ミュラの聖二コラオス
Ἅγιος Νικόλαος Μύρων, SANCTUS NICOLAUS MYRENSIS, c. 270 - 343





(上) Andrea di Bonaiuto, "Madonna col Bambino con Santi", 1360 - 1362, Chiesa Santa Maria del Carmine, Firenze 司教姿の聖ニコラオスが、聖母子の右隣(向かって左隣)のパネルに描かれている。聖ニコラオスのアトリビュートである三枚の金貨が、祭服のポケットから覗いている。


 ミュラの聖ニコラオス(希 Ἅγιος Νικόλαος Μύρων 羅 SANCTUS NICOLAUS MYRENSIS, c. 270 - 343)は小アジア半島南西部、リュキア属州のミュラ(Μύρα)で司教を務めた人物で、南イタリアのバーリ(Bari プッリャ州バーリ県)に聖遺物が安置されているゆえに、バーリの聖ニコラ(伊 San Nicola di Bari)とも呼ばれます。325年の第一二ケア公会議は神の三位一体を公教会の教義と定めた重要な宗教会議ですが、聖二コラオスはミュラの司教としてこの会議に出席したと考えられています。

 ミュラの聖ニコラオス(ニコラウス、ニコラス)は東方教会においては六世紀以来、イタリア以西のヨーロッパにおいては九世紀以来聖人として崇められ、数多くの国や地域や都市の守護聖人、様々な職業の守護聖人であるほか、とりわけ子どもと若者の守護聖人と考えられています。聖ニコラオスはサンタクロースのモデルでもあります。聖ニコラオスの祝日は十二月六日で、ドイツからフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルに至る国々の良い子たちは、この日に聖人から贈り物を受け取ります。

 なお聖人の名前はギリシア語でニコラオス(希 Νικόλαος)、ラテン語でニコラウス(羅 NICOLAUS)、スペイン語でニコラス(西 Nicolás)、イタリア語でニコラまたはニコロ、ニッコロなど(伊 Nicola, Nicolò, Niccolò)、フランス語でニコラ(仏 Nicolas)、ドイツ語でニコラウス(Nikolaus)、ウクライナ語でミコライ(Миколай)、ロシア語でニコライ(露 Николай)です。英語ではニコラス(英 Nicholas)で、男性名コリン(Collin)や姓コリンズ(Collins)、女性名コレット(Collette)はニコラスの派生語です。


【ミュラの聖ニコラオスの生涯】

 聖ニコラオスの生涯に関して、歴史的事実はほとんど分かっていません。早期の主要な歴史記録としては、聖歌作者としても知られる神学者クレタのアンドレアス(Ἀνδρέας Κρήτης, c. 650 - 712 ?)による記述、コンスタンティノープルにあったストゥーディオス修道院の修道士ヨハンネースによる記述、ビザンティン帝国において制作された諸々の行伝、とりわけ九世紀の修道院長ミカエルによる聖ニコラオス伝(註1)が挙げられます。十世紀後半のビザンティンの著述家シュメオーン・メタフラステース(Συμεών Μεταφραστής)は諸々の聖人伝を編みましたが、これがラテン語に訳されて西ヨーロッパに広まり、ヴァンサン・ド・ボーヴェ(Vincent de Beauvais, c.1184/94 - 1264)の「スペクルム・ヒストリアーレ」(SPECULUM HISTORIALE 歴史の鏡)の聖ニコラオス伝、ワース(Wace, c. 1110 - c. 1183)による韻文の「聖ニコラオス伝」、ヤコブス・デー・ウォラギネの「レゲンダ・アウレア」の聖ニコラオス伝などを産み出しました。

