聖シャルル・ガルニエ
St. Charles Garnier
カナダの殉教者(北アメリカの殉教者)のひとりである聖シャルル・ガルニエ (St. Charles Garnier, 1606 - 1649) はパリのサン=ジェルヴェ教区の貴顕の家柄に生まれ、コレージュ・ド・クレルモン(College
de Clermont 現在のリセ・ルイ=ル=グラン Lycee Louis-le-Grand )に学んだ後、1624年にイエズス会に入会しました。修練期間を終えた後、コレージュ・ド・クレルモンで学事長を、続いてオート=ノルマンディーのユー
(Eu) にある学校で教師を勤め、その後ふたたびコレージュ・ド・クレルモンに戻りました。
聖シャルル・ガルニエは 1635年に叙階された頃からヌーヴェル=フランスでの宣教を望むようになり、猛烈に反対する父親を一年がかりで宥めました。聖人は
1636年 6月 11日にケベックに上陸し、8月 12日にヒューロン族の支配地域に到着しました。
聖シャルル・ガルニエは日々福音を説き、また遠い距離も悪天候もいとわずにどこへでも駆けつけて捕虜を慰め、病人を治療し、死の床にある人に洗礼を施しました。体格が優れた人ではないのに、どこにそれだけの力が隠れているのかと思われる働きぶりでした。
聖人はその忍耐強さゆえに「子羊」(agneau) というあだ名を付けられました。1637年には単独で、 1639年には
聖イザック・ジョーグ (St. Isaac Jogues, 1607 - 1646) とともに、また 1640年にはピヤール神父 (Pierre Pijart, 1608 - 1676) とともに、ヒューロン族の南に住みタバコ・ネイション
(the Tobacco Nation) とも呼ばれるペタン族 (Les Petuns / Khionontateronons) に布教しましたが、この際にも聖人は持ち前の忍耐強さを発揮し、敵対的であった現地住民の改宗に徐々に成功しました。1646年,、聖人は殉教者ガロー神父
(Leonard Garreau, 1609 - 1656) とともにペタン族に招かれ、このとき以降殉教するまで彼らとともに生活しています。
1649年に入って
聖ジャン・ド・ブレブフ(3月16日)、
聖ガブリエル・ラルマン(3月16日)、
聖アントワーヌ・ダニエル(7月 4日)が次々に殉教すると、聖シャルル・ガルニエは 同年 4月 25日付の手紙で殉教の栄冠を与えられた3人をほめたたえ、自らも近く殉教するであろうことに喜びを表しています。
1649年 12月 7日、イロクォワ族がペタン族の村を襲ったとき、聖シャルル・ガルニエは村にいたただ一人の宣教師でした。イロクォワ族来襲の知らせがもたらされると、聖シャルル・ガルニエはすぐに会堂に行ってそこに集まっている村人たちを祝福し、すぐに逃げるように命じたあと、自身は他の村人たちの許へと急ぎ、燃え盛る炎の中、信者には罪の赦免を与え、子供たちや死に瀕した者たちに洗礼を施しました。そのとき火縄銃の弾丸が聖人の胸部を貫通し、さらにもう一発が腹部から入って脚に至りました。聖人は手を組んで短く祈ったあとさらに救うべき人を探し、10メートルほど離れたところに倒れている瀕死の村人を見つけると、よろめきながら歩いてゆきましたが、両方のこめかみをトマホーク(石斧)で強打されて絶命しました。こめかみの傷は脳に達していました。
イロクォワ族は聖人の衣服を剥ぎ取り、遺体を裸のまま放置しました。聖人の遺体は、翌日村を訪れたふたりの宣教師によって、焼け落ちた教会の跡に埋葬されました。
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