少女のコミュニオン・ソラネル(仏 communion sorenelle)を記念するマリアの銀無垢メダイ。フランスのコミュニオン・ソラネル(仏 communion sorenelle)は、十二歳になった少年少女が集団で受ける聖体拝領式で、ちょうどわが国の成人式のように、人生の大きな出来事のひとつです。
一見してわかるように、本品はアール・ヌーヴォー様式で制作されています。後で説明するように「アール・ヌーヴォーのメダイ」は数が少なく、本品はたいへん珍しい作例となっています。
メダイの表(おもて)面には、横顔にあどけなさが残る若きマリアの横顔が、柔らかなタッチの浮き彫りで表されています。「神の花嫁」として選ばれた若きマリアは、薄絹でできた花嫁のヴェールを被り、微かなほほえみを浮かべています。
伝統的な受胎告知画において、マリアは若い大人の女性として描かれます。しかしながらマリアが絵画に描かれる際の成熟した姿は、マリアの精神的成熟の形象化、すなわちアブラハムやヨブにも勝るマリアの信仰の可視的表現です。わが国でも昔は男女とも現代よりはるかに若い年齢で結婚しましたが、マリアが生きた二千年前のガリラヤでも事情は同じでした。天使ガブリエルから受胎を告知されたとき、マリアの年齢は十三、四歳であったと考えられています。
(下) Fra Angelico, "l'Annunciazione del corridoio Nord", 1442 - 1443, affresco, 321 x 230 cm, il Museo nazionale di San Marco,
Firenze
十六世紀後半から十七世紀前半にかけて活躍したマニエリスムの画家フランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco del Río, 1564 - 1644)は、ベラスケス(Diego Velázquez, 1599 - 1660)とアロンソ・カノ(Alonzo Cano, 1601 - 1667)の師にあたります。 パチェコの娘フアナ(Juana Pacheco, 1602 - 1660)はベラスケスと結婚しています。
美術の教育者でもあったフランシスコ・パチェコは、数冊の著書を著しました。そのうちの一冊、1649年にセビジャで出版された「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」("Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649)において、受胎告知を受ける少女マリアの年齢に関し、パチェコが論じている箇所を引用します。テキストは近世カスティジャ語で、日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った語は、ブラケット
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Sin poner a pleito la pintura del Niño en los brazos, para quien tuviere devoción de pintarla así, nos conformaremos con la pintura que no tiene Niño, porque ésta es la más común... | 両腕に幼子を抱く聖母を我々が描くのは、抱かれる幼子への信心ゆえである。[それゆえ聖母とともに]幼子を描くことに、我々は反対するわけではない。聖母は幼子を抱いて描かれる場合が最も多い。 | |||
Esta pintura, como saben los doctos, es tomada de la misteriosa mujer que vio San Juan en el cielo, con todas aquellas señales; y, así, la pintura que sigo es la más conforme a esta sagrada revelación del Evangelista, y aprobada de la Iglesia Católica, la autoridad de los santos y sagrados intérpretes y, allí, no solo se halla sin el Niño en los brazos, más aún sin haberle parido, y nosotros, acaba de concebir, le damos hijo... | [しかしながら]学識ある人々が知っているように、[単身の聖母を描いた]この絵は、福音記者聖ヨハネが天国で見(まみ)え、彼(か)のあらゆる印を有する神秘的な女性を描いたものである。それゆえ私が範とする絵は、福音記者に示されたこの聖なる啓示に最も合致しており、カトリック教会、諸聖人の権威、及び聖なる学者たちに是認されているのであって、両腕に幼子を抱いていないのみならず、未だ幼子を産んでいない。この女性は懐妊したばかりであり、我々は彼女に一人の息子を与えるのである。 | |||
Hase de pintar, pues, en este aseadísimo misterio, esta Señora en la flor de su edad, de doce a trece años, hermosísima niña, lindos y graves ojos, nariz y boca perfectísima y rosadas mejillas, los bellísimos cabellos tendidos, de color de oro; en fin, cuanto fuere posible al humano pincel. | それゆえに、いとも清らかなるこの神秘のうちにあって、最も美しい年齢である十三歳の聖母を描くことが必要なのである。十三歳の聖母は誰よりも美しい少女であり、その眼は澄んでいて軽はずみなところが無く、鼻と口は完璧な形である。頬は薔薇色で、最高に美しい髪は長く、金色であり、つまりは人間の筆で描ける限り[の美しさでなければならない]。 | |||
「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」 セビジャ、シモン・ファハルド書店 1649年 | "Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649 |
