聖ジャン・ド・ブレブフ
St. Jean de Brebeuf


 カナダの殉教者(北アメリカの殉教者)のひとりである聖ジャン・ド・ブレブフ (St. Jean de Brebeuf, 1593 - 1649) はバス=ノルマンディーにある小村コンデ=シュル=ヴィル (Conde-sur-Vire農) の農家の出身で、1617年、24歳のときにルーアンでイエズス会に入会し、1922年 2月に叙階されました。

 1625年に宣教師としてカナダに渡り、最初の冬にケベック周辺のモンターネ族 (Montagnais) の言語を学んで、宣教活動を開始しました。
 聖ジャン・ド・ブレブフは人口の多いヒューロン族への宣教を目標に定め、1626年 7月 25日、イエズス会士アンヌ・ド・ノン神父 (Anne de None)、フランシスコ会レコレ派 (Recollets) のジョゼフ・ド・ラ・ダイヨン神父 (Joseph de la Roche Daillon, +1656) とともに、ヒューロン族の地に向かいました。
 しかし 17世紀前半はカトリックとプロテスタントの対立が絡んだ 30年戦争の時代で、新大陸においてもニューファウンドランド及びラブラドル総督のデイヴィッド・カーク卿 (Sir David Kirke, c. 1597 - 1654) がイギリスの勢力を拡大すべくフランスと戦火を交え、情勢は緊迫しつつありました。このような状況のなかでド・ノン神父は 1627年、ド・ラ・ダイヨン神父は 1628年にやむを得ず宣教地を去りました。
 1628年 7月にはカーク卿とその兄弟たちがケベックを攻撃し、翌 1629年にケベックは降伏しました。その結果宣教師全員を含むほとんどのフランス人が帰国を余儀なくされ、この年の6月には聖ジャン・ド・ブレブフ自身もフランスに帰国するようにイエズス会の上長から命じられました。
 聖ジャン・ド・ブレブフは3年近くのあいだヒューロン族の部落に住んで現地人と親交を結び、ようやく現地の言語を操れるようになりつつありましたが、たいへんつらい気持ちで帰国し、しばらくのあいだノルマンディーにあるイエズス会の施設を巡回して仕事をしました。

 1632年3月 29日、サン=ジェルマン=アン=レー条約 (Traite de Saint-Germain-en-Laye) によって、ケベックがイギリスからフランスに返還され、再びヌーヴェル・フランスに渡った聖ジャン・ド・ブレブフは、1633年、ケベックで聖アントワーヌ・ダニエル (St. Antoine Daniel, 1601 - 1648) 、アンブロワーズ・ダヴォスト神父 (Ambroise Davost, 1586 - 1643) と合流します。聖人はこのふたりにヒューロン語を教え、1634年 7月、聖ジャン・ド・ブレブフ、聖アントワーヌ・ダニエル、アンブロワーズ・ダヴォスト神父はヒューロン族とともにカヌーに乗ってトロワ=リヴィエールを出発しました。

 この頃、通常のルートであるセント・ローレンス川をたどる通常のルートはイロクォワ族により封鎖されていたので、聖人の一行はセント・ローレンス川からオタワ川、マタワ川、ニシピング湖、フレンチ川を経由してヒューロン湖のジョージア湾岸に到るルートを利用し、その距離は約 1300キロメートルに及びました。途中にはカヌーを川から引き上げて人力で運ばなければならない場所が 35箇所、カヌーに綱をつけて岸から牽かなければならない急流が 50箇所以上もありました。一行は日の出から日没までカヌーをこぎ続け、夜は蚊やブユの大群に悩まされながら岩や土の上で眠りました。旅の途中の食料はとうもろこしの粉を水に溶いたものでした。困難を極める行程ののち、一行は 8月 5日にヒューロンの地に着き、聖ジャン・ド・ブレブフは 1626年から 29年までともに暮らした友人たちと再会し、温かい歓迎を受けました。


