マルグリット=マリ・アラコック (Ste. Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690) が 1864年に列福されて以来、フランスではキリストの聖心にフランスを奉献する「悔悛のガリア」(Gallia poenitens) の運動が国民的規模で盛んに推進されました。マルグリット=マリは 1920年5月13日、ベネディクトゥス十五世によってヴァティカンで列聖されました。本品は1920年の列聖記念メダイと思われ、高い芸術性と稀少性を兼ね備えます。
一方の面には聖心を示すキリストの半身像を浮き彫りにしています。キリストは左手で衣の前を開き、右手で愛に燃える聖心を指し示しています。両手にある生々しい傷は、受難の際の釘によるものです。茨に巻きつかれて血を流すイエスの聖心は、あまりにも激しい愛ゆえに、炎を噴き上げて燃えています。聖心から発出するまばゆい光は、神の愛と智恵、すなわち神そのものの象徴です。メダイ上部の環に、製造国を表す「フランス」(FRANCE)の文字が見えます。
イエスの後光の内部には、カドリロブ(仏 quadrilobe 四つ葉型)と方形を組み合わせた意匠が見られます。この意匠はゴシック及びルネサンス期の建築物に多用され、パリ司教座聖堂ノートル=ダム南翼廊の梁に見られるのが最初の作例(1260年頃)と考えられています。フィレンツェ司教座聖堂サンタ・マリア・デル・フィオレの聖ジョヴァンニ洗礼堂(Battistero di San Giovanni)南扉に、1330年から 1336年にかけてアンドレア・ピザーノ(Andrea Pisano)が制作した浮き彫りは、この意匠で装飾された作例としてよく知られています。
しかるにこの意匠はイエスの後光に表されることがあり、その際には単なる装飾を超えた意味を有します。すなわちイエスの後光は他の聖人の後光と異なり、十字架と組み合わせた意匠になることが多くあります。しかるに同形同サイズの四枚の葉を持つカドリロブは、同じ長さの縦木と横木が直交するギリシア十字に比することができます。したがって後光にあしらわれたカドリロブは、一見したところ装飾的でありながら、十字架の変形に他ならないと考えられます。
十字架刑は最大限の汚辱と苦痛に満ちた刑であり、ローマ帝国の市民ではない凶悪犯に限って適用されました。王として降誕し、東方三博士の礼拝を受け給うたメシア(救い主、キリスト)が、十字架上に刑死することにより救世を達成し給うたことは、キリスト教最大のミステリウムです。キリストの十字架は人知を絶する神の愛が可視化した出来事に他ならず、これを意匠に取り入れたキリストの後光は、聖と愛がレアリテルに(羅 REALITER 物として)融合した神の有り様(よう)を表しています。
上部に十字架を突き立てられ、茨に巻きつかれて血を流すイエスの聖心は、あまりにも激しい愛ゆえに、炎を噴き上げて燃えています。聖心から発出するまばゆい光は、神の愛と智恵、すなわち神そのものの象徴です。
古来心臓は生命の座と考えられ、ユダヤ=キリスト教においては神と繋がる「霊の座」「信仰の座」と看做されました。。「詩篇」五十一篇十九節、及び「エゼキエル書」三十六章二十六節において、心臓を「霊」と同一視する修辞的表現が為されています。「詩篇」五十一篇十九節と「エゼキエル書」三十六章二十六節を、コイネー・ギリシア語による七十人訳、及び新共同訳によって引用します。なおこれらの箇所で新共同訳が「心」と訳しているギリシア語カルディア(希
καρδία)は、「心臓」が本義です。
七十人訳 | 新共同訳 | |||||
「詩篇」 51: 19 | θυσία τῷ Θεῷ πνεῦμα συντετριμμένον, καρδίαν συντετριμμένην καὶ τεταπεινωμένην ὁ Θεὸς οὐκ ἐξουδενώσει. (PSALMI L 19) | しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。 | ||||
「エゼキエル書」 36: 26 | καὶ δώσω ὑμῖν καρδίαν καινὴν καὶ πνεῦμα καινὸν δώσω ἐν ὑμῖν καὶ ἀφελῶ τὴν καρδίαν τὴν λιθίνην ἐκ τῆς σαρκὸς ὑμῶν καὶ δώσω ὑμῖν καρδίαν σαρκίνην. (Ezechielis XXXVI 26) | わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 |
キリスト教では、被造物との類比を手掛かりに理解されうる神の諸属性のうち、人間との関係においては愛が最も強調されます。したがってキリストの心臓、聖心は、端的に言えば、神の愛の可視的象徴に他なりません。本品に浮き彫りにされたキリストは、こちらをまっすぐに見つめ給い、神の愛と救いを受け入れるかどうかを見る者に問いかけておられます。
ジャンヌ・ダルクのメダイ 1920年 当店の商品です。
メサジュリ・マリチーム社 (MM) 百周年記念メダイユ 1951年
ティプ・ラヴリリエ 1947年
本品にはメダユール(仏 médailleur メダイユ彫刻家)の署名が刻まれていませんが このキリスト像はアンドレ・アンリ・ラヴリリエ(André
