ノートル=ダム・ド・ルーアン(Notre-Dame de Rouen ルーアン司教座聖堂ノートル=ダム)の大鐘、《ジャンヌ・ダルク》 の祝別を記念したメダイ。この大鐘は第二次世界大戦で失われました。
本品は大鐘《ジャンヌ・ダルク》を模(かたど)ったもので、鐘の表面には騎士の姿で軍旗を高く掲げて進軍するジャンヌ・ダルクが線刻されています。十六歳か十七歳の少女ジャンヌは、総重量二十キログラムに及ぶ十五世紀の甲冑を着けて馬に乗り、フルール・ド・リス(百合の花)をちりばめたフランスの軍旗をかかげて天上を見上げています。
本品の表面は平坦でなく、釣鐘の上部と下部が厚く、中間部が薄くなるように曲面を付けてあるので、メダイの表面を指先でなぞると、実物の鐘が有する曲面的な三次元性を髣髴させます。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。ジャンヌを描く線刻は古文書に後に描き込まれたイラストのように単純ですが、十分な精密さで彫られていることがわかります。
(上) 北フランスのルーアンに向けて、アヌシーのパカール社を出発する「ラ・ジャンヌ・ダルク」。アヌシーからルーアンまでは、直線距離でも 520キロメートル以上離れています。520キロメートルは、東海道本線の東京-京都間に相当します。当時の絵葉書より。
ノートル=ダム・ド・ルーアンの《ジャンヌ・ダルク》は 1914年から 1920年にかけて鋳造された重量二十トン、ヨーロッパ最大の大鐘でした。本品表(おもて)面の右下には、鐘を鋳造したアヌシー(Annecy ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)のメーカー、パカール(Paccard
Fondeurs)の名前が刻まれています。パカールは 1796年創業の老舗で、今日までに約十二万個の鐘を鋳造しています。
(上) 焼け落ちたノートル=ダム・ド・ルーアン。ルーアン空襲の翌日に撮影されたもの。ドイツのブンデスアルヒーフ(das Bundesarchiv 連邦文書館)に保存されている写真。
(下) 1944年6月6日、ノルマンディーに上陸するアメリカ軍。
1944年5月31日、六日後に迫ったノルマンディー上陸作戦に向けて、連合軍はルーアン市街に焼夷弾の雨を降らせました。司教座聖堂ノートル=ダムは焼け落ち、《ジャンヌ・ダルク》は八十五メートル下の地上に落下して破壊されてしまいました。奇しくも
5月 31日は聖女ジャンヌ・ダルクが火刑に処された日の翌日にあたります。
もう一方の面には、ジャンヌと同じ年代、すなわち十代半ばの少女マリア(聖母)が浮き彫りにされています。このメダイに聖母の姿が彫られているのは、ルーアン司教座聖堂(ノートル=ダム・ド・ルーアン)が聖母に捧げられているからです。
本品に彫られているのは、受胎を告知されたマリアの姿でしょう。突然家に入ってきた天使から受胎を告知されるという異常な状況にもかかわらず、少女マリアは動じることなく天使の言葉を受け容れ、「お言葉通りこの身に成りますように」と答えました。まっすぐに前を見て微笑みを浮かべながら神に祈るマリアの姿には、アブラハムやヨブにも勝るマリアの信仰が形象化されています。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。本品の実物を女性がご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品は九十年以上前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、保存状態は極めて良好です。特筆すべき問題は何もありません。
鐘を模(かたど)ったメダイは珍しく、立体的意匠は美しい三次元の曲線を描いています。本品は美しい工芸品であるとともに、第二次世界大戦で失われた大鐘ジャンヌ・ダルクの形見であり、二十世紀フランス史の貴重な実物資料となっています。