高さ 4.2センチメートル、幅 43.1センチメートルと大きめのサイズに作ったクロワ・ジャネット。ヴェルメイユ (vermeil)、すなわち金を張った銀製の高級品で、金は二色が使われています。ふたつの面は異なるデザインに基づきつつ、同様の丁寧さで制作されています。
菱形(正方形)の銀板中央に浮き彫りと青色エマイユを施し、さらに白いエマイユの直線で囲んだものを、十字架の交差部に取り付けています。この小さな銀板は、金を施したロープ状の彫金細工で囲まれています。
青色エマイユに浮かぶ銀の浮き彫りは、いずれの面も至高の愛を象徴しており、一方の面には三位一体を表す三本の十字架、もう一方の面にはイエズス(ギリシア語で「イエースース」 IHSOYS)を表す三つのギリシア文字「イオタ、エータ、シグマ」(IHS)、及び十字架と心臓が表されています。また交差部を彩る色のうち、青と金は天空あるいは天国を、また青と白の組み合わせは聖母マリアを象徴します。
十字架に架かり給うたのは三位一体の第二のペルソナ、子なる神キリストのみであって、父なる神や聖霊なる神ではありません。それゆえに三位一体の神の愛を三本の十字架で表すことを奇異に思われる方があるかも知れませんが、子なる神キリスト以外のペルソナをも十字架で象徴する表現は、ペルソナ間のペリコーレーシス(περιχώρησις 相互浸透)に基づいています。
下に示すのはフランスとの国境近く、北イタリアのアルベンガ(Albenga リグリア州サヴォナ県)にある5世紀の洗礼堂のモザイク画です。ギリシア語「クリストス」(ΧΡΙΣΤΟΣ キリスト)を表す「キー」Χ
と「ロー」Ρの組み合わせ文字を「クリスム」(仏 le chrisme 独 das Christusmonogramm)といますが、このモザイク画ではクリスムを三つ重ねることにより、三位一体の神を表しています。クリスムとともに書かれたギリシア文字「アルファ」と「オメガ」は、永遠の存在者たる神とキリストの象徴です。(イザヤ書
41:4、ヨハネによる黙示録 1:8他)
(下) 5世紀の洗礼堂のモザイク画に見られる三重のクリスム 北イタリア、アルベンガ
本品のエマイユは、シャンルヴェ (le champlevé) と呼ばれる技法によって制作されています。シャンルヴェのエマイユ制作は、ビュラン(burin 彫刻刀)を使って銀板に窪みを彫り、この窪みにフリット(色ガラスの粉)を入れて窯入れし、フリットが融けるまで窯で加熱します。フリットが融けた後、徐々に温度を下げ、ガラスを銀板の表面に固着させ、窯から取り出した後に研磨仕上げが行われます。
本品の小銀板においてフリットが入る窪みは、聖遺物箱のような大型のエマイユ・シャンルヴェ作品に比べれば、はるかに浅いはずです。実際古い時代のクロワ・ジャネットは、時の経過に耐えきれずにエマイユが破損したものが多く見られますが、本品のエマイユには剥落が一切ありません。
下に示した写真は、実物を数十倍に拡大しています。本品のエマイユは白い正方形が一辺4ミリメートル、青い正方形が一辺3ミリメートル、十字架の高さが2ミリメートル、文字の高さが
1.5ミリメートル、ハートは高さ 0.5ミリメートルという極小サイズでありながら、文字のセリフ(serif 末端のひげ飾り)に至るまでたいへん正確に制作されていることがわかります。
クロワ・ジャネットのエマイユは、サヴォワ地方の町ブール=ガン=ブレス(Bourg-en-Bresse ローヌ=アルプ地域圏アン県)で制作されます。ブール=ガン=ブレスのエマイユ工芸品は、ブール=ガン=ブレスを含む旧地方名ブレス
(Bresse) に因んで、「エモー・ブレサン」(les émaux bressans ブレスのエマイユ)と呼ばれています。現代の「エモー・ブレサン」はひとつの作品に多くの色を使い、輝くように華美ですが、本品は19世紀の貴重な作例であり、その作風は現代品とは違ってあくまでも清楚、清純です。働き始めて最初に貰った給金でこのクロワ・ジャネットを購入した少女の清らかな信仰心を、鏡のように映し出したエマイユといえましょう。
エマイユと同様、彫金に関しても、ふたつの面が異なるデザインに基づきつつ、同様の丁寧さで製作されているのが本品の特長です。末端に近く楕円形に広がった部分には、やはり細粒状の彫金を背景に簡略な唐草文が打ち出され、小球状の装飾を経て、細い棒状の先端部が突き出ています。十字架上部のフルール・ド・リス(fleur
de lys 百合文あるいはアヤメ文)を象った部分には、本品を製作した銀製品工房サヴァール (SAVARD) の刻印が見られます。
本品の金属部分は、信心具の素材として最も高級な銀に、二色の金を被せたヴェルメイユ (vermeil) で制作されています。金はローズ・ロールドを多用し、くぼんだ部分のイエロ-・ゴールドがアクセントになっています。
19世紀のヴェルメイユ、金張り、金めっきは、品物全体を電解液に浸漬する現代の「エレクトロプレート」とは違って、金の薄板をベース・メタルに熱で圧着する「ロールド・プレート」です。したがって、大変な手間さえいとわなければ、このクロワ・ジャネットのように、ひとつの十字架に二色の金めっきを施すことは可能です。
本品のように表裏二枚の板を合わせて制作したクロワ・ジャネットは、仮に現代まで残っていたとしても、先端部分が折れて無くなったり、十字架本体が破断している場合が多いですが、本品はよほど大切にされてきたと見えて、欠損の無い完品です。このような状態のクロワ・ジャネットは非常に稀で、入手はほぼ不可能です。
(下) 現代まで伝わるクロワ・ジャネットの大部分は大きく破損しています。使用されている金属の種類や作りを知るために、私はこれらの資料を集めて大切に保存し、活用しています。
19世紀のフランスで製作されたアンティークのクロワ・ジャネットは、そもそも入手が非常に難しい稀少品ですが、本品にはエマイユの剥落をはじめ、特筆すべき瑕疵はありません。同時代の類品は、上の写真のように大きく破損しているものがほとんどであり、本品は驚くほど良好な保存状態であるといえます。繊細で清楚なエマイユに加え、重厚で美しい古色が醸(かも)す真正のアンティーク品ならではの味わいに、現代の複製品では決して再現できない趣(おもむき)があります。