南仏プロヴァンスにあるラ=サント=ボームの荒野で禁欲の生活を送るマグダラのマリアのメダイユ。数十年前のフランスで制作され、販売されずに残っていた未使用品です。
表(おもて)面に浮き彫りにされた聖女マグダラのマリアは、左手に十字架を持ち、右手を心臓のあたりに当て、瞑目しつつ祈りを捧げています。ヴェールで被われていない長く豊かな髪は、マグダラのマリアのアトリビュート(英 attribute 聖人を同定するための図像学的特徴)です。メダイ下部の縁に近い部分にフランス(FRANCE)の文字、その右隣にメダイユ彫刻家ブイのサイン(Bouix)が彫られています。
聖女の周りにはラテン語でサンクタ・マグダレーナ(羅 SANCTA MAGDALENA 聖マグダレーナ)と記されています。聖マドレーヌ(マグダラのマリア)の名前はマリアですが、出身地あるいは居住地であるマグダラ(希
Μαγδᾱλά)の名を取ってマグダレーネー(希 Μαγδαληνή)すなわちマグダラの女とも呼ばれます。マグダレーネーをラテン語式に表記するとマグダレーナ(羅
MAGDALENA)になります。
現代人はみな教育を受けていますから、抽象的思考や高度な精神生活は当たり前のことと感じられます。しかるに西ヨーロッパ中世の社会には教育制度が無かったので、当時の庶民にとって信仰が内面化されることなど望むべくもありませんでした。信仰とは内面の問題ではなく、目に見える聖遺物を拝みに各地の修道院や聖堂を訪れることでした。それゆえ各地の修道院や教会は聖人の遺体をはじめとする聖遺物を奪い合い、ときには捏造(でつぞう 捏ち上げ)も辞しませんでした。
ブルゴーニュのヴェズレー(Vézelay)は古く美しい町で、リモージュとペリグー (Perigueux) を経由してサンティアゴ・デ・コンポステラに向かう道(羅 VIA LEMOVICENSIS)の起点とされます。1037年、ヴェズレーのクリュニー会修道院院長に着任したジョフロワ(Geoffroy 在職 1037 - 1050)は、当時西ヨーロッパで関心が高まっていたマグダラのマリアに着目し、この聖女への信心を喧伝することで多くの巡礼者を集めることに成功しました。巡礼者たちはヴェズレーにあると思われたマグダラのマリアの聖遺物(遺体)を拝みに、クリュニー会修道院に殺到したのです。
(上) ヴェズレー 聖マリ=マドレーヌのバシリカ La Basilique de Sainte-Marie-Madeleine, Vézelay
聖マドレーヌ(マグダラのマリア)はガリラヤ湖畔のマグダラという町の人であったゆえにこの名前で呼ばれます。ガリラヤの聖女の遺体がブルゴーニュにあるのはたいへん不思議なことですが、十一世紀中ごろの段階では、どのような事情で聖女の遺体がヴェズレーにあるのかということに関して具体的な説明は未だ考え出されていませんでした。この問題に関して、この頃成立した聖人伝には「神にはあらゆることが可能である」としか書かれていません。
やがてヴェズレー修道院は聖女たちのカマルグ上陸とサン=マクシマンからの移葬(聖物盗掠 SACRA FURTA)の物語を案出しました。そして最終段階、すなわち十二世紀後半に成立したヴェズレー修道院の公式年代記においては、サン=マクシマンにマグダラのマリアの遺体があると知ったヴェズレー修道院長とルシヨン伯ジラールがバディロンという修道士を派遣し、この修道士が危険を冒して遺体を盗み出したということになりました。当時誰もが知っていたジラール・ド・ルシヨン伝説を移葬の物語に絡めて物語性と信憑性を高めたこの説明は、カリクストゥス本("CODEX CALLIXTUS")とも呼ばれる「聖ヤコブの書」("LIBER SANCTI IACOBI")、及びヤコブス・デ・ヴォラギネの「レゲンダ・アウレア」 ("LEGENDA AUREA") にも採用されました。
その後 1265年に聖遺物の検認が行われた際、修道院付属聖堂の地下に安置された棺からマグダラのマリアの名前を記した書類が見つかり、ヴェズレーの聖遺物(頭蓋骨)が確かにマグダラのマリアのものであると確認されました。フランス国王ルイ九世は 1254年、サント・ボームに巡礼し、 1267年にはヴェズレーで聖女の遺体の移葬式に参列しました。
