受胎告知 聖年に開くポルタ・サンクタ(聖なる門) ルネサンス末期のブロンズ製メダイ 1599年 23.8 x 17.3 mm


突出部分を含むサイズ 縦 23.8 x 横 17.3 mm

ローマ  1599年



 大聖年である1600年は1599年のクリスマスから始まり、特別な免償を求めて、多くの巡礼者がローマを訪れました。このメダイは大聖年の巡礼者たちのために、1599年にローマで鋳造されたものです。





 表(おもて)面は浮き彫りによる受胎告知画となっています。マリアは書見台を前にして跪いています。クレルヴォーの聖ベルナール (St. Bernard de Clairvaux, 1090 - 1153) によると、受胎を告知された際のマリアは、イザヤ書7章14節を読んでいました。イザヤ書7章14節には次のように書かれています。

  それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。(新共同訳)

 マリアは両腕を交差して胸に当てています。マリアのこの仕草は1400年代までの受胎告知画に多く、バロック期になるとあまり見られなくなります。このメダイはルネサンス末期、あるいはバロック初期のものですが、一世代前の様式を残しています。


(下・参考画像) 両腕を交差して胸に当てるマリアとガブリエル Fra Angelico, "La Anunciación" (details), c. 1435, témpera sobre tabla, 194 x 194 cm, Museo del Prado, Madrid




 書見台と床のタイルは、マリアが室内にいることを明示しています。メダイの場面が室内であるのは、ガブリエルが「入ってきて」受胎を告知した、と福音書に書かれているからです。すなわち「ルカによる福音書」1章28節には次のように記録されています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     καὶ εἰσελθὼν πρὸς αὐτὴν εἶπεν, Χαῖρε, κεχαριτωμένη, ὁ κύριος μετὰ σοῦ. (Nestle-Alandt 26 Aufl.)     使者ガブリエルはこの女のところに入って来て言った。「喜びなさい。恵まれた女よ。主が御身と共におられる。」(筆者訳)


 ガブリエルが最初に発する「カイレ」(Χαῖρε 「喜びなさい」)はメシア(救い主)の出現を予告する言葉で、旧約の預言者たちも同じ言葉を使っています。





 ガブリエルがマリアの前に身を低く屈めているのは、ロレトの連祷にもあるように、マリアが「レーギーナ・アンゲロールム」(REGINA ANGELORUM 「天使たちの女王」)であるからです。

 ガブリエルは白百合を持っています。白百合は強い香気によって徳の高さ、純潔を表すとともに、神に選ばれた身分を象徴しています。ガブリエルが白百合をマリアに手渡す仕草は、処女懐胎の告知を表現しています。





 「受胎告知」画の画面には、最初は父なる神と聖霊(鳩)に加え、場合によっては天上から降(くだ)る幼子が描かれていました。時代が下るにつれて、幼子は教会の禁令によって描かれなくなり、次に父なる神の姿が、次いで鳩が、画面構成上の美術的要請ゆえに、あるいは縮小し、あるいは別画面に移されて受胎告知画から消失します。

 本品はサイズが小さいゆえに、人物の微妙な表情や仕草にも増して説明的な画面構成が重視され、また本格的な美術作品ではなく信心具としての性格が強いゆえに、同時代の美術界の先端的な動向に比べると、一世代前の様式に従う保守性を有します。したがってマリアとガブリエルの頭上には聖霊(鳩)がいますが、その姿がうっかりすると見落としそうになるほど小さくなっている点に、ルネサンス末期らしい特徴が感じられます。





 メダイの裏面には教皇が聖年に開く「ポルタ・サンクタ」(PORTA SANCTA ラテン語で「聖なる門」)が浮き彫りにされています。聖なる門はローマに四箇所ある「教皇のバシリカ」 (BASILICAE PAPALES) のそれぞれにあって、概ね 50年に一度の聖年にのみ開かれます。本品に表されているのは、サン・ピエトロの聖なる門です。聖なる門の周囲には "ANN IVBI" "1600" と記されています。"ANN IVBI" は「アンノー・ユビラエイー」(ANNO IVBILAEI ラテン語で「聖年に」)の略記です。

 このメダイは四百年以上前、わが国で言えば安土桃山時代のものですが、保存状態は良好です。上部の環に破損は無く、浮き彫りも細部までよく残っています。


【16世紀末という時代と、東京国立博物館所蔵のキリシタン遺品】

 このメダイが制作された16世紀末は、わが国で言えばキリシタン迫害が本格化する頃に当たります。

 1549年、フランシスコ・ザビエルとともに鹿児島に上陸したキリスト教は、京や大坂にも伝わって信者を増やしてゆきました。しかしながら 1587年7月24日、豊臣秀吉は「天正禁令」を発布してキリスト教宣教師の帰国を命じ、1596年10月19日、サン・フェリペ号が桂浜に座礁すると、秀吉は天正禁令が守られていないことを口実に積み荷を没収し、キリシタン迫害を開始します。

 翌1597年2月5日、長崎の西坂丘において、京、大坂で捕縛されたキリシタンを中心とする日本二十六聖人が殉教しました。1619年10月17日に京都の六条河原で52人が殉教、1623年12月4日には江戸の札の辻で50人が殉教し、1622年の「元和の大殉教」では、1602年に長崎に上陸したカルロ・スピノラ神父をはじめとする55人のキリシタンが、やはり長崎の西坂丘で処刑されています。


 東京国立博物館にはカトリックのメダイがいくつか収蔵されています。多くは慶応から明治初年、すなわち19世紀後半のものですが、なかには本品と同時代の非常に古いものもあります。それらのメダイはキリシタン時代の渡来品で、長崎奉行所宗門蔵旧蔵、あるいは京都府福知山城堡内発掘となっています。

 下に示す画像のうち、上の四点は長崎奉行所宗門蔵旧蔵品、下の四点は1916年の福知山城内発掘品で、いずれもキリシタンが伝来した安土桃山時代、すなわち当店のメダイと同時代に、宣教師によってヨーロッパからもたらされたものです。







 長崎奉行所宗門蔵のメダイは、浦上一番崩れ(1790年)、二番崩れ(1842年)、三番崩れ(1856年)の際に没収されたもので、重要文化財となっています。

 1916年にはメダイ7点、ロザリオ7連が福知山城内で発掘されましたが、いつ誰がどのような状況で埋蔵したのかは分かっていません。キリシタン武将小野木重勝 (1563 - 1600 霊名シメオン) は 1595年に福知山城主となりましたが、この翌年にサン・フェリペ号事件が起こり、キリシタンへの迫害が始まります。したがって城内から出土したメダイとロザリオはこの頃に埋められたものでしょう。

 ちなみに関ヶ原の戦いが起こった1600年、豊臣家の家臣であった小野木重勝は西軍に加わって戦い、東軍側(徳川家康側)に与(くみ)した細川氏と対立します。細川忠興の妻ガラシャ (1563 - 1600) は大坂に残りましたが、屋敷を西軍側に囲まれると、家老小笠原秀清に槍あるいは長刀(なぎなた)で胸を突かせて死にました。小笠原秀清は細川屋敷を爆破して自害し、イエズス会のオルガンティノ神父 (P. Gnecchi-Soldo Organtino, 1530 – 1609) が屋敷の焼け跡でガラシャの骨を拾いました。





本体価格 54,800円 販売終了 SOLD

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