サン=マクシマン=ラ=サント=ボーム マグダラのマリアのバシリカ
Basilique Sainte-Marie-Madeleine, Saint-Maximin-la-Sainte-Baume




 サント=ボーム (Sainte-Baume) とは本来「聖なる洞窟」という意味ですが、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の地中海沿い、ブーシュ=デュ=ローヌ県 (le département de Bouches-du-Rhone) と、その東隣のヴァール県 (le département de Var) にまたがる広大な森林地帯、サント=ボーム山塊 (la massif de Sainte-Baume) を指す地名となっています。

 ヴァール県西部にあってサント=ボーム山塊に位置する町、サン=マクシマン=ラ=サント=ボーム (Saint-Maximin-la-Sainte-Baume) に、フランス南東部における最大のゴシック建築であるバシリカ、サント=マリ=マドレーヌ(la basilique Sainte-Marie-Madeleine 聖マリ=マドレーヌのバシリカ、マグダラのマリアのバシリカ)が建っています。このバシリカは新約聖書に登場する聖女マグダラのマリアの墓所とされており、多くの人々が巡礼に訪れます。


【ヴェズレー修道院が創作したマリアの渡海伝説】

 11世紀中頃、ブルゴーニュのヴェズレー修道院で、突如としてマグダラのマリア(聖マリ=マドレーヌ)の信仰が発生しました。当時衰退していたヴェズレー修道院に、1037年、新院長ジョフロワ (Geoffroy 在職 1037 - 1050) が着任し、修道院の改革に取り組む過程で、ヴェルダンからマグダラのマリアの信仰を導入したのがきっかけでした。

 11世紀から12世紀にかけてのフランスでは、隠修士たちが中心となった「悔悛運動」が盛んでした。罪を償うために森に入って、瞑想と禁欲の生活を送る隠修士たちにとって、「罪を悔悛した娼婦」である聖女、マグダラのマリアは最も親しい聖人でした。このような社会情勢ゆえに、隠修士のみならず、あらゆる階層の人々がマグダラのマリアに帰依し、ヴェズレーを目指して巡礼に旅立ったのでした。


 当時の人々にとって、信仰とはすなわち聖遺物への崇敬であり、霊験あらたかな聖遺物を有する教会や修道院への巡礼に他なりませんでした。それゆえマグダラのマリアの聖遺物があると考えられたヴェズレー修道院は、サンティアゴ・コンポステラ巡礼の出発点であったことも手伝って、飛躍的な繁栄を遂げました。しかし有名な巡礼地となるにつれて、パレスティナから遠く離れたヴェズレーになぜマグダラのマリアの遺体があるのかを合理的に説明して、巡礼者たちを納得させる必要が出てきました。

 そこで考案されたのが、聖女たちが迫害を逃れるために舟に乗って聖地を脱出し、フランスに来たという説明でした。すなわち「西暦四十五年に、マグダラのマリアを含む聖女たちはカマルグに上陸した。マグダラのマリアはサント=ボームに移って西暦七十五年二月に生涯を終え、当地の聖堂サン=マクシマンに葬られた。ヴェズレーではサン=マクシマンに修道士を派遣して、その遺体を盗み出すことに成功した。それゆえマグダラのマリアの遺体はヴェズレーにある。」というのです。




(上) ヴェズレーのマグダラのマリアのバシリカ


【ヴェズレーとサン=マクシマンの対立】

 ところが 1279年に大事件が起こります。ヴェズレーにあるマグダラのマリアの遺体は、もともとサント=ボームの聖堂サン=マクシマンから移葬したものとされていました。しかし 1279年、ナポリ王シャルル二世 (アンジュー伯シャルル二世 Charles II d'Anjou, 1254 - 1309) の命によりサント=ボームにドミニコ会修道院が設立された際に、非常に古い地下礼拝堂が見つかり、ここでマグダラのマリアの遺体すなわち下顎以外の全身の骨格が発見されたのです。発見された遺体の頭蓋骨には、復活のキリストがすがりつくマリアを制止した際に触れたと思われる左目の上あたりに、ノーリー・メー・タンゲレ(羅 noli me tangere 我に触れるべからず)と呼ばれる頭皮の一部が残っていました。