 聖ニコラオスは西暦 270年頃小アジア半島南西部、リュキア属州の港町パタラ(Πάταρα)で交易に携わる裕福なキリスト教家庭に生まれました。父はギリシア人でエピファニオス(Ἐπιφάνιος)といい、母はヨーアンナ(Ἰωάννα)といいましたが、両親はニコラオスの幼時にペストで亡くなりました。成長したニコラオスは司祭となり、或る聖人伝によると、ミュラ司教を務めるおじによってミュラに近い聖シオーン修道院の院長に任じられました(註2)。おじの後継司教が亡くなると、聖ニコラオスがミュラの新司教に任じられました。

 ローマ帝国においてキリスト教が公認され、組織的迫害が終息したのは西暦 313年のことでしたが、聖ニコラオスが生まれたのは西暦 270年頃ですので、聖人はキリスト教迫害の時代に前半生を送っています。聖ニコラオスの生地パタラにおいても司教メトディオスが処刑され、ニコラオス自身も 310年に投獄されて拷問を受けました。ニコラオスはキリスト教公認の報を受けてようやく釈放されました。

 迫害を生き延びた聖ニコラオスは、両親から受け継いだ遺産を貧者に分配しました。聖ニコラオスが貧者に財産を分配した出来事はミラノのアンブロシウスやカイサレアのバイレイオスの著作にも記述があり、歴史的事実と考えられています。

 聖ニコラオスはアリウス派との論争でも知られていますが、クレタのアンドレイアス及びストゥーディオス修道院のヨハンネース修道士によると、325年の第一二ケア公会議で論敵アリウスに暴力をふるって拘束され、会期が終わりに近づいた頃に再び出席を許されました。

 死の前年、司教ニコラオスはミュラの市民に遺っていたアルテミス崇拝を厳しく断罪し、神殿を取り壊させて、その場所に殉教者の墓所を建てたと伝えられます。

 死期が近いことを自覚した聖ニコラオスは、司教としての最後のミサを挙げたあと修道院に退き、343年12月6日に亡くなりました。遺体は大理石の棺に納められましたが、聖人の遺体からは芳香を放つ油が流れ出し、遺体を腐敗から守っていると噂されるようになりました。聖人から流れ出る香油はマナと呼ばれ、骨折や眼病を癒し、瀕死の病人を蘇らせるとされました。



【聖人伝における聖ニコラオス】

 ハギオグラフィ(聖人伝)は信仰の高揚を唯一の目的とする説話であり、歴史的事実の記述ではありません。ハギオグラフィはほぼ全てが荒唐無稽な作り話ですが、ドラマチックな筋書きが聖画像の典拠となり、ときに民間習俗を産み出すゆえに、文化史の視点から見ると豊穣な実りを齎す土壌と言えます。聖ニコラオスをめぐるハギオグラフィとしては、次のようなものが知られています。




(上) Gentile da Fabriano, "Baptême de Saint-Nicolas" (dettaglio), il Polittico Quaratesi, tempera su tavola, c. 1425


■ 幼児洗礼を受ける際、新生児ニコラオスは神を畏れかしこんで、自分の足で真っ直ぐに立ち上がりました。このときニコラオスは三時間のあいだ直立していたと伝えられます。また当時の教会が小斎日と定めた水曜日と金曜日には、母の乳を飲むのを拒みました。




(上) Fra Angelico, "le baptême, un prêche et la dotation des trois jeunes filles" (il Polittico Guidalotti, dettaglio), c. 1437, San Domenico in Perugia


■ ミュラの司教が亡くなり、近隣の司教が次のミュラ司教を決めるために集まったとき、ニコラオスを次の司教に任ぜよと言う神の声が、祈る司教たちの耳に聞こえました。翌朝、司教たちはニコラオスの頭に大司教冠を置きました。

■ レゲンダ・アウレアによると、ミュラの町に貧しい男が暮らしていました。男の三人の娘は気立てがよくて良い縁談もありましたが、結婚の持参金を用意できないゆえに結婚できませんでした。これを知った聖ニコラオスは、それぞれの娘に婚期が訪れるたび、両親から受け継いだ遺産から金貨が詰まった財布を男の家に投げ込み、過酷な運命から娘たちを救いました。天来の援助を不思議に思った男は、末娘のための金貨が投げ込まれた際に謎の援助者を追いかけ、司教ニコラオスが助け手であったことを知りました。ニコラオスはこのことを他言しないよう男に命じて立ち去りました。