 苦労して到達したヒューロンの地でしたが、宣教の事業は遅々として進みませんでした。ヒューロン族は従来の宗教を捨てることを拒み、さらにヨーロッパ人が持ち込んだ病気のみならず、不作や戦闘での敗北などあらゆる災厄をヨーロッパ人のせいにしました。一部の強硬派には宣教師たちを殺害しようとする動きも見られたので、宣教師たちは遺言を用意しました。
 1637年 6月に健康な成人のなかからようやく最初の改宗者が出て、ピエール (Pierre Tsiouendaentaha) という洗礼名を与えられました。この改宗者はもともと指導的地位にあった人物で、さらに 2ヵ月後には信徒のリーダーとなるジョゼフ (Joseph Chiwatenha) も改宗し、宣教はようやく実を結び始めました。
 1638年、ジェローム・ラルマン神父 (Jerome Lalement, 1593 - 1673) がヌーヴェル・フランスに渡ってきて、ヒューロン族の支配地域におけるイエズス会の上長者の地位を聖ジャン・ド・ブレブフから引き継ぎました。聖ジャン・ド・ブレブフはサン・ジョゼフ2 (Saint-Joseph II, Teanaostaiae) に移りましたが、反乱が起こって、聖人はショモノ神父 (Pierre-Joseph-Marie Chaumonot, 1611- 1693) とともに激しく殴打されました。

 聖ジャン・ド・ブレブフは 1640年から1641年にかけてショモノ神父とともにチョノントン族 (le Chonnonton またはニュートル族 les Neitres、アタワンダロン族 l'Attawandaron)にも宣教を試みていますが、成果は得られませんでした。このとき聖人は左の鎖骨を折ってケベックに移り、1644年まで当地にとどまって、ヒューロンの宣教拠点のために物資を調達する仕事に携わります。

 1644年 9月、聖人はヒューロン族の地に戻ります。この頃から数年間、宣教は大きな成果を上げ、1647年の信者数は数千人を数えるまでになりました。

 しかしこの頃からイロクォワ族によるヒューロン族への攻撃が激しくなり、ヒューロン族は勇敢さにおいては負けていないものの、狡猾なイロクォワ族の巧みな待ち伏せ攻撃によって多数の人員を失いました。1647年にはヒューロン族とトロワ=リヴィエール間の交易は途絶し、1648年 7月 4日には聖ジャン・ド・ブレブフの前任地であったサン・ジョゼフ2 (Saint-Joseph II, Teanaostaiae) が襲われて壊滅的な被害を受けました。


 1949年 3月 16日の夜明けに、1200人のイロクォワ軍がサン・チグナス(St. Ignace 現在のアメリカ合衆国ミシガン州マキナック郡セインティグナス)の集落を襲ってたちまちのうちに占領し、数時間後にはサン・ルイ(St. Louis 現在のアメリカ合衆国ミシガン州グラティオット郡セイントルイス)を包囲して、ここも短時間のうちに攻略しました。

 サン・ルイにいた聖ジャン・ド・ブレブフと聖ガブリエル・ラルマンは村人たちとともに捕らえられ、サン・チグナスに連行されました。聖ジャン・ド・ブレブフは全身を殴られながらも、捕虜となった村人を励まし、信仰について話し続けました。全身の殴打に続いて、聖人は赤熱した斧を首に掛けられ、燃える石炭で焼かれ、身体を切られ、「洗礼」と称して熱湯を注がれ、頭皮を剥がれました。しかし聖人は拷問を受けるあいだ一度の叫び声も上げず、拷問を行うイロクォワ族に神の愛を説き、捕虜となった信者を励まし続けたと言われています。聖人はこの日の午後 4時頃、拷問のために絶命しました。


 聖ジャン・ド・ブレブフの遺骨はミッドランドの殉教者聖堂に安置されています。また聖ジャン・ド・ブレブフが残した記録はカナダ史の史料としても民族誌としても高く評価されています。



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