楕円形の真珠母(しんじゅも マザー・オヴ・パール)の薄板を二枚のガラスに挟み込み、ヴェルメイユのベゼルにセットしたメダイヨン(ロケット)。真珠母の薄板には、一方の面にシャルトル司教座聖堂を、もう一方の面に司教座聖堂で崇敬を受けるノートル=ダム・デュ・ピリエ(Notre-Dame du Pilier 柱の聖母)を、それぞれ非常に緻密な細密画で描いています。
一方の面には北西方向から見たノートル=ダム・ド・シャルトルが描かれています。この絵はたいへん写実的で、聖堂の北側が蔭になっている様子が写真のような忠実さで表現されています。また司教座聖堂の建物のみならず、西側正面のル・ポルタイユ・ロワヤル(le
portail royal 王の門)前にある樹木までが描き込まれています。司教座聖堂は壁面を含めすべての部分が水彩絵の具で塗られているのに対し、背景となる空の部分に絵具は塗られず、真珠母のイリディセンス(七色の光沢)が、あたかも物質を聖化する神の光のように見えます。
現代人は、物を透過し、あるいは物の表面に反射して目に入った可視光線のうち、特定の周波数帯がさまざまな色となって見えることを知っています。また白と黒は色ではないこと、すなわちあらゆる周波数帯の光が混じりあった白色光が、そのまま目に入れば白く見えること、逆にいかなる周波数帯の可視光線も目に入らなければ、黒く見えることを知っています。現在では子供にとっても常識であるようなこれらの事柄が最初に証明されたのは、実は近世以降のことに過ぎません。すなわち
1666年にアイザック・ニュートンが白色光をプリズムで分光し、色彩とは各周波数帯の光に他ならないことを初めて証明したのです。
ニュートン以前の人々は、色彩の本質についてこのような科学的知識を持ちませんでした。8世紀以来、ヨーロッパでは、光は神に属するとされていましたが、色彩については神に属するのか、あるいは地上の物質に属するのかという論争が、九百年近くのあいだ戦わされてきました。
中世の科学思想によると、人間の目に見えるのは物質のみです。物質でないものは目に見えません。唯一の例外が光です。光は物質ではありませんが、目に見えます。光について、諸家の説は一致して、神に由来すると考えていました。光は神から発出するものであり、アウグスティヌスが言うように、「不可視の神より来る可視的なもの」でした。
しかるに色彩の本質については二つの説がありました。一方は「色彩は光に属する」とする説です。この説によると、色彩は光と同様に神に由来し、神の栄光を表します。したがって聖堂を色彩で飾るのは神を讃えるのにふさわしいことでした。この考えを代表する人物はサン=ドニ修道院長であったシュジェ
(Suger de Saint-Denis, c. 1080 - 1151) で、サンドニ修道院付属聖堂を最初のゴシック建築とし、ステンドグラスを透過した光によって、聖堂内に美しい色彩を溢れさせました。
色彩の本質に関するもう一方の説は、「色彩は物質の属性である」とする考え方です。この考えによると、色彩は物質と不可分であり、物質の表面を膜のように被うものです。色彩は天来のものである光とは本質的に無関係であり、あくまでも物質が有する性質です。この説が正しいとすれば、地上に属する物資の属性に過ぎない色彩によって、天上にある神の栄光を表すことなど不可能です。色彩を教会堂に溢れさせるのは、むしろ神の栄光を汚すことです。このように考えた人物の代表はクレルヴォーの聖ベルナールです。ベルナールが属するシトー会の聖堂は質素で、華やかなステンドグラスを有しません。
上記の二説はどちらが正しいか決着のつかないままニュートンの時代を迎えるのですが、中世を通して優勢であったのは「色彩は光に属する」とする説でした。ゴシック様式の聖堂が美しいステンドグラスで飾られていることは、よく知られています。ステンドグラスを透過した光は物質を聖化する天上の光です。上の写真はシャルトル司教座聖堂の第三十柱間にある有名なステンドグラス作品、「ノートル=ダム・ド・ラ・ベル・ヴェリエール」(Notre-Dame
de la belle verrière 美しき大ステンドグラスの聖母)です。ステンドグラスの聖母子は、シュジェが見出した花紺青(はなこんじょう)のスマルト(コバルトガラス)をはじめ、美しい色ガラスを通った光を聖堂内に溢れさせ、神の家を天上の栄光で満たしています。
本品の材料である真珠母(しんじゅも)にはイリディセンス(虹色の光沢)が見えます。イリディセンスの色は、ステンドグラスのような透過光によるものではなく、入射した光がアラゴナイト (CaCO3) 結晶との間に干渉を起こして生じる構造色です。したがってステンドグラスと真珠光沢では色を生じる原理が異なりますが、いずれもさまざまな波長の光が美しい色彩となって見えているのであって、アウグスティヌスが言う「不可視の神より来る可視的なもの」であることに変わりはありません。
本品の細密画において、司教座聖堂が神の光に照らされて建つさまは、使徒ヨハネが幻視した「新しいエルサレム」(「ヨハネの黙示録」 21章)にも似ています。本品を制作した細密画家は、紙や金属ではなく真珠母の上に聖堂を描くことにより、シュジェが愛したステンドグラスの光を再現しているのです。
上の写真に写っている定規のひと目盛は 1ミリメートルです。最も緻密な部分では、1ミリメートルの幅に十本以上の線が引かれています。
本品の細密画の輪郭線は、エッチングを平版と同様の方法で真珠母に転写したもので、これに水彩で手彩色を施しています。すなわち、一般に版画制作においては左右を反転させて版を作りますが、本品の版は左右を反転させずに制作しています。出来上がったエッチング版に油性インクを載せて紙に転写すると、左右が反転した版画ができます。この版画のインクが乾かないうちに真珠母に押し付けると、左右が反転しない画像が真珠母に転写されます。これを乾燥した後、水彩で手彩色を施しているのです。
シャルトル司教座聖堂は身廊と翼廊の屋根が銅で葺かれていますが、壁面は白あるいは明るい灰色の石でできています。しかしながら本品の細密画では白に加えて紫色や茶色も使用され、クロード・モネがルーアン司教座聖堂を描いた連作を思い起こさせます。
真珠母のもう一方の面には、閉鎖されたクリプトにあったためにフランス革命の破壊を免れた十六世紀初めの聖母、ノートル=ダム・デュ・ピリエ(Notre-Dame
du Pilier 柱の聖母)が描かれています。この聖母像は、現在、司教座聖堂内陣を取り巻く周歩廊から北東に向けて張り出した礼拝堂に安置されています。
(上) H. ベルトラン作カニヴェ 「ノートル=ダム・デュ・ピリエ」 112 x 71 mm (シャルトル、アドリアン・ラングロワ 図版番号不明) H.