 この伝承は12月6日に聖ニコラオスが、あるいはクリスマス・イヴにサンタクロースが、子供たちに贈り物をくれるという俗信の起源と考えられます。

■ 或る年ミュラに熱風が吹いて畑の穀物や牧草が枯れ果て、町は飢餓に襲われました。このとき港には小麦を積載した数隻の船が嵐から退避しており、町の人々は積み荷の小麦を町のために供出するよう求めました。しかしながら積み荷の小麦は皇帝の命によりアレクサンドリアから運んできたもので、少しでも供出すれば厳罰が予想されるため、船長は供出を拒みました。司教ニコラオスは町の人々に頼まれて港に出向き、小麦の一部を供出するよう船長に頼むとともに、皇帝の了解を得る交渉を自ら行いました。

 「レゲンダ・アウレア」によると、司教ニコラオスはミュラのために供出しても小麦は減らないと船長に約束し、船は小麦の一部を供出してコンスタンティノープルに向かいました。入港後に計量したところ、聖人の言葉通り、小麦は減っていませんでした。またミュラに降ろした小麦は町の人々が食べても減らず、畑にも播かれてミュラの町を養いました。

 この奇跡譚は福音書に記録された五つのパンと二匹の魚の奇跡(マタイ 14: 13 - 21、マルコ 6: 30 - 44、ルカ 9: 10 - 17、ヨハネ 6: 1 - 14)からヒントを得たものでしょう。福音書に記された奇跡において、イエスは感謝の祈りを捧げパンを割き給いました(マタイ 14:19 他)が、これは聖体拝領を思わせます。ヨハネによると、この奇跡が起こったのは過ぎ越しの祭の直前でした(ヨハネ 6: 3)。なおマタイ及びマルコによると、イエスはこの後にもう一度、今度は七つのパンと少しの魚を増やす奇跡を行いました(マタイ 15: 32 - 39、マルコ 8: 1 - 10)。二度目の奇跡においてもイエスはパンを割き、感謝の祈りを捧げておられます(マタイ 15: 36、マルコ 8: 6)。

■ ニケア第一公会議でアリウスに暴力を振るったニコラオスは職権を停止され投獄されましたが、獄中のニコラオスにキリストと聖母が出現してパッリウム(羅 PALLIUM 大司教のY字型肩衣)と福音書を聖人に与え、獄の扉を開けました。


■ リュキア沖を航行中の船が嵐で難破しかけ、死をも覚悟した水夫たちが聖人に助けを求めて祈ったところ、一人の男性が現れて水夫たちを励まし、水夫たちとともに操船作業を行いました。船がミュラに入港すると、男性の姿は掻き消えました。水夫たちは男性が聖ニコラオスであったことを悟り、跪いて感謝の祈りを捧げました。この故事に基づいて、アドリア海やエーゲ海沿岸の港町や漁村には、聖ニコラオスの祠が数多く見られます。

■ ロレーヌの或る領主が十字軍に参加し、トルコで捕虜になりました。この男は寝る前に聖ニコラオスに祈りましたが、翌朝目覚めると、そこはロレーヌの聖堂前広場でした。男の体は鎖につながれたままでした。




(上) Janez Ljubljanski, "Saint Nicolas arrêtant le bourreau", 1443, la galerie nationale de Slovénie