ところが 1279年に大事件が起こります。ヴェズレーにあるマグダラのマリアの聖遺物は、もともとサント=ボームの聖堂サン=マクシマンから移葬したものとされていました。しかし 1279年、ナポリ王シャルル二世(Charles II d'Anjou, 1254 - 1309 ルイ九世の甥)の命によりサント=ボームにドミニコ会修道院が設立された際に、非常に古い地下礼拝堂が見つかり、ここでマグダラのマリアの遺体が発見されたのです。聖女の遺体と同時に、由来を記した書類が見つかりました。それによると、イスラム教徒による破壊を恐れて、サント=ボームの人々は聖女の遺体を別人の遺体とあらかじめすり替えていたのでした。今回見つかったのが真正の聖女の遺体であって、ヴェズレーの修道士が当地から盗み出したと主張する遺体は替え玉だったということになります。聖女の遺体が発見されるや否や、サン=マクシマンでは奇跡が続発して、その真正性を裏付けました。
(上) ラ・サント=ボーム 岩穴の内部 フランスの古い絵葉書 中性紙にコロタイプ 140 x 88 mm 当店の商品
こうしてマリ=マドレーヌ(マグダラのマリア)崇敬の中心はプロヴァンスに移りました。ラ・サント=ボーム(La Sainte Baume)とは聖なる洞窟という意味で、崖のように切り立った岩山の高所に、マグダラのマリアが三十年間を過ごしたと伝えられる洞窟があります。洞窟の幅は二十四メートル、奥行きは二十九メートル、高さは四ないし六メートルで、ドミニコ会が管理しています。マグダラのマリアの墓所は洞窟から近いサン=マクシマン=ラ=サント=ボーム(Saint-Maximin-la-Sainte-Baume)の聖堂、ラ・バジリク・サント=マリ=マドレーヌ(La
Basilique Sainte-Marie-Madeleine マグダラのマリアのバシリカ)にあります。
洞窟や荒れ地にいるマグダラのマリアの姿は、小聖画やメダイによく登場します。信心具に描かれるマグダラのマリアは、ほとんどの場合、悔恨の涙を流しています。しかしながら本品メダイに浮き彫りにされたマグダラのマリアは、幸福そうな微笑みを浮かべています。これはなぜでしょうか。
2001年当時、ヴァティカンの正義と平和評議会議長であったフランシスコ・トゥアン枢機卿は、「5つのパンと2ひきの魚」(女子パウロ会 ISBN978-4-7896-0627-1)という著書の中で、1975年12月から九年間にわたり、共産主義政権によって再教育強制収容所に監禁された時のことを書いておられます。当時四十八歳で仕事熱心な司教であったトゥアン師は、自分の教区から千七百キロメートルも離れた収容所の独房に閉じ込められ、主の仕事に携われない境遇を嘆きました。しかしながらある晩、師は「主の仕事」と「主ご自身」は同じでないことに気づきます。主が師を用いるのではなく、ご自分で仕事をなさろうと決められたのであれば、主に全てを委ねるべきだということに気付いたのです。主の仕事ではなく、主ご自身を選んだ時、師の心は焦りではなく平和に満たされて、十三年間の獄中生活を安らいだ気持ちで送ることができました。
「ルカによる福音書」十章三十八節から四十二節には、これと同様の教えが説かれています。イエスがマルタとマリアの家を訪れ給うたとき、マルタは主をもてなすために忙しく立ち働いていましたが、マリアは主の足元に座って話に聞き入っていました。マリアに注意していただくようマルタがイエスに願ったところ、主は「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃいました。