Bertrand, sc. "Notre-Dame de Chartres", pl. inconnu, Adrien l'Anglois, Chartres 当店の商品です。
ノートル=ダム・デュ・ピリエは、サラゴサのヌエストラ・セニョラ・デル・ピラル(Nuestra-Señora del Pilar 柱の聖母)と同様に柱上に安置されています。ノートル=ダム・デュ・ピリエの「ピリエ」(pilier) とは中世の建築用語で、ヴォールト(穹窿 きゅうりゅう)の重みを支える垂直の柱を指します。キリスト教の象徴体系において、完全な図形である円は神の住まう天空を表します。高みにあって丸みを帯びたヴォールトは、天の象徴です。これに対して聖堂下部の四角い床は、地を象徴します。それゆえピリエ(柱)は「天を象徴するヴォールト」と「地を象徴する床」を結ぶアークシス・ムンディー(AXIS MUNDI ラテン語で「世界軸」の意)であるといえます。シャルトルのノートル=ダム・デュ・ピリエやサラゴサのヌエストラ・セニョラ・デル・ピラルのように柱上にある聖母子像は、神の母マリアが天地を繋ぐ存在であることを象徴しています。
なおノートル=ダム・デュ・ピリエは「黒い聖母」(vierges noires) のひとつとして知られていましたが、この聖母像が黒っぽく見えるのは塗料のせいであることが判明し、サントル=ヴァル・ド・ロワール文化局 (la
direction régionale des affaires culturelles Centre-Val de Loire) が 2013年に修復を行って、明るい色の肌が復元されました。上の写真の左側は修復前、右側は修復後です。
上の写真に写っている定規のひと目盛は 1ミリメートルです。聖母子の顔は直径 1ミリメートルに満ちませんが、目鼻口がきちんと描き込まれています。ノートル=ダム・デュ・ピリエは妊産婦と子供の守護聖人として親しまれています。
真珠母の細密画は二枚のガラスに挟まれ、金色のベゼルで留められています。ガラスの縁は斜めにカットしたように滑らかに研磨され、角ばったところがなく、心地良い手触りです。
ベゼルは切れ目の無い環状で、周囲に粒金状装飾が打ち出されています。細密画を挟んだガラスをセットした後、縁を丁寧に折り曲げてガラスに密着させてあり、角ばった部分や出っ張った部分は皆無です。そのため肌を傷付けたり、洋服の糸に引っかかったりする心配は一切ありません。ベゼルの材質は銀に金を被せたヴェルメイユです。フランスにおいて 800シルバーを示す「イノシシの頭」のポワンソン(ホールマーク 貴金属検質所の印)が、上部の環に刻印されています。
ノートル=ダム・ド・シャルトル(シャルトル司教座聖堂ノートル=ダム)は、パリを通ってサンティアゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼路が通過する場所に建っており、中世以来、サンティアゴを最終目的地とする巡礼者が立ち寄る聖地でした。また上述のように、ノートル=ダム・デュ・ピリエは妊産婦と子供の守護聖人と考えられています。高名な作家であり詩人であったシャルル・ペギー
(Charles Péguy, 1873 - 1914) は、1912年から13年にかけて、病気の息子のために徒歩によるシャルトル巡礼を行い、その影響でシャルトルへの巡礼がふたたび盛んになりました。
本品は第一次大戦後間もない頃の作例です。手彩色の細密画を真珠母に描き、繋ぎ目の無い銀のベゼルで留めた本品は、信心具の水準を超え、美術工芸の域に大きく踏み出しています。フランスが史上かつてない規模の災厄に見舞われたこの時代に、子供や家族、大切な人を庇護し給うノートル=ダム・デュ・ピリエへの祈りを籠めて制作された美しい品物です。
本品はおよそ百年前に制作された真正のアンティーク品ですが、保存状態は極めて良好です。聖画にもガラスにもベゼルにも、特筆すべき問題は何もありません。