青色エマイユの銀無垢メダイ 《キリストを受け容れる守護聖人クリストフ 11.0 x 9.3 mm》 新生の八角形 たいへん小さな作例 フランス 二十世紀前半


突出部分を含むサイズ 縦 11.0 x 横 9.3 mm



 たいへん丁寧に制作された指先サイズの小メダイ。細密浮き彫りを銀に打刻し、青色ガラスのフリットでエマイユ・シュル・バス=タイユとしています。二十世紀前半頃のフランスで制作されたアンティーク品です。





 本品の表(おもて)面には、幼児を肩に乗せて川を渡る聖クリストフ(聖クリストフォロス、聖クリストファー)が見事な浮き彫りで表されています。クリストフの杖は先端が枝分かれしていますが、これは引き抜いた立木をそのまま杖にしているからです。荒れ狂う自然の四元素と闘うクリストフの衣は強風をはらんで大きく膨らみ、衣の下部は腿に張り付き、上部の裾は戦旗のようにはためいています。逆巻く川の水深は大男クリストフの膝のあたりに達し、逆巻く波は腰に届かんとしています。怪力無双のクリストフは、岩をも押し流すほどの巨大な水圧に抗(あらが)ってまっすぐに立ち、自信に満ちた足取りで向こう岸を目指しています。

 しかしながら渡河の半ばで、肩に乗せた小さな男の子があまりにも重くなり、異変を感じたクリストフは問いかけるように男の子を見上げています。肩の上の幼児は全宇宙の支配権を示すグロブス・クルーキゲル(世界球)を左手に持ち、右手で天を指さして、自分が天地の造り主、神なる幼子イエス・キリストであることを宣言しています。クリストフの髪は強い風圧に押し付けられ、衣は強風にあおられてひるがえっていますが、幼子イエスは天上の存在であるゆえに、その髪も衣も風の影響を一切受けていないのが印象的です。





 幼子イエスを肩に乗せて渡河するクリストフの姿は、十三世紀の聖人伝「レゲンダ・アウレア」("LEGENDA AUREA") に収録された伝承を基にしています。同書によると、大男である武人クリストフは世界で最強の君主に仕えることを望み、まずはじめに、最強と思われるカナンの王に仕えました。しかしながら王が悪魔を恐れていることがわかったので、次に悪魔の家来になりました。やがて悪魔が神を恐れていることを知ると、神に仕えることを望みましたが、どうすれば神に出会えるかがわかりません。隠者に相談したところ、人を背負って深い川を渡す仕事をすれば神に出会える、と教えられました。ある日小さな男の子が現れて、向こう岸に渡してくれるようにと頼まれたクリストフは男の子を肩に乗せて運び始めますが、途中で男の子が非常に重くなり、やっとの思いで向こう岸にたどり着きました。男の子は世界を創ったキリストで、世界よりも重かったのです。クリストフはこうして神と出会い、神に仕える者となりました。

 上の写真はアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)が 1511年に制作したウッド・エングレーヴィングで、大英博物館に収蔵されています。中央に大きく描かれているのはキリストとクリストフですが、向かって右側の岸辺には隠者の姿が見えます。隠者が手にするランプは知恵の象徴であり、ロゴス(希 λόγος ことば)の象徴でもあります。知恵あるいはことばとはイエス・キリストのことに他なりませんから、ランプを手にした隠者の姿は、キリストを背負ったクリストフの姿と同じ象徴的意味を有します。「ヨハネによる福音書」 一章一節から五節を引用します。ギリシア語原文はドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版、日本語は新共同訳によります。

     Nestle-Aland 26 Auflage    新共同訳
     Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.    初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
     οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.    この言は、初めに神と共にあった。
     πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν    万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
     ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων:    言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
     καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.    光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 フランス語クリストフ(仏 Christophe)はギリシア語クリストフォロスに由来します。クリストフォロス(希 Χριστόφορος)はギリシア語でキリストを表すクリストスの語根(Χριστ-)と、運ぶ人を表すフォロス(-φορος)を、繋ぎの音オ(-ο-)で接合した合成語です。すなわちクリストフォロスは「キリストを運ぶ人」という意味であって、実在した歴史上の人物の名前ではありません。この事実が端的に示すように、キリストを肩に乗せて荒天の中を進む聖クリストフの姿は、キリストを心に受け容れて、キリストと共に地上を旅する教会と信仰者を象徴しています。