「ルカによる福音書」七章三十六節から五十節には、イエスがファリサイ派の人の家に入って食事をしておられたとき、一人の罪深い女が入ってきてイエスの足を涙で濡らし、髪でぬぐい、接吻して、香油を塗った出来事が記録されています。教父たちの意見とカトリック教会の伝統的見解にしたがえば、この女はマグダラのマリアであり、彼女の罪深さとは性的放縦を意味します。当時のユダヤ社会では、「申命記」二十二章二十二節から二十五節の規定により、婚姻外の性交は石打ちの死刑で罰せられることになっていました。しかしイエスは「大きな借金を帳消しにしてもらった人と小さな借金を帳消しにしてもらった人では、どちらの感謝の気持ちが大きいか」とファリサイ人シモンに問いかけられ、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」とおっしゃいました。
(上) Pieter Paul Rubens, The Deposition (details), 1602, oil on canvas, 180 x 137 cm, Galleria Borghese, Rome
このときイエスがおっしゃったとおり、マグダラのマリアはイエスを心から愛して、受難の時も、墓に葬られた時も、最後まで離れませんでした。フランス語には、マドレーヌのように泣く(仏
pleurer comme une Madeleine)という成句があります。主が受難して亡くなったとき、そしてその遺体が墓に見当たらなかったとき、マリアはどれほど泣いたことでしょうか。主が復活されてマリアに現れても、彼女は主とは気付かずに泣き続けていたのです。「ヨハネによる福音書」二十章十一節から十八節を引用いたします。原テキストははネストレ=アーラント二十六版、日本語は新共同訳によります。
11. | Μαρία δὲ εἱστήκει πρὸς τῷ μνημείῳ ἔξω κλαίουσα. ὡς οὖν ἔκλαιεν παρέκυψεν εἰς τὸ μνημεῖον, | マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 | ||||
12. | καὶ θεωρεῖ δύο ἀγγέλους ἐν λευκοῖς καθεζομένους, ἕνα πρὸς τῇ κεφαλῇ καὶ ἕνα πρὸς τοῖς ποσίν, ὅπου ἔκειτο τὸ σῶμα τοῦ Ἰησοῦ. | イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 | ||||
13. | καὶ λέγουσιν αὐτῇ ἐκεῖνοι, Γύναι, τί κλαίεις; λέγει αὐτοῖς ὅτι ἦραν τὸν κύριόν μου, καὶ οὐκ οἶδα ποῦ ἔθηκαν αὐτόν. | 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 | ||||
14. | ταῦτα εἰποῦσα ἐστράφη εἰς τὰ ὀπίσω, καὶ θεωρεῖ τὸν Ἰησοῦν ἑστῶτα, καὶ οὐκ ᾔδει ὅτι Ἰησοῦς ἐστιν. | こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 | ||||
15. | λέγει αὐτῇ Ἰησοῦς, Γύναι, τί κλαίεις; τίνα ζητεῖς; ἐκείνη δοκοῦσα ὅτι ὁ κηπουρός ἐστιν λέγει αὐτῷ, Κύριε, εἰ σὺ ἐβάστασας αὐτόν, εἰπέ μοι ποῦ ἔθηκας αὐτόν, κἀγὼ αὐτὸν ἀρῶ. | イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 | ||||
16. | λέγει αὐτῇ Ἰησοῦς, Μαριάμ. στραφεῖσα ἐκείνη λέγει αὐτῷ Ἑβραϊστί, Ραββουνι {ὃ λέγεται Διδάσκαλε}. | イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 | ||||