■ 皇帝コンスタンティノス一世(コンスタンティヌス大帝)に仕える三人の軍人がフリギアに派遣され、暴動の鎮圧にあたりました。三人はコンスタンティノープルに栄誉の帰還を果たしましたが、その功績を嫉む者たちの讒訴により、皇帝の命を狙っているとの嫌疑をかけられました。投獄された三人は死刑を言い渡されましたが、宮廷の長官は三人を嫉む者に買収されて、無実の訴えに耳を傾ける人はありませんでした。三人が聖ニコラオスの助けを求めて祈ったところ、その夜皇帝と長官の夢に聖人が現れ、三人をすぐに釈放しなければ恐ろしい懲らしめを与えると語りました。軍人たちの無実を知った皇帝は彼らを釈放し、奉献物と謝罪の書簡を三人に持たせて、ミュラに遣わしました。




(上) 三人の子供たちを塩漬けの樽から救い出す聖ニコラオス フランスのメダイ 直径 18.0 mm 厚さ 3 mm 重量 3.8 g 1950 - 70年代頃 当店の商品です。


■ フランスには、殺されて塩漬けにされた三人の子供を、聖ニコラオスが復活させる童謡があります。三人の子供が落穂拾いに出かけ、途中で日が暮れたので、肉屋を訪れ一夜の宿を乞いました。肉屋の夫婦は子供たちを招き入れると殺して解体し、七年のあいだ塩漬けにしました。そこに聖ニコラ(聖ニコラオス)がやってきて肉屋の悪事を暴き、三本の指で祝福を与えて子供たちを蘇らせました。

 中世の聖画像において、キリストや聖母、諸聖人の姿は大きく描かれる反面、救われる人々や寄進者など一般人の姿は聖人に比べて極端に小さく表現されることが多くあります。フランスのイエズス会士で中世美術の研究家でもあったシャルル・カイエ(Charles Cahier, S.I., 1807 - 1882)、およびフランスの美術史家エミール・マール(Émile Mâle, 1862 - 1954)は、上記奇跡の聖画像において三人の軍人が聖人よりもはるかに小さく描かれたせいで子供と誤解され、肉屋に切り刻まれて塩漬けにされた三人の子供を聖ニコラオスが蘇生させたとの民間説話を生んだと考えました。

 聖ニコラオスが塩漬けにされた三人の子供を蘇らせる物語は、フランスにおいて十二世紀まで遡ることができます。東方教会の文化圏には類話を見出すことができません。



【東方教会における聖ニコラオス崇敬】

 ミュラの聖ニコラウスは東方の聖人であるゆえに、初期の聖画像は東ローマ帝国内に分布していました。しかるに東ローマでは八世紀から九世紀にかけてイコノクラスム(仏 iconoclasme 聖画像破壊)が猖獗を極め、諸聖人のイコンや浮き彫り像、丸彫り像は徹底的に破壊されました。イコノクラスムは、それ以前から崇敬される聖人たちの崇敬史を解明するうえで大きな障碍となっています。ミュラの聖ニコラオスもその例外ではありませんが、東ローマ帝国では六世紀以来盛んに崇敬されており、12月6日の祝日も九世紀以前に制定されていました。九世紀末にイコノクラスムが終熄するや否や、聖ニコラオスの画像は東方教会のあらゆる場所に復活しました。

 東方正教会、すなわちアナトリア、キプロス、クレタ、ギリシア、バルカン諸国、モルドヴァ、ルーマニア、ウクライナ、ロシア等の正教会において聖ニコラオスは重要な守護聖人と見做され、現在に至るまで篤く崇敬されています。

 いっぽう西方教会においては、聖ニコラオスの聖遺物が南イタリア、バーリに移葬されて以降、この聖人に対する崇敬が特に盛んになりました。


【聖ニコラオスの移葬】



(上) la Basilica di San Nicola, Bari バーリ、サン・ニコラのバジリカ イタリアの古い絵葉書


 聖ニコラオスの遺体はデムレ(Demre 古代のミュラ)に現存する聖ニコラオス聖堂に埋葬されました。墓所からはマナと呼ばれる香油が沁み出し、ヨーロッパ全域に話が伝わって、大勢の巡礼者が聖ニコラオスの墓所を訪れました。