本品が制作されたのは二十世紀初頭のフランスであって、バロック期のスペインではありません。しかしながら浮き彫りで表現された少女マリアは、フランシスコ・パチェコが「その眼は澄んでいて軽はずみなところが無く、鼻と口は完璧な形である」と語るとおりの、《誰よりも美しい十三歳の少女》の横顔となっています。
(上) シャルル・ピレ作 「このパンを食べる者は永遠に生きる」 キリストから初聖体を受ける少女 アール・ヌーヴォーのブロンズ製メダイユ 51.7 x 37.4 mm フランス 十九世紀末から二十世紀初頭 当店の商品です。
聖霊によって身ごもり救い主の母となったマリアは、神の花嫁です。しかるにコミュニオン・ソラネルを受ける少女は、キリストの花嫁です。コミュニオン・ソラネルの際に少女たちが着る純白のドレスは、ローブ・ド・マリエ(仏 robe de mariée 花嫁衣裳、ウェディングドレス)に他なりません。
信仰深い聖母マリアはすべてのキリスト者の鑑(かがみ 手本)ですが、とりわけ聖母と同性の少女たちにとって、少女マリアは従うべき模範と考えられました。本品の浮き彫りにおいて、コミュニオン・ソラネルを受ける少女たちとほぼ同年齢の少女マリアは、祈りによって神と親しく対話しつつ、整った横顔に穏やかな表情を浮かべています。マリアはまっすぐ前方を見るマリアの目は、迷い無き信仰を表しています。本品にはコミュニオン・ソラネルを受ける少女たちが、神と隣人を愛する女性になるようにとの願いが籠められています。
十九世紀末から二十世紀初頭のヨーロッパを席捲したアール・ヌーヴォーは、日本美術から生まれた装飾美術の様式です。アール・ヌーヴォーはあらゆる分野を巻き込み、メダイユ彫刻も例外ではありません。しかしながら美術品としてのメダイユ彫刻がアール・ヌーヴォーの影響を強く受けたのに対して、メダイすなわち信心具としてのメダイユは、アール・ヌーヴォーの影響を全くと言ってよいほど受けませんでした。
ペンダントとしての使い方がメダイと共通する世俗のジュエリーは、アール・ヌーヴォーが花開いた主要分野のひとつです。信心具に関してみれば、カニヴェや石版による小聖画にはアール・ヌーヴォーが強く影響しています。それゆえメダイがアール・ヌーヴォーの影響を受けにくかったことは不思議に思えます。メダイという分野が装飾美術の流行に左右されにくいのかというと、そうとも言えません。アール・デコ様式のメダイは数多く作られているからです。
筆者(広川)が考えるに、第一次世界大戦以前のフランスは未だ世俗化が進んでいなかったゆえに、信心具の分野には保守的な力が強く働き、メダイの意匠が伝統から逸脱するのを防いだのでしょう。信心具のメダイは世俗のジュエリーの工房ではなく、多くの場合、信心具専門の工房で制作されていたことも、メダイがアール・ヌーヴォーに影響されにくかった理由であろうと思われます。これに対してカニヴェは、アール・ヌーヴォーに影響される度合いが版元によって大きく異なり、ブアス=ルベル(Bouasse-Lebei)、ドプテ(Dopter)、ラマルシュ(Lamarche)にアール・ヌーヴォーの影響が見られる一方、シャルル・ルタイユとブマール(Charles
Letaille et Boumard)、バセ(Basset)、ボナミ(Bonamy)をはじめとする他の版元にアール・ヌーヴォーの影響は伺えません。石版小聖画についても同様で、アール・ヌーヴォーに影響される度合いは版元によって異なります。
要するに、第一次世界大戦以前のフランスでは社会の世俗化が進んでいなかったゆえに、信心具のメダイは日本美術とアール・ヌーヴォーの影響を受けなかったのです。第一次世界大戦後にフランス社会の世俗化が進むと、信心具においても伝統的意匠の強制力は弱まり、アール・デコ様式のメダイが盛んに作られるようになります。
本品の制作年代は第一次世界大戦よりも以前と考えられますが、メダイの形状は左右非対称で、アール・ヌーヴォーの植物文に囲まれています。これは世俗の流行を大胆に取り入れた意匠であり、二十世紀初頭の信心具にはたいへん珍しい作例です。本品は受胎告知の聖母をモティーフにしつつも、ビジュ(仏
bijou ジュエリー)の性格が強い品物です。本品を十字架に譬えれば、コルプス(キリスト像)が付いたクルシフィクスではなく、クロワ・ジャネットをはじめとするクロワ・ド・クゥと同様に位置づけられます。
本品の上部に突出した環には、フランスにおいて純度 800/1000の銀を示す「イノシシの頭」のポワンソン(ホールマーク)が刻印されています。銀は信心具に使われる最も高級な素材で、ふつうはブロンズ製メダイのめっきに使われます。第一次世界大戦前のヨーロッパは貧富の差が極端に大きく、銀無垢製品は普通の人々にとってなかなか手に入れることができない高価な品物でした。この時代の銀無垢メダイは、小さく薄い作例がほとんどです。しかるに本品は突出部分を除く直径が二十四ミリメートルとかなり大きなサイズで、ある程度の厚みもあります。
第一次世界大戦以前のフランスでは未だ世俗化が進まず、新生児の洗礼に始まって葬儀に至るまで、人々はカトリック教会に庇護されて人生の各段階を通過しました。コミュニオン・ソラネルは一人前のカトリック信徒になる儀式ですが、それはすなわち一人前の若者として社会から認められるということでもありました。フランスの少女にとって、コミュニオン・ソラネルは一生に一度の特別な機会であったのです。めっきではない銀無垢の本品には、少女のこれからの人生に幸多かれと祈る両親の愛が籠められています。
本品はほとんど使用されずに数十年に亙って大切に保管された品物で、突出部分にもまったく摩滅が見られません。聖母の浮き彫りには全面に微細な疵(きず)が付いていますが、この程度の疵は長い間の保管中に付いても不自然ではありませんし、メダイの制作工程で付いた疵のようにも見えます。通常ならば裏面に彫られているはずの名前と日付が無く、長期間に亙って衣服と擦れ合った様子も無いので、未販売のまま残っていた新品かもしれません。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真よりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品はおよそ百年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い品物にもかかわらず保存状態は極めて良好で、細部に至るまで制作当時の状態を留めています。
メダイユ彫刻はフランスが誇る芸術分野の一つです。本品は日常生活の中にカトリック信仰が生きていた古き良きフランスの薫りを今に伝えるとともに、本格的美術品の水準にありながら日々身に着けることができる美しいペンダントとなっています。