17. | λέγει αὐτῇ Ἰησοῦς, Μή μου ἅπτου, οὔπω γὰρ ἀναβέβηκα πρὸς τὸν πατέρα: πορεύου δὲ πρὸς τοὺς ἀδελφούς μου καὶ εἰπὲ αὐτοῖς, Ἀναβαίνω πρὸς τὸν πατέρα μου καὶ πατέρα ὑμῶν καὶ θεόν μου καὶ θεὸν ὑμῶν. | イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 | ||||
18 | ἔρχεται Μαριὰμ ἡ Μαγδαληνὴ ἀγγέλλουσα τοῖς μαθηταῖς ὅτι Ἑώρακα τὸν κύριον, καὶ ταῦτα εἶπεν αὐτῇ. | マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 | ||||
Κατά Ιωάννην, 20:11 - 18 , N-A 26 Auflage | 「ヨハネによる福音書」 二十章十一節から十八節 新共同訳 |
マリアはイエスに話しかけられても気づかないほどに動転し、目は涙で曇っていました。イエスが「マリア。」と呼びかけ、マリアが「ラボニ!」と答える場面を読むと、筆者(広川)は涙が出ます。最愛の人をふたたび見出したマリアは、瞬時にしていかに大きな幸せに抱かれたことでしょうか。
(上) Tiziano Vecelli, Noli Me Tangere, 1511 - 12, oil on canvas, 101 x 91 cm, National Gallery, London
墓の前でマリアに声をかけ給うたとき、「先生!」と叫んですがりつこうとするマリアを、イエスは押し止められました。このときイエスが触れ給うたと伝承されるマリアの額の皮膚は、聖遺物ノーリー・メー・タンゲレ(羅
NOLI ME TANGERE 我に触れるな)として、ラ・バジリク・サント=マリ=マドレーヌの地下聖堂に安置されています。イエスが「わたしにすがりついてはいけない」とおっしゃったのは、ご自身がまだ父の許に戻っておられないからでした。とすれば、マリアは天に上げられれば、愛するイエスに好きなだけ寄り添えるのです。
本品メダイのマリアは愛の座である心臓に手を当て、恐ろしい十字架を手にしつつも微笑んでいます。本品のマリアが微笑んでいるのは、誰よりも愛したイエスが復活し給い、いつも離れず一緒にいてくださるからです。マリアは最愛のイエスが死に打ち勝ち給うたこと、マリア自身もイエスに救われ、天にゆけばふたたびイエスに寄り添えることを、今や確実に知っています。かつて泣いてばかりいたマリアの涙は乾いて、口元には幸せな微笑みが浮かんでいます。
マグダラのマリアが他の誰よりも深くイエスを愛したことは、外典福音書を引くまでもなく、正典福音書にもしっかりと記録されています。「レゲンダ・アウレア」によると、サント=ボームにおけるマリアはイエスが与えてくださる天の食物以外口にしませんでした。プロヴァンスの荒れ地において、マリアはひたすらイエスを想い、イエスへの愛に生きていたのです。「レゲンダ・アウレア」の内容は大体において荒唐無稽ですが、地上のマリアがイエスにのみ活かされていたことを示す「天の食物」の記述は、現代人にとっても胸を打つものとなっています。
上の写真は本品を男性店主の手に載せています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品の制作年代は比較的新しいですが、意匠の背景となった福音書は二千年前、マリ=マドレーヌ(マグダラのマリア)の渡海伝説は千年近く前に遡り、ヨーロッパ文明とフランス文化の厚みに支えられてはじめて産まれ得た作品であることがお分かりいただけます。愛と聖性の微光に包まれるマリ=マドレーヌの浮き彫りは、柔らかでありつつ古典的でもあり、小さくとも格調高い美術工芸品に仕上がっています。
本品は数十年前のフランスで制作されたメダイユですが、未販売のまま保管されていた未使用品で、保存状態は極めて良好です。半艶消し処理を施されているために、本品メダイが発する柔らかな光はあくまでも上品であり、時と場所を選ばず日々ご愛用いただける品物となっています。