 十一世紀に入ると小アジアはイスラム教徒に脅かされるようになり、1071年、ビザンチン帝国はマラズギルトの戦いでセルジュク・トルコに敗れて、皇帝ローマノス四世((Ῥωμανός Δ' Διογένης, 1030 - 1072)が捕虜となるに至りました。

 聖人の遺体を盗んで勝手に移葬することを、サクラ・フルタ(羅 SACRA FURTA 聖なる盗み)と言います。有名な聖人の墓所となった教会や修道院には寄進が集まりますから、サクラ・フルタには経済的動機があります。しかしながら表向きの理由とされるのは 別の場所に移したほうが聖人にふさわしい崇敬が為されるということです。特に聖ニコラオスの場合は本来の墓所がイスラムの支配地になろうとしていたのですから、聖ニコラオスを守護聖人するイタリアの教会がサクラ・フルタに乗り気であったことは言うまでもありません。移葬の記録によると、バーリの水夫六十二名はヴェネツィアの船を出し抜いて、聖人のものとされる聖遺物(遺体)をミュラの聖ニコラオス聖堂から盗み出し、1087年5月9日、この聖遺物とともにバーリに帰還したのでした。バーリでは聖人の墓所とするため、1089年から 1197年まで百年余りの歳月をかけて、ラ・バジリカ・サン・ニコラ(伊 la Basilica di San Nicola 聖ニコラ聖堂)が建設されました。




(上) la Basilique de Saint-Nicolas-de-Port ラ・バジリク・ド・サン=ニコラ=ド=ポール(サン=ニコラ=ド=ポールのバシリカ) フランスの古い絵葉書


 なお伝承によると、ロレーヌ出身の騎士オベール・ド・ヴァランジェヴィル(Aubert de Varangéville)が 1098年にバーリの墓所から聖人の骨の一部を盗み出し、これをロレーヌのサン=ニコラ=ド=ポール(Saint-Nicolas-de-Port グラン・テスト地域圏ムルト=エ=モゼル県)に齎しました。当地には 1481年から 1545年にかけてサン=ニコラ=ド=ポール聖堂(仏 la basilique de Saint-Nicolas-de-Port)が建設され 多数の巡礼者を迎えました。サン=ニコラ=ド=ポールはゴシック・フランボワヤン様式の聖堂で、建物全体の奥行 71.5メートル、建物の幅 31メートル、身廊の高さ 30メートル、鐘楼の高さ 85メートルと 87メートルの威容を誇ります。伝承によると、ジャンヌ・ダルクは 1429年、シノンに向けて出発する直前に聖人の墓前に祈るため、この聖堂を訪れました。




(上) la cathédrale Saint-Nicolas de Fribourg フリブール司教座聖堂サン=ニコラ 古いアルブミン・プリント


 上腕骨を含むいくつかの骨は、教皇ユリウス二世の 1505年7月2日付教皇勅書により、1506年5月9日、サン=ニコラ=ド=ポールからフリブール司教座聖堂サン=ニコラ(仏 la cathédrale Saint-Nicolas de Fribourg)に移葬されました。フリブール(Fribourg フリブール州サリーヌ郡)はドイツ語でフライブルクといい、スイス西部に位置します。

 ベルギー西部エスティン(Estinnes エノー州ラ・ルヴィエール郡)近郊のクロワ=レ=ルヴロワ(Croix-lez-Rouveroy)はフランスとの国境に近い小さな村です。この村のノートル=ダム=ア=ラ=クロワ教会(Notre-Dame-à-la-Croix)にはいずれも十七世紀ないし十八世紀に遡るシエナの聖カタリナ聖バルバラ、聖エロワ、聖大アントニウス(註3)の彩色木像と並んで、これらと同時代の聖ニコラオス木像があります。この教会には聖ニコラオスのものとされる聖遺物も安置されています。