Henri Lavrillier, 1885 - 1958)の作品です。上の写真はいずれもアンドレ・アンリ・ラヴリリエによる作品です。ラヴリリエは様々な分野でも広く活動した芸術家で、世俗のメダイユや貨幣彫刻にも才能を発揮しています。三枚目の写真は
1933年から1952年まで発行されたフランス共和国の五フラン貨で、この硬貨は「ティプ・ラヴリリエ」(仏 type Lavrillier)と呼ばれています。
しかしながら筆者(広川)の見るところ、ラヴリリエはカトリックのメダイユ彫刻で最も丁寧な仕事をしています。上に示した最初の参考写真は本品と同じ
1920年に制作されたジャンヌ・ダルクの列聖記念メダイで、サイズも同じです。ラヴリリエの正確で精密な仕事ぶりは、ジャンヌ・ダルクのメダイの横にあるリンクをクリックすればお分かりいただけます。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは一ミリメートルです。イエスの顔は縦三ミリメートル、横二ミリメートルの範囲に収まりますが、目、鼻、口、ひげなど各部分が正確に彫られ、たいへん整った顔立ちです。顔髪の流れやひげの描写も見事で、手触りさえ感じられそうです。手のサイズは二、三ミリメートルほどですが、一本一本の指と関節が正確に再現されています。縦横一ミリメートル余りの心臓(聖心)に極小の十字架が突き立てられ、茨の冠が巻き付いています。
もう一方の面には、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院礼拝堂で、祭壇上の聖体顕示台に向かって跪くマルグリット=マリと、聖女に出現したキリストを浮き彫りにしています。脱魂状態に陥ったマルグリット=マリは祈祷書を取り落とし、他の人々の目には見えないキリストを仰いで恍惚の表情を浮かべています。浮き彫りを取り巻くように、次の言葉がフランス語で刻まれています。
Voici ce Cœur qui a tant aimé les homes. 見よ、この聖心(みこころ)、斯(か)くも人を愛し給へり。
フランス語ヴォワシ(voici)はプレザンタティフ(仏 présentatif 提示詞)と呼ばれる副詞の一種ですが、これはもともと「ヴォワ・イシ」(古仏
voi ici ここを見よ)が縮約された語ですので、「見よ」と訳しました。ちなみにギリシア語イドゥー(希 ἰδοὺ)も提示詞で、しばしば「見よ」と訳されますが、イドゥーもエイドマイ(希
εἴδομαι 見る)のアオリスト中動相命令形です。
神秘思想家の常として、マルグリット=マリはほとんど日常的といえるほどに神との交感を経験し、修道院長や司祭に命じられて書き残した記録では、それら数多くの体験を「神が私に現れ給うた」と表現するのが常でしたが、なかでも 1673年12月から 1675年6月までの一年半の間に、三度の大きなアパリシオン(仏 apparitions 出現)を体験しました。これら三度の大きなアパリシオンにおいて、聖心あるいはキリストは、聖心への信心をフランスに広めるよう、マルグリット=マリに命じています。これら三度の大きなアパリシオンのうち、1674年に起こった二度めのアパリシオンでは「キリスト」が出現した、とマルグリット=マリ自身が書き遺しています。
三度の大きなアパリシオンのうち、どの出来事が本品の浮き彫りにされているのか不明ですが、本品の浮き彫りは二度めのアパリシオンに関する記述に従い、幻視された神がキリストの姿で表されています。強烈な光輝に包まれたキリストの姿も、二度めのアパリシオンに関する聖女の記述に拠ります。聖体顕示台と重なるように出現したキリストは、聖女を真っ直ぐに見つめて胸元を開き、全方向に愛の炎を噴き上げる聖心を示しています。修道衣の聖女はキリストの愛に応えて両腕を広げ、全身全霊を救い主に捧げています。キリストと修道女マルグリット=マリの後方には、修道院付属礼拝堂内を修道女席と一般信徒席に区切る格子が見えています。
(下) パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院付属礼拝堂。向かって右に格子が見えます。ガラスの棺にはマルグリット=マリが安置されています。
修道院内のミサを写実的に表すならば、修道女は格子の向こう側にいるはずで、マルグリット=マリが一般信徒側に描写されている点は史実と異なります。しかしながらもしも史実通りに描写すれば、マルグリット=マリとキリストのいずれかが格子の反対側に退いてしまい、目立たなくなってしまいます。彫刻家はこの作品において、聖女を「聖心の使徒」として大きく採り上げたかったのであり、その目的を実現するために、事実に芸術的改変を加えています。
宗教的メダイユ彫刻の目的は歴史上の出来事の表面的な記録を残すことではなく、むしろ救済史の経綸を可視化することですから、出現した神の姿や聖人の立ち位置が実際の通りでなかったとしても、それらの意図的な改変はメダイユの芸術性の証明でこそあれ、決して欠点ではありません。そもそも神秘家が経験する幻視とは純粋に内的な経験であり、神的存在が物質化して三次元空間に出現するというようなことではありませんから、芸術家がこれを可視化、図像化した時点で、事実の改変はすでに行われています。
(下) 格子越しにミサに与(あず)かるマルグリット=マリ。祭壇の上方に聖心が出現し、聖女を照らしています。祭壇の前に立つ司祭は、イエズス会のクロード・ド・ラ・コロンビエール神父(St.
