聖マドレーヌ(マグダラのマリア)の美しいメダイ。およそ百年前のフランスで制作された作品で、メダイユ彫刻が発達したフランスならではの、非常に精緻な浮き彫りが施されています。
フランスの伝承によると、マグダラのマリアはマリア・ヤコベ、マリア・サロメとともに帆も櫂も無い舟に乗り、パレスチナを脱出してカマルグに上陸しました。マリア・ヤコベとマリア・サロメは侍女サラと共にカマルグに残り、マグダラのマリアはサント・ボーム山塊に入って洞窟に居を定め、いずれも残りの生涯を祈りに捧げました。
この作品において、マリアは隠修生活を送る洞窟の中にいます。洞窟の開口部は背景の向かって右側に見えています。マリアは敷物も敷かず、脚も裸足のまま、硬く冷たい岩の上に跪(ひざまず)き、組み合わせた両手を悔恨に振り絞っています。束ねることもなく無造作に伸ばした髪は美しい艶と輝きを失っていませんが、マリアは髑髏(どくろ)を前に地上の生の儚さを思い、十字架上に受難し給うたイエスの愛に包まれて、神との対話に沈潜しています。
マリアの背後に置かれているのは、ナルドの香油を入れた壺です。キリスト教の伝統的イコノグラフィーにおいて、「ナルドの香油の壺」は、マグダラのマリアのアトリビュート(聖人を判別する印)となっています。
マリアの前に置かれた髑髏は、ラテン語で「メメントー・モリー」(MEMENTO MORI) と呼ばれる図像です。「メメントー」(MEMENTO) は、ラテン語の不完全動詞「メーミニー」(MEMINI, -ISSE 「おぼえている」「忘れずにいる」)の命令形、詳しく言えば命令法未来能動相三人称複数という形で、「人々は今後も憶えていよ」「皆は忘れることが無きようにせよ」という意味です。「モリー」はラテン語の形式所相動詞「モリオル」(MORIOR, MORI, MORTUUS SUM 「死ぬ」)の不定詞、詳しく言うと不定法現在形で、「死ぬこと」という意味です。したがって「メメントー・モリー」は、「自分がいつかは死ぬということを、誰も忘れることがないようにせよ」という意味です。
洞窟の入り口付近にルイ・トリカールの署名 (TRICARD) があります。ルイ・トリカール (Louis Tricard) は20世紀初頭のフランスで活躍したメダイユ彫刻家で、さまざまなサイズの美しいメダイユ作品を制作しています。トリカールが制作した小品メダイユは人間業とは思えないほど細密でありながら、物理的な小ささを感じさせず、神に向かう大きな精神性、深い宗教性に満ちているのが特徴です。トリカールによる小品メダイユを、本品以外に二点、紹介いたします。
(下) ルイ・トリカール作 「茨の冠を被るシエナの聖カタリナ」 直径 15.1 mm フランス 19世紀末から20世紀初頭 当店の商品です。
(下) ルイ・トリカール作 「聖アンドレアス」 直径 15.2 mm フランス 19世紀末から20世紀初頭 当店の商品です。
マグダラのマリアをテーマにした本品においても、トリカールの優れた芸術性と驚くべき職人的技量は遺憾なく発揮されています。下の写真に写っている定規のひと目盛は
1ミリメートルです。マリアの姿は生身の若い女性さながらに写実的で、多くの男性たちを虜にした魅力的な体つきが粗衣の下に隠されていることもよくわかりますが、跪くマリアの高さは
9ミリメートルに過ぎません。マリアの顔は髑髏や香油の壺と同様、2ミリメートル弱の極小サイズですが、美しく整った顔立ちからは悔恨と敬虔、神とイエスへの愛と感謝が読み取れます。跪けば地面に触れるほどに伸びたマリアの髪、流れるような衣の襞も、大型彫刻にまったく劣らない自然さで表現されています。
マリアの後光には高さ 0.5ミリメートルほどの文字が刻まれています。クリーニングすれば判読できるかもしれませんが、長い歳月をかけて獲得されたパティナ(古色)を損なうといけませんので、手を触れませんでした。
このメダイはおよそ百年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、保存状態は良好で、細部までよく残っています。拡大写真では突出部分の磨滅が判別可能ですが、肉眼で見ると十分に美しい作品であり、重厚なパティナ(古色)が銀色のメダイに落ち着いた趣きを与えています。フランスにおいて極度に発達したメダイユ彫刻の技術が、小さな画面に遺憾なく発揮された名品です。