1960年代のフランスで制作された聖母マリアの大型メダイ。ミニマリスティックな作風のメダイユ彫刻家、フィリップ・シャンボー(Philippe
Chambault, 1930 - )の作品です。
本品に浮き彫りにされた聖母は、十字架付きの球体を持っています。球体を胸に引き付け、慈しむように両手に包み込む持ち方には、幼気(いたいけ)な我が子を抱く母の慈愛が感じられます。
聖母が手に持っている球体は、グロブス・クルーキゲルです。球は神に造られたすべてのものを表し、これに十字架が付いたグロブス・クルーキゲルは、全宇宙を支配する神とキリストの権能を表します。グロブス・クルーキゲル(GLOBUS CRUCIGER)はラテン語で「十字架付きの球体」」という意味で、世界球と訳されています。
(上) カニヴェ 「罪無くして宿り給えるマリアよ、御身に頼るわれらのために祈り給え」 (ラマルシュ 図版番号 123) 115 x 75 mm フランス 1886年頃 当店の販売済み商品
世界球を胸の前に持つ聖母の図像は、聖母の慈愛と庇護がすべての人に及ぶことを表します。この図像はラテン語でウィルゴー・ポテーンス(VIRGO
POTENS)、フランス語でヴィエルジュ・ピュイサント(la Vierge puissante)と呼ばれ、いずれも力ある童貞(処女)という意味です。「力ある童貞」はマリアが有する伝統的な称号のひとつで、ロレトの連祷にも現れます。
本品の浮き彫りにおいて、力ある童貞(聖母)があたかも幼子を抱くように世界球を包み込む様子は、世界球、すなわち全世界の人々が、聖母に愛される子供であることを表します。
共贖者マリアの働きは、世界球に近接して飛ぶ鳩、ならびに鳩が咥えるオリーヴの小枝によっても表されています。「創世記」八章十一節に記録されたノアの洪水の故事に基づき、オリーヴの小枝を咥える鳩は、神との平和を表します。本品には聖母の前後にマリ、レーヌ・ド・ラ・ペ(仏
MAEIE, REINE DE LA PAIX 平和の女王マリア)の文字が彫られていますが、オリーヴを咥えた鳩はこのうちラ・ペ(LA PAIX 平和)の直下に、この言葉と重なり合うように彫られており、神との平和の可視的表現であることがわかります。
本品の鳩は輪郭のみで表され、聖母をおよび世界球に比べると実体性に乏しく思われます。鳩が透明に見えるのは平和が不可視の価値であるからでもありますが、本品の鳩は平和の形象化であるのに加えて、キリスト者の魂をも重層的に表しています。
洪水の水が引き始めたとき、ノアは三度にわたって鳩を放ちました。鳩は最初に放たれたとき、全地が水に覆われていたので、どこにも降り立つことができずに箱舟に帰ってきました。オリーヴの小枝を咥えて戻ってきたのは、二度目に放されたときです。そして三度目に放されると、鳩はもう箱舟に戻って来ませんでした。(「創世記」八章八節から十二節)
本品に浮き彫りにされた鳩は、神との和解を象徴するオリーヴの小枝を咥えて、聖母の胸にまっすぐ飛び込もうとしています。ノアの箱舟から三度目に放たれた鳩は、神に祝福された新天地をついに見出しました。それとちょうど同じように、キリスト者の魂を表す本品の鳩は、聖母の胸に祝福された安住の地を見出します。鳩が上空を飛ぶのではなく、むしろまっすぐ聖母へと向かう様子は、救いを見出した不可視の魂が、庇護を求めて聖母の元に向かう姿を現します。しっかりと豊かな量感で表現された聖母は、神との確かな和解、永続的な平和、再び失われることのない救いを可視化しています。
本品はフランスの彫刻家フィリップ・シャンボーの作品です。聖母の背面下方、メダイの縁に近いところに、ペ・セ(P C)のモノグラムがあります。聖母の手のすぐ下にあるジ・ベ(J. B.)のモノグラムは、フランス北西部ソミュール(Saumur ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県)のメダイユ工房、ジ・バルム(J. Balme)のイニシアルです。上部の環には製造国を表すフランス(FRANCE)の文字が読み取れます。
フィリップ・シャンボー(Philippe Chambault, 1930 - )は 1930年8月9日、パリ南郊シャトネ=マラブリ(Châtenay-Malabry イール=ド=フランス地域圏オ=ド=セーヌ県)で生まれました。パリの応用美術工芸学校(École Nationale Supérieure des Arts Appliqués et des Métiers d'Art, ENAAMA)に入学して木彫りを中心に学んだ後、1954年にジョルジュ・セラ(Georges Serraz, 1883 - 1964)のアトリエに入り、それまで助手を務めていたアンリ・デュナンに替わって師の仕事を手伝いながら研鑽を積みました。
フィリップ・シャンボーは、この頃、彫刻家ルイ・デルブレ(Louis Derbré, 1925 - 2011)と親交を結びました。ルイ・デルブレは具象彫刻を復権させた功績で知られる人物です。シャンボーはデルブレに勧められていくつかの美術展に出品し、1956年にフェネオン賞(le
prix Fénéon)、1957年にヴィキン賞(le Prix des Vikings)を受賞しています。
