ルルドの聖母の出現を受けた少女、ベルナデット・スビルー(Bernadette Soubirous, 1844 - 1879)は 1925年に列福、1933年に列聖されました。本品は
1930年代半ば以降に制作されたアール・デコ様式のメダイで、鐘のような珍しい形です。一方の面にベルナデット(聖ベルナデッタ)を、もう一方の面にルルドにおける聖母出現の場面を、いずれも精巧な浮き彫りで表しています。
メダイやプラケットに刻まれるベルナデットの肖像には、俗人姿のものと修道女姿のものがあります。本品のベルナデットは修道女の服装をしています。
ルルドの聖母が現れたのは、ベルナデットが十四歳であった 1858年のことです。このとき以降 1860年6月まで、ベルナデットは家族と共に住み、家事、幼い弟妹たちの世話、自身の学業にいそしんでいました。しかるに、聖母出現後のルルドを訪れる巡礼者たちはベルナデットの都合など考えずに面会を求め、なかにはベルナデットの髪や衣服、シャプレ(数珠 ロザリオ)などを聖遺物として持ち帰るために無理やり奪おうとすることさえありました。このような状況ゆえに、1860年の春以降、ベルナデットは愛徳姉妹会がルルドで運営するオスピス(救貧院)で暮らすことになりました。
郷里ルルドでの学業を終えたベルナデットは、1866年、フランス中部ヌヴェール(Nevers ブルゴーニュ地域圏ニエーヴル県)にある愛徳女子修道会
(Les Sœurs de la Charité de Nevers) の修道女となりました。この頃ルルドでは、出現した聖母が命じ給うたとおりに聖堂を建設する資金集めが計画されていました。ベルナデットはルルドでも写真撮影に応じていましたが、今度は修道女姿のベルナデットを撮影し、その写真の販売による収益を聖堂建設の資金に加えることになりました。
撮影は 1866年2月4日、トゥールーズの写真家ジョセフ・プロヴォ (Joseph Provost, ? - 1889) により、ヌヴェールの修道院で行われました。このときは修道女姿の写真八枚と、修道衣の上からピレネーの民族衣装を着けた写真一枚が撮影されています。本品の浮き彫りはこのときに撮影された八枚目の写真を元に制作されたもので、ヌヴェールの愛徳女子修道会本部が使用を許可した数点のうちのひとつです。
写真に基づくメダイを制作するとは、平面の写真を浮き彫りとして立体化し、活き活きとした生命力を与えて、我々が暮らす三次元の世界に呼び戻すことに他なりません。その試みがどのくらい成功するかはメダユール(仏
un médailleur メダイユ彫刻家)の芸術的才能と職人的技量にかかっています。本品メダイユ彫刻の出来栄えはたいへん優れており、穏やかな表情で斜め上を見上げるベルナデットの姿には、聖母に見(まみ)えた少女の混じり気のない信仰心が見事に形象化されています。
メダイの最下部、ベルナデットの右肩に、本品を制作した彫刻家リュドヴィク・ペナン(Ludovic Penin, 1830 - 1868)のサインが刻まれています。リュドヴィク・ペナンは豊かな才能を認められ、弱冠三十四歳当時の
1864年、教皇ピウス九世によりカトリック教会の公式メダイユ彫刻家(仏 un graveur pontifical)に任じられましたが、惜しくもその四年後に亡くなってしまいました。
本品メダイの素になった写真は 1866年に撮影されていますから、リュドヴィク・ペナンが本品のマトリクス(打刻や鋳造の母型)を制作したのは三十六歳ないし三十七歳頃であり、早逝した若き巨匠があまりにも早い晩年に制作した優品であることがわかります。メダイ全体は鐘のような珍しい形ですが、十九世紀のフランス製メダイにこのような形はありません。ベルナデットを取り巻く枠の意匠は直線で構成されていますが、これはアール・デコ期の特徴です。したがって本品はペナンが制作したベルナデット像のマトリクスにアール・デコ様式の枠を組み合わせ、1930年代頃に制作されたものであることがわかります。
裏面にはルルドにおける聖母出現の場面が、様式化された図像に基づいて浮き彫りにされています。
ルルドを貫流するポー川(le gave de Pau)の岸辺に、現地で話されるガスコーニュ語ビゴール方言でマサビエラ(massavielha 古い岩塊、の意)と呼ばれる高さ二十七メートルの岩場があります。この岩場は巨大な石灰岩の塊で、基部にポー川の浸食を受けて、高さ