 聖女の遺体と同時に、由来を記した書類が見つかりました。それによると、イスラム教徒による破壊を恐れて、サント=ボームの人々は聖女の遺体を別人の遺体とあらかじめすり替えていたのでした。今回見つかったのが真正の聖女の遺体であって、ヴェズレーの修道士が当地から盗み出したと主張する遺体は替え玉だったということになります。聖女の遺体が発見されるや否や、サン=マクシマンでは奇跡が続発して、その真正性を裏付けました。聖遺物発見の翌年である 1280年には厳かな式典によって聖遺物が奉挙されるとともに、聖堂の建設が始まりました。この聖堂が現在のバシリカで、1532年にほぼ完成しましたが、正面と鐘楼は未完のままです。


 ヴェズレーの移葬記によると、サン=マクシマンに派遣された修道士は、聖女の遺体を「雪花石膏(アラバスター)の棺」から盗み出したことになっています。サン=マクシマンはこの記述を逆手に取りました。サン=マクシマンで見つかったメロヴィング期の墓所には四つの棺が収められていましたが、それらはいずれも大理石の棺でした。サン=マクシマンにおいて聖女の遺体とともに見つかった書類には、聖女の遺体がまさに雪花石膏の棺から大理石の棺にあらかじめ移されたと明記されていたのです。

 移葬の物語を考案する際に、マグダラのマリアが眠る地として、ヴェズレーがサント=ボームのサン=マクシマンを「中継地点」に選んだそもそもの理由は不明です。しかしサン=マクシマンは、ヴェズレーが考案した物語をうまく利用すれば、本来何のゆかりも無かったマグダラのマリアの巡礼地となって大きな繁栄を手にできることに気付いたのでした。


 ヴェズレーとサン=マクシマンが互いの正統性を主張し合う状況がしばらくの間続きましたが、形勢はやがてヴェズレーに不利になります。サント=ボームにドミニコ会修道院を設立したのはナポリ王シャルル二世ですが、シャルル二世の父シャルル一世(シャルル・ダンジュー)はフランス国王ルイ九世の末弟でした。つまりシャルル二世はアンジュー伯、プロヴァンス伯、両シチリア王国国王であり、フランス国王の甥である有力者だったのです。

 シャルル二世が支配するナポリで1294年に教皇に選出されたボニファキウス八世 (Bonifacius VIII, c. 1235 - 1294 - 1303) は、その翌年、サン=マクシマンの遺体こそが真正の聖女のものであることを宣言しました。これによってヴェズレーは巡礼地としての命運を断たれてしまいました。


【サント=ボームにおけるマグダラのマリア伝承】

 九世紀に起源を遡り、ヤコブス・デ・ヴォラギネの「レゲンダ・アウレア」("Legenda Aurea" XCVI, c. 1260) にも収録されている伝承によると、マグダラのマリアは姉妹マルタたちとともに舵もマストも無い小舟で聖地を脱出し、神慮によってカマルグに上陸し、プロヴァンスに福音を広めました。

 マルセイユの領主が住民の子供を偶像の生贄に捧げようとしているのを阻止し、領主夫妻と住民たちを改宗させたマグダラのマリアは、やがてサント=ボーム (Sainte-Baume 「聖なる洞窟」) の岩穴に隠棲して、30年間瞑想の生活を送りました。聖女は天使が運んでくる天上の食べ物だけを口にし、一日七回、毎時課に天使によって天上に上げられ、日々天上の音楽を聴きました。

 マグダラのマリアが住む岩穴から 20キロメートルほどのところに隠修士が住んで、禁欲と苦行に励んでいました。ある日、この隠修士は聖女が天使とともに天に上がり、しばらくしてふたたび地上に降るのを見たので、聖女を訪ねに出掛けました。ところが洞窟の近くまで行くと足に激しい痛みが起こり、それ以上近づくことができません。隠修士が呼びかけると、聖女は答えて隠修士を招き、自分がマグダラのマリアであること、この岩穴で三十年に亙って苦行を続けていること、毎日七回天に上げられて天使たちの歌を聴いていることを明かし、さらに自分が復活祭の朝に天に召されるであろうと語って、このことを聖マクシマンに伝えるよう、隠修士に頼みました。

 復活祭の朝、マグダラのマリアは天使によって聖マクシマンの教会、後のサン=マクシマン=ラ=サント=ボーム (St.-Maximin-la-Sainte-Baume) に運ばれました。聖女の魂は光り輝く天使の群に囲まれて、聖マクシマンの眼前で天に昇ってゆきました。この後7日間、聖堂内には芳香が漂っていたと伝えられます。