 なお 2022年10月13日に、デムレ(ミュラ)の聖ニコラオス聖堂で聖ニコラオスの石棺が発見されたと報じられました。



【聖ニコラオスの祝日】

 聖ニコラオスには二通りの祝日があります。ひとつは 12月6日で、聖人が没した日に当たります。もう一つは 5月9日で、聖人の遺体がバーリに移葬された記念日です。

 聖ニコラオスは東方教会で古くから崇敬され、550年頃には皇帝ユスティニアヌスが聖ニコラオスに捧げた聖堂をコンスタンティノープルに建設しています。上に記した二つの祝日は東方教会でも祝われていますが、東方教会においては聖ニコラオスに一週間が捧げられ、ニコラオスを聖母マリア、洗礼者ヨハネと並ぶ重要な聖人として篤く崇敬しています。

 聖ニコラオスの聖遺物がイタリアに齎された 1087年は教会大分裂以前であり、東方における崇敬は西欧にもそのまま移植されました。しかしながら聖ニコラオス崇敬がイタリアに伝わったのはバーリへの移葬よりも早く、九世紀初頭に遡ります。

 ゲルマン民族に対しても、聖ニコラオス崇敬は十世紀に伝播しました。マケドニア朝ビザンティン帝国の皇女テオファノー(Θεοφανώ Σκλήραινα, c. 960 - 991)は、神聖ローマ皇帝オットー二世に嫁ぎました。一説によると聖ニコラオスへの崇敬はステファノーを通じてゲルマン民族に伝わりましたが、別の説によると東フランク王国の使節がイタリアを訪れた際、聖ニコラオス崇敬を持ち帰ったとも考えられています。ロートリンゲン宮中伯エッツォ/エーレンフリート(Ezzo/Ehrenfried, c. 955 - 1034)はテオファノーの娘マチルデ(Mathilde von Sachsen, 979 - 1025)を娶りましたが、ブラウヴァイラー(Brauweiler ラインラント=プファルツ州バート・クロイツナハ郡)やクロッテン(Klotten ラインラント=プファルツ州コッヘム=ツェル郡)をはじめ、ラインラントのあちこちに聖ニコラオス教会を建設し、これが当地における聖ニコラウス崇敬を推し進める役割を果たしました。




(上) Het Sint-Nicolaasfeest 「聖ニコラオスの祝祭」 ヤン・ステーンが 1665 – 1668年頃に制作した有名な油彩画を、シャルル・ファン・ベーフェレン(Charles van Beveren, 1809 - 1850)が模写したもの。聖ニコラオスから人形を貰って喜ぶ女の子と、木の枝を貰って泣く男の子を描いている。アムステルダム美術館蔵。


 我が国におけると同様にヨーロッパにおいても、昔ながらの暦は月の運行に従います。それゆえ古くからの年中行事が行われる日付は、太陽暦でいえば前日の日没から始まります。聖ニコラオスの祝日である12月6日も、太陽暦の12月5日夜に始まります。

 民間の習俗において、聖ニコラ(聖ニコラオス)は12月5日の夜、子供たちに贈り物を持ってきてくれます。聖ニコラの祝日は十二夜すなわち降誕節の十二日間(十二月二十五日から一月六日まで)よりもずっと前ですが、この季節は農作業が終わり、大人は子供に構う余裕がありました。子供たちが暖炉の前に靴を並べておくと、夜の間に聖ニコラが驢馬に乗ってやってきて、菓子や干した果物、オレンジやりんご、榛(はしばみ)の実などの贈り物を入れてくれました(註5)。

 十三世紀半ばになると、北フランスでは聖ニコラウスの祝日に、聖人が三人の娘に金貨を与える聖劇が上演されるようになりました。聖ニコラオスの祝日に、聖人が子供に贈り物をくれるのは、この聖劇が発展した行事といえます。いわば聖劇が修道院や教会を出て、各家庭で演じられるようになったのです。