3.80メートル、奥行 9.5メートル、幅 9.85メートルのグロット(仏 grotte 洞穴、岩に開いた大きな横穴)を生じています。洞穴に向かって立つと右上方に縦長の開口部があって、開口部の奥は下の洞穴に繋がっています。ベルナデット・スビルーが幻視した少女マリアは、この開口部に立っていました。若き聖母に指示されたベルナデットが、洞穴内の土を手で掘ったところ泉が湧き出して、多数の病人に奇跡的な治癒効果を発揮しました。
マサビエルのグロットに立つ聖母は、右腕にロザリオを掛け、胸の前に両手を合わせて、目を天に向けています。これは 1858年3月25日、聖母が十六回目に出現し給うたときの様子です。この日ベルナデットが四度続けて名を問うと、聖母は田舎の言葉(ガスコーニュ語ビゴール方言)で「わたしは無原罪の御宿りです」(Que soy era Immaculada Concepciou.)と答え給いました。この言葉は標準フランス語(イール=ド=フランス方言)に直され、出現の場面を縁取っています。
Je suis l'Immaculée Conception. わたしは無原罪の御宿りです。
この面にはペナンの刻印がありませんが、細部まで同じ図柄にペナンの刻印があるメダイを当店に取り扱ったことがありますので、この面もリュドヴィク・ペナンの作品であることが分かります。
本品をはじめ、ルルドの聖母の定型化された図像を見ると、あたかも聖母が物体化してルルドに出現したように思えます。また聖母の立っていたところはベルナデットから数メートルの距離であるように見えます。しかしながら実際には聖母は物体化せず、ベルナデット自身にさえはっきりと姿が見えたわけではありません。また聖母が立っていたグロットの開口部は、実際にはベルナデットから数十メートルも離れています。
それゆえ定型化されたルルドの図像は、実際に起こった事実の写実的再現ではありません。距離の縮小は些細なことであるとしても、そもそもベルナデットは聖母を心眼で見たのであって、視覚によって見たのではないのです。脱魂状態に陥るベルナデットの周囲には数百人のやじ馬が集まりましたが、その中の誰一人として聖母の姿を見た者はいませんでした。
しかしながら筆者(広川)が考えるに、不可視の宗教的事象を可視化するのは必ずしも無意味なことではありません。なぜならば聖母が出現し給うときには、地上の支配者や高位聖職者ではなく、常に小さき者を選び給います。しかしながらこれは、聖母がひとりだけのために出現するということではありません。なぜならば聖母は自分のメッセージを多くの人々に伝えるように、小さき者に命じ給うからです。ルルドの場合もこれと同様であって、ベルナデットに命じて土を掘らせて奇跡の泉を湧出させた聖母は、数多くの人々に神の恵みが及ぶことを望んでおられることがわかります。そうであるならばベルナデットにしか見えなかった聖母の姿を、万人が見ることができるように図像化するのは意味があることと言えます。
ルルドの聖母が出現したグロットの開口部には、聖母出現から六年が経った 1864年に、リヨンの高名な彫刻家ジョゼフ=ユーグ・ファビシュ(Joseph-Hugues
Fabisch, 1812 - 1886)による大理石の聖母像が据えられて現在に至ります。この聖母像が制作されたのも、ルルドに聖母が出現した意味をベルナデット個人に留まらせず、万人が共有しやすくするためと言えましょう。
「創世記」 3章18節に基づき、茨の刺は罪の象徴とされます。本品に彫られた聖母は茨の茂みに裸足で立っていますが、聖母の足は茨の刺に傷つくことがありません。これは聖母が無原罪であって、罪に傷つけられないことを表します。ファビシュの聖母像の両足には金色の薔薇が咲いていて、この薔薇は本品の浮き彫りにも再現されています。聖母の足に咲く金色の薔薇は、ロサ・ミスティカ(刺の無い薔薇)として表される聖母の無原罪性を象(かたど)ります。
上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。拡大写真では突出部分の摩滅が判別できますが、肉眼で見る本品の実物は充分に綺麗な保存状態です。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きなサイズに感じられます。
本品はおよそ九十年前に制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらずたいへん良好な保存状態です。立体感のある作りにもかかわらず、突出部分の磨滅はごくわずかで、細部まできれいに残っています。メダイは昔も今も円形のものがほとんどで、古い作例には四角いものもありますが、本品のような釣り鐘型はかなり珍しく、眼を惹きます。リュドヴィク・ペナンの手による表裏の浮き彫り彫刻は、いずれも優れた芸術性を有するミニアチュール彫刻に仕上がっています。