聖ノエル・シャバネル
St. Noël Chabanel
カナダの殉教者(北アメリカの殉教者)
のひとりである聖ノエル・シャバネル (St. Noël Chabanel, 1613 - 1649) は、オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県の小村ソーグ (Saugues) に4人きょうだいの末っ子として生まれました。1623年に兄のピエールがイエズス会に入り、1630年にはノエル自身もトゥールーズでイエズス会の修練士となり、1632年に初誓願を立てた後、1632年から 1639年までのあいだトゥールーズの学校で修辞学を講じ、その学識によって尊敬を集めました。
1641年に叙階されたあと、ヌーヴェル=フランスへの宣教師となることを熱望した聖ノエル・シャバネルは、1642年と 1643年に第6代イエズス会総長ムティオ・ヴィテッレスキ (Mutio Vitelleschi, 1563 - 1645) に手紙を書き、2度目の手紙で許可を得て、その年の 5月 8日、いずれもイエズス会士であるガロー神父 (Leonard Garreau, 1609 - 1656)、ドリュイェ神父 (Gabriel Druillet) とともにヌーヴェル=フランス行きの船に乗り込み、8月15日にケベックに到着しました。,
ヴィル・ド・ケベックで修道院付司祭として働いた後、1644年の夏、聖ノエル・シャバネルは
聖ジャン・ド・ブレブフ (St. Jean de Brebeuf, 1593 - 1649)
、ガロー神父とともに、20人のフランス軍兵士に護衛されて、イロクォワ族による封鎖が続くヒューロン族支配地域の宣教拠点サント=マリに向けて出発し、オタワを経由する困難なルートを通って 9月 7日にサント=マリに到達しました。
聖ノエル・シャバネルはサント=マリで現地の言葉を習得しようと努力しましたが、故国では修辞学の教師であったにもかかわらずヒューロン語がまったく上達せず、現地人に侮られました。また繊細な感性の持ち主であった聖ノエル・シャバネルは、現地の風習や食べ物にも馴染めませんでした。1646年10月21日、最終誓願を立てた後も聖ノエル・シャバネルは仲間の宣教師たちの華々しい働きを日々目にしつつたいへん苦しみましたが、自分に適した仕事をするためにフランスに帰るという誘惑に負けないために、1647年 6月 20日、死ぬまでヒューロン族への宣教に携わるという誓願を立てました。
1648年、イロクォワ族がサント=マリとその周辺の村々に迫り、7月 4日にはサント=マリから20キロメートル足らず南東の村が襲われて
聖アントワーヌ・ダニエル (St. Antoine Daniel, 1601 - 1649)
が殉教しました。また翌 1649年 3月 16日にはサン=チグナスとサン=ルイが襲われて、聖ジャン・ド・ブレブフと
聖ガブリエル・ラルマン (St. Gabriel L'Allemant, 1610 - 1649)
が殉教しました。この年、イロクォワ族はヒューロン族の村々を続けざまに襲い、ヒューロン族は抵抗をやめて逃げ出しました。周辺にヒューロン族がいなくなったため、宣教拠点サント=マリもその役割を失い、宣教師たち自身の手で破壊され放棄されました。宣教師たちと、遠方に逃げずに残ったヒューロン族の人々は聖アントワーヌ・ダニエルが殉教した村に一時的に避難して、そこを「サント=マリ 2」と名付けました。12月7日にはサン=ジャンの村がイロクォワ族に襲われて
聖シャルル・ガルニエ (St. Charles Garnier, 1606 - 1649)
が殉教しました。
聖ノエル・シャバネルはサン=ジャンの村がイロクォワ族に襲われる二日前に、上長の命令で村を出て、「サント=マリ 2」に向かう途中で行方不明になりましたが、このとき行動をともにしていたヒューロン族の男にトマホーク(石斧)で殺害され、川に投げ捨てられたことが後になってわかりました。犯人の男はカトリックに改宗してから不運が重なったことで宣教師たちを恨んでいたのでした。カトリックへの敵意を持つ者に殺害されたことで、聖ノエル・シャバネルはかねてから熱望していた殉教の冠を手に入れたのでした。
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