 本品は八角形の枠内に水(川の水)があり、クリストフはその中に浸かっています。本品のクリストフ像は、洗礼を通してキリストを受け容れる魂を、美術によって可視的に表現したものと考えられます。

 洗礼はキリスト教において最重要の儀式であり、魂が救済されるために絶対に必要な条件です。洗礼は神の働きによるゆえに、誰を通して施されたものであっても、その効力に差はありません。洗礼を施す人が異教徒であっても無神論者であっても構わないのです。この考え方はキリスト教神学において、エクス・オペレ・オペラートー(羅 EX OPERE OPERATO 為されたる業によって)という句で表されます。いったん施された洗礼は、誰に施されたものであっても、常に有効です。

 洗礼は魂が救済される必要条件であるゆえに、新生児の魂を危険に曝さないためには、一刻も早く洗礼を施さなければなりません。しかるに寒い季節に新生児の全身を水に浸けると、風邪をひいて簡単に命を落としかねません。したがって近代以降の洗礼は、額に数滴の水を付ける方式で行われています。これは受洗者が新生児でない場合も同様です。




(上) ランス司教聖レミ(St. Remi/Rémi de Reims, c. 437 - 533)から洗礼を受けるクローヴィス(Clovis Ier, c. 466 - 511) François Louis Dejuinne (1786 - 1844), "Baptême de Clovis à Reims le 25 décembre 496", 1839, l'huile sur toile, 143 x 180 cm, musée national des châteaux de Versailles et de Trianon, Versailles


 しかるに少なくとも十一世紀頃まで、遅くは十六世紀頃までの西ヨーロッパにおいて、洗礼には浴槽のように深いプールを使用し、全身もしくは体の大部分を沈める方式が行われていました。このような洗礼用プールに全身を浸すと、受洗者がプールから出たときに水が滴り落ちて、聖堂の床が濡れてしまいます。それゆえ当時は礼拝に使う聖堂とは別に、洗礼専用の建物がありました。これを洗礼堂と言います。1152年から 1363年にかけて建設されたピザのサン・ジョヴァンニ洗礼堂(伊 il Battistero di San Giovanni)は良く知られた例で、ここの洗礼用プールは数人の大人が同時に全身を浸すことができるサイズです。




(上) ピザ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の洗礼用プールと説教壇 il fonte battesimale e il pulpito, il Battistero di San Giovanni, Pisa


 洗礼は新生の儀式です。しかるにキリスト教の象徴体系において、八は再生、新生を表します。それゆえ多くの洗礼盤、洗礼用プールと洗礼堂は、八角形の平面プランで造られています。そのことを知ったうえで本品の意匠に目を向ければ、クリストフの渡河の場面が八角形の枠に囲まれている意味が分かります。クリストフは八角形のプールに浸かり、洗礼を受けているのです。洗礼を受けるとは、イエスを受け容れ、信仰を持つことに他なりません。クリストフォロス(希 Χριστόφορος キリストを身に帯びる人、キリストを抱く人)という名で呼ばれるこの聖人は、イエスを受け容れた信仰者の象(かたど)りに他なりません。





 反宗教改革の時代に生きたカトリックの画家ペーター・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577 - 1640)は、アントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画において、クリストゥストレーガー(独 Christusträger キリストを運ぶ者)すなわちクリストフォロス(Χριστόφορος)を主題に一連の作品を描き、「キリストを受け容れる信仰」という不可視のテーマを美しい絵画に表現しています。上の写真はルーベンスの三翼祭壇画を開いて撮影したものです。メダイユ彫刻家テラックもまた、ルーベンスと同様に、困難な旅を続ける地上の教会と信仰者、及びそれを庇護したまう神の限りなき恩寵を、この浮き彫り作品において巧みに可視化しています。