Claude de la Colombière, 1641 - 1682)です。ド・ラ・コロンビエール神父はマルグリット=マリの霊的指導者を務めました。
フランスの古い絵葉書
ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel, 1858 - 1918)は、1957年に刊行された「橋と扉 ― 歴史、宗教、芸術、社会に関する哲学の随筆集」(„Brücke und Tür, Essays des Philosophen zur Geschichte, Religion Kunst
und Gesellschaft“, im Verein mit Margarete Susmann herausgaben von Michael Landmann, K.
F. Koehler Verlag,Stuttgart, 1957)において、キリスト教美術を古典古代の美術と対比し、描写される人物が他者との関係においてこそ意味を成すのがキリスト教美術の特徴である、と指摘しています。ジンメルによると、キリスト教美術が持つこの特性ゆえに、彫刻よりも絵画のほうがキリスト教美術にふさわしい表現形式です。なぜならば、古典古代の美術に見られるように、彫刻はその作品単体で自足し、他者を必要としません。これに対して絵画はひとつの画面に複数の人物を描くことが可能であって、他者との関係性を重視するキリスト教美術の本質は、そのような作品においてこそ顕れ得るからです。
キリスト教美術の本質に関するジンメルの考えは、いかにも人間の社会性を重視した哲学者にふさわしいものですが、単体での表現が目立つ古典古代の彫像と、群像が多いキリスト教美術の作品を対比し、それぞれの宗教の在り方が表現様式の違いを生み出しているという主張には、強い説得力を感じます。ジンメルに従って考えれば、本品はキリスト教美術の特質がよく顕れた作例といえます。なぜならば本品はキリストと聖女を単に空間的に近接させているだけではなく、二人の人格的つながりを明確に表現しているからです。他宗教の美術、たとえば興福寺西金堂に安置されていた釈迦如来像と乾漆八部衆立像を思い浮かべれば、キリスト教美術を特徴づける社会性あるいはエクレシア性は明らかです。キリストと交感する聖女を表現した本品は、「絵画的彫刻」である浮き彫りによって、「描写される人物が他者との関係において意味を成す」というキリスト教美術の特性を最大限に活かし、《キリストの神秘体》(羅 MYSTICUM CORPS CHRISTI)であるエクレシアの在り様(よう)を分かり易く視覚化しています。
キリストの幻視はマルグリット=マリがあくまでも内的に体験した出来事であって、キリストが物質化して出現したわけではありません。それにもかかわらず本品の浮き彫りは、キリストを自然主義的人像として描いています。内的に体験されたキリストを可視的人像に置き換えて表現する理由は、世俗的で霊性が低い人、すなわち非言語的宗教体験の神秘性を解しない人を、作品の鑑賞者として想定しているからでしょう。もしそうであるならば、神秘体験を可視的に描写する本品自体が、想定された鑑賞者と同様に俗悪な作品であると考える人も出てくることでしょう。
しかしながら筆者(広川)の考えでは、内的宗教体験を聖画で可視的に表したからと言って、その作品自体が宗教体験の内面性に無縁であるとは限りません。不可視的主題の図像化に関する思想史を繙(ひもと)くとき、聖画像は画一的に否定されるべきものではないことがわかります。ともすればボンデュズリ(仏
bondieuserie 神様趣味)と揶揄されがちな信心具の分野にも、高い芸術性を有する図像表現は確実に見出され得ます。事物の可感性を超えたところにイデアあるいはエイドスを見出し、質の高い作品を制作する芸術家の知性は、哲学者の知性に比べても何ら劣るものではないと筆者(広川)は考えます。この問題については別稿で簡潔に論じました。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。キリストと聖女の顔や手は直径一ミリメートルの円内に収まりますが、目鼻立ちが整っているのみならず、不可視の霊がその表情に反映し、神の愛と聖女の信仰が誰の目にも見える形で可視化されています。この面の見事なミニアチュール作品にはメダユール(メダイユ彫刻家)の署名がありませんが、おそらくもう一方の面と同様に、ラヴリリエの手によるものと思われます。
本品はおよそ百年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず、保存状態は極めて良好です。メダイユ彫刻家アンドレ・アンリ・ラヴリリエは名声を裏切らない芸術的才能により、金属製メダイの内に不可視の霊性を可視化しています。本品は身に着けることができる小さくとも本格的な美術品です。