オウィディウス
Publius Ovidius Naso, 43 B.C. - 17/18 A.D.




(上) 「メタモルフォーセース」より、「ダフネー」 18世紀末のコッパー・エングレーヴィング 当店の商品


 オウィディウス (Publius Ovidius Naso, 43 B.C. - 17/18 A.D.) は紀元前後のいわゆる「アウグストゥスの時代」に生きたローマの詩人で、ウェルギリウス (