ダム・ド・フランス建設の際、捕獲したロシア軍の大砲を材料にすることを提案したりしています。


註4 ユスーフ将軍 (général Yusuf/Youssouf, 1808 - 1866) は元の名をジョゼフ(ジュゼッペ)・ヴァンティーニ (Joseph/Giuseppe Vantini) といいます。1808年、当時フランス領であったエルバ島に生まれ、6歳であった 1815年にバルバリア海賊に攫(さら)われてチュニスの宮廷に売られました。


 ジョゼフ・ヴァンティーニ(ユスーフ)

 ジュゼッペはイスラムに改宗してマムルーク(奴隷身分出身の軍人)となり、ユスーフを名乗りましたが、1830年、変装して宮廷から逃げ、アルジェリアに向かうフランスの船に乗り込んで、チュニジアを脱出しました。

 アルジェリアに着いたユスーフはフランス軍に所属するアフリカ人騎兵隊(スパイ spahi)に加わります。ユスーフは騎兵隊を率いて恐れを知らぬ戦いぶりを見せ、昇進を重ねて将軍 (maréchal de camp) となりました。



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