 また別の伝承によると、マグダラのマリアが岩穴で苦行を続けるうち、衣は擦り切れて無くなり、代わりに髪が体を覆いました。そこにゾシムスという隠修士が通りがかり、聖女に衣を与えて、翌年にも会うことを約します。しかし翌年、ゾシムスが岩穴を通りがかると、聖女はもう亡くなっていました。ジオットによる下のフレスコ画は、ゾシムスがマグダラのマリアに衣を与える場面を表しています。




(上) Giotto di Bondone, Scenes from the Life of Mary: The Hermit Zosimus Giving a Cloak to Magdalene (details), 1320s, fresco, Magdalene Chapel, Lower Church, San Francesco, Assisi


 ただしこのゾシムスの物語は、本来マグダラのマリアとは別人の、エジプトのマリアの聖人伝に出てくる話です。エジプトのマリアは自堕落な生活を送る娘でしたが、遊びに行ったエルサレムで教会堂に入ろうとした際、見えない力に阻まれました。これをきっかけに悔悛し、ヨルダンの砂漠で贖罪の生涯を送ったと伝えられています。

 エジプトのマリアの物語はマグダラのマリアと混同され、マグダラのマリアに関する伝承の形成に影響を与えました。


【バシリカ 《サント=マリ=マドレーヌ》】

 サン=マクシマン=ラ=サント=ボームのバシリカ 《サント=マリ=マドレーヌ》(マグダラのマリアのバシリカ)はフランス南東部における最大のゴシック建築で、プロヴァンスにおけるゴシックの頂点を示します。

 全長 73メートル、幅 37メートルの規模を誇りますが、鐘楼が無いため、高さは 29メートルに納まっています。身廊からは巨大な控え壁が突き出ており、非常にどっしりとした印象を与えます。後陣祭室ひとつに加え、ふたつの小祭室、16の礼拝堂を備えます。翼廊と周歩廊はありません。

 聖堂の建築はナポリ王シャルル2世 (アンジュー伯シャルル Charles II d'Anjou, 1254 - 1309) の時代、マグダラのマリア発見の16年後である 1295年に始まり、十六世紀中頃に工事が終わるまで、二世紀を超える年月を要しました。鐘楼は建てられないままに終わり、西側正面の扉口も造られませんでした。


・地下聖堂

 バシリカの地下にはメロヴィング期の墓所があり、大理石でできた四つの棺が収められています。

 石棺のうちのひとつ、トルコ産大理石の棺はマグダラのマリアのものとされています。あとの三つはそれぞれ聖マクシマン (St. Maximin) の棺、聖マルセル (St. Marcelle, 4 c.) と聖スザンヌ (Ste. Suzanne) の棺、聖シドワン (St. Sidoine, 430 - 486) の棺とされています。聖マクシマンの棺には、キリスト降誕の場面、及びヘロデ・アルケラオス (Herod Archelaus, B.C. 23 - A.D. c.18) がベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしたときの場面が浮き彫りにされています。

 聖マクシマンはイエズスが十二使徒とは別に選んだ 72人の弟子(ルカによる福音書 10: 1 - 20) のひとりとされます。また一部の伝承で裕福であったとされるベタニアの一族(マグダラのマリア、マルタ、ラザロ)の執事であったとも伝えられ、彼らと一緒にカマルグに渡ってマグダラのマリアとともに宣教を行い、聖女が亡くなる際には聖体を与え、亡くなった聖女を埋葬したとも言われます。聖マクシマンは初代エクス司教であり、亡くなった後は遺言どおりマグダラのマリアの隣に埋葬されました。

 ただし聖マクシマンの名前は新約聖書にも、マグダラのマリア伝承と関連の無い歴史資料にも出てきません。それゆえ実在した歴史上の人物ではないと考えられています。


 この地下聖堂には、マグダラのマリアの聖遺物ノーリー・メー・タンゲレを入れた容器も安置されています。ノーリー・メー・タンゲレ(羅 NOLI ME TANGERE)とはイエズスが復活後に最初に出会った弟子マグダラのマリアに言った言葉(ヨハネによる福音書 20: 1 - 18)で、ラテン語で「我に触れるな」という意味です。マグダラのマリアはイエズスに制止されはしましたが、それでも抱きついたに違いないと考えられ、イエズスに触れたであろう聖女の額の皮膚はとりわけ神聖な聖遺物として尊重されました。


(下) 復活したイエズスにすがりつこうとするマグダラのマリア Tiziano Vecelli, Noli Me Tangere, 1511 - 12, oil on canvas, 101 x 91 cm, National Gallery, London





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