【守護聖人としての聖ニコラオス】

 ミュラの聖ニコラオスは古くから子供の守護聖人として知られるほか、とりわけミサの侍童と聖歌隊の少年、聖職を志す学生の守護聖人とされました。また水夫の祈りに応えて船を安全に港まで導いた故事により船乗りの守護聖人とされ、さらに三人の軍人の無実を明らかにして牢から救い出したゆえに、弁護士の守護聖人ともされています。また貧しい父親に代わって三人の娘の持参金を用意した故に、聖ニコラオスは結婚相手を探す女性と男性の守護聖人ともされています。さらに船が積む小麦を供出させて飢えるミュラを救ったゆえに、聖ニコラオスはパン屋の守護聖人ともされます。聖ニコラオスは商売人、肉屋、薬屋、香水商、架橋兵の守護聖人とも考えられています。

 聖ニコラオスはギリシアとロシアの守護聖人です。フランスにおいてロレーヌでは六十五、ピカルディでは九十五、シャンパーニュ=アルデンヌでは八十六、ノール=パ=ド=カレーでは六十六の教区が、聖ニコラオスを守護聖人としています。



 註1     修道院長ミカエルによる聖ニコラオス伝は、この聖人の事績に関して歴史的事実を含むほぼ唯一の資料と考えられている。
      定型的な聖人伝には、聖人が改心に至った事情の記述が含まれる。しかしながら修道院長ミカエルの聖ニコラオス伝には、改心の記述が欠落している。オランダの歴史学者ヨナ・レンダリング(1964 - )はこの点に注目し、修道院長ミカエルは聖ニコラオス伝を編纂する際に、改心の記述を含む聖人伝の定型が成立する以前の資料に依拠したであろうと論じている。
     
 註2     なおリュキア属州にはピナラ(Πίναρα)の司教でもあったシオーンの聖ニコラオス(Νικόλαος Σιωνίτης, - 564)という聖人がおり、ふたりの聖ニコラオスの事績は聖人伝において多分に混同されている。ミュラの近くには聖シオーン修道院(Ἁγία Σιών)があるが、修道院の創立年代は 541年と 565年の間と考えられ、シオーンの聖ニコラオスが創設者と伝えられる。修道院の創立はミュラの聖ニコラオスよりもおよそ二百年後であって、同聖人がその修道院長であったはずはない。これも二人の聖ニコラオスが混同された結果である。
     
 註3     聖大アントニウス像は十八世紀のものだが、この聖堂に安置されたのは 1930年である。
     
 註4     12月6日は現行暦(グレゴリオ暦)に基づく日付である。1582年以前に行なわれていたユリウス暦では、12月19日に当たります。
     
 註5     一部の地域では、ビュシュ・ド・ノエルが靴と同様の役割を果たした。

 十九世紀のブルゴーニュ=フランシュ=コンテやカタルーニャでは、ビュシュ・ド・ノエル(仏 une bûche de Noël クリスマスの丸太)と呼ぶ特別な丸太の内部に空洞を作った。ビュシュ・ド・ノエルは長いので暖炉に入りきらず、暖炉からはみ出た部分は燃えていない。この部分の空洞に両親がこっそりとおやつを入れておき、ビュシュ・ド・ノエルがおやつを生んでくれるように、子供たちにお祈りをさせるのである。

 ブルゴーニュ=フランシュ=コンテのドゥー県(le Doubs)では、火を燃やしていない暖炉の中に薪割り台を立てて置いた。この薪割り台は中身を繰り抜いてあり、上部に皮か布を張る場合もある。子供たちは幼子イエスがおやつを下さるように祈りながら薪割り台を棒で叩く。父親がこっそりと屋根に登り、煙突から薪割り台をめがけて果物や菓子を落とすと、子供たちは幼子イエスが下さるおやつを夢中になって拾い集めた。このような習俗は二十世紀前半まで残っていた。


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