 ちなみに「レゲンダ・アウレア」のクリストフォロス伝は有名で、芥川龍之介はこの話に取材し、キリシタンもの作品群のひとつである「きりしとほろ上人伝」を書いています。「レゲンダ・アウレア」によると、幼子キリストは世界を創った造物主であるゆえに、世界よりも重いということになっています。しかしながら芥川の作品においては、幼子キリストが重い理由は、世の罪を背負ったからということになっています。「レゲンダ・アウレア」は荒唐無稽な内容が多いゆえに十三世紀当時からしばしば批判されてきました。これに比べて芥川の「きりしとほろ上人伝」は、優れて薫り高い文学作品となっています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。幼子イエス・キリストも聖クリストフも、その顔はいずれも直径一乃至(ないし)一・五ミリメートルの円内に収まりますが、目鼻立ちが整っているばかりでなく、心の動きが手に取るように分かる優れたできばえです。身体各部の比例が正しいのはもちろんのこと、聖人の髪や衣、逞しい筋肉がうかがえる腕と脚、杖をつかみ幼子を支える大きな手、幼子の手足と世界球、川面に突き出た岩、砕ける波、背景の木々や建物など、すべてが実物と見まがう写実性を以て表され、渡河する聖人を眼前に見るかのような錯覚さえも覚えさせます。

 中世以来、クリストフの絵や像を見た者は、その日のうちに「悪(あ)しき死」、すなわち臨終の場に司祭が立ち会わない突然の死に遭うことが無いと信じられてきました。それゆえクリストフのメダイには、上のような言葉がしばしば刻まれます。下の写真は南ドイツで1423年に刷られた手彩色木版画です。教会を訪れる巡礼者はこの札を貰い、家の中の良く見える場所に張り付けました。版画の下部にはラテン語で次の言葉が書かれています。

  Christofori faciem die quacumque tueris, illa nempe die morte mala non morieris.   クリストフォロスの顔を見れば、その日は決して悪しき死に遭うことがない。





 下の写真はロベール・カンパン (Robert Campin, 1378 - 1444) が受胎告知を描いたテンペラ板絵で、暖炉の上の壁面に、上掲の版画と同じようなクリストフの彩色画が張られています。二枚目に示したのは拡大写真です。ロベール・カンパンが「受胎告知」を描いたこの作品は、現在ベルギー王立美術館に収蔵されています。


(下) Robert Campin, dit le maître de Flémalle, "l'Annonciation", 1420, tempera sur bois, 61 x 63 cm, les Musées royaux des beaux-arts de Belgique (MRBAB), Bruxelles






 「聖クリストフの姿(絵や像)を見る者は、その日のうちに悪しき死に遭うことが無い」という言い伝えは、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の冒頭部分でも引用されています。





 「クリストフの姿を見る者は、その日のうちに悪しき死に遭うことが無い」ゆえに、この聖人のメダイには、人々が乗り物に乗ったり危険なスポーツを楽しんだりする様子がしばしば刻まれます。メダイを所持する人が聖人の図柄を見て、加護を受けるべく期待されているのです。

 本品の裏面には土煙を上げて疾走する初期のクラシック・カーが浮き彫りにされています。この自動車にはエンジンを始動するためのクランクがあり、1910年代前半頃の型式に見えます。1920年代に入ると屋根付きの自動車が広まりますが、1910年代の自動車はまったくの無蓋であるか、せいぜい幌付きです。サスペンションや車輪は馬車の時代と変わらない構造ですが、エンジンだけが強力になっており、華奢な車体が何とも頼りなさそうに見えます。


(下 参考写真) 1910年頃のフランスの絵葉書




 本品メダイの制作年代は 1930年代頃と思われるので、裏面の図柄には少し古い型の自動車が採用されていることになります。本品の図柄において自動車のハンドルを握るのは男性で、飛行帽のような帽子を被っています。隣には女性が乗っています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。風を防ぐための厚着にもかかわらず、男性は男性らしい体つき、女性は女性らしい体つきが巧みに表現されています。フロントグリルやカンテラ、泥除け、サスペンションなどの自動車の細部から未舗装道路の凹凸に至るまで、この面の精緻さと優れた写実性も表(おもて)面に劣りません。





 本品の直径は 9.3ミリメートルで、指先に載る小さなサイズです。それにもかかわらず打刻による浮き彫りの細密さは、メダイユ彫刻の国フランスならではの驚くべき水準に達しています。また色ガラスによるエマイユ・シュル・バス=タイユも、リモージュを主要産地とするフランスの得意分野です。両分野の工芸技術を具体化した本品メダイユは、フランスそのもののような作品に仕上がっています。

 なおアンティーク品の古色は一度失われると回復に時間がかかるので、本品はクリーニングを施しておりません。銀の硫化による黒ずみが嫌いな方は、家庭用練り歯磨きを指先に付けて軽くこすっていただければ、簡単に綺麗になります。





本体価格 3,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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