シャンボーは 1961年にソミュールのメダイユ工房ジ・バルム(la société J. Balme)に入ります。この頃のシャンボーが住んでいたのはソミュールではなく、スイス国境に近いアルプスの村ヴァロルシン(Vallorcine オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)でしたが、シャンボーは在宅で仕事をし、ジ・バルム社から給与を支払われていました。シャンボーはジ・バルムのために、宗教、スポーツ、地方をはじめ、多岐に亙るテーマのメダイユを制作しました。
シャンボーがジ・バルムのために作ったなかで最もよく知られた作品の一つは、第二次世界大戦後の仏独の和解をテーマに制作された記念碑用メダイヨン(大型メダイユ)です。メダイヨンの図柄はシャルル・ド・ゴールとコンラート・アデナウアーの横顔を重ね、レコンシリアシオン・フランコ=アレマンド(仏
RÉCONCILIATION FRANCO-ALLEMANDE 仏独和解)の文字が周囲を取り巻いています。このメダイヨンを嵌め込んだ記念碑は、ヴェルダン近郊のクレルモン=アン=アルゴンヌ(Clermont-en-Argonne グラン・テスト地域圏ムーズ県)をはじめ、いくつかの場所に建っています。
フィリップ・シャンボーはミニマリスティックな作風を特徴とします。1960年代を中心に展開したミニマリスム(仏 minimalisme)の思想は、バウハウスの流れを汲む建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デア・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe, 1886
- 1969)のレス・イズ・モア(英 "Less is more.")、すなわち「最小限に切り詰めた表現によって、より豊かな内容をあらわすことができる」という言葉に集約されています。
キリスト教神学の考えでは、神の本質(本性、属性)は無限に豊かであり、また神においてはあらゆる属性が不可分的に一体となっています。このことをスコラ学の用語で、神は「単純」である、あるいは「神は複合ではない」、といいます(トマス・アクイナス「神学大全」第一部第三問「神の単純性について」)。しかるに地上にある人間の知性は、物事を分析的に捉えることしかできません。したがって神の本性は人間の知性の認識能力をはるかに超えており、人間が神の本質を知ることは全く不可能です。人間は「神が存在し給う」ということ以外、神ご自身について何も知ることができません。神ご自身の本質、本性、属性そのものについて、人間の知性はその千億分の一も、千兆分の一も、無量大数分の一も、認識することはできないのです。
Le Corbusier, La chapelle Notre-Dame-du-Haut, 1954, Ronchamp
ミニマリスムは神学と無関係に生まれた美学上の思想ですが、「レス・イズ・モア」という考え方はキリスト教における神の観念と見事に一致します。そのためカトリック芸術においても、大は聖堂建築から小は信心具や小聖画まで、ミニマリスムの影響を受けた美しい作品群が制作されました。ミニマリスムに基づくキリスト教関係の作品は、1960年代の教会が流行に便乗したという以上に、思想の本質的な部分における一致ゆえに生み出されたものです。
伝統的デザインによる聖堂とミニマリスムに基づく聖堂は、神の栄光を表現するという目的を共有しつつ、その目的を達するのに、まったく正反対の方法を採っています。ロマネスクからバロックに至る各様式の聖堂と、ル・コルビュジエ(Le
Corbusier, 1887 - 1965)のロンシャン礼拝堂を比べれば、このことがよく理解できます。中世以来の伝統的聖堂建築、とりわけゴシック様式による諸聖堂において、聖堂の外観は石材の森のように華麗であり、聖堂内部は「目で見る聖書・聖人伝」であるステンドグラスや天井画、壁画、聖像で埋め尽くされています。古代のバシリカ式聖堂の場合、キリスト教信徒の質素な外面に隠された信仰の美しさを表現するため、聖堂の外観は質素です。しかしながら聖堂内部はモザイク等を使ってやはり華やかに装飾されています。これに対してロンシャン礼拝堂では、内側、外側のいずれにおいても豊穣なる単純さが追求され、ミニマリスティックな美を実現しています。
たいへん珍しいことに、本品は二十世紀半ばのフランスで制作された後、新品のまま保存されていた未販売品です。長い年月に亙って保管されているうちに、ところどころに細かいきずが生じていますが、突出部分を含めて摩滅はまったく見られず、この上なく良好な保存状態です。本品はお手持ちのチェーンの他、革紐やベルベットのリボンなどと組み合わせることができます。
フィリップ・シャンボーはバジリク・ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール内陣のカルヴェールをはじめ、カトリック信仰に基づく作品を多く制作しています。ジ・バルム社のためにも数点のメダイユを制作していますが、どの作品もたいへん美しい名品揃いです。ジ・バルムのメダイは
1960年代を中心にある程度の点数が作られたであろうと思われますが、蒐集家が手放さないためか、まったく手に入りません。私(広川)はフランス製メダイユを二十数年に亙って収集していますが、フィリップ・シャンボーの「ラ・レーヌ・ド・ラ・ペ」を目にするのは本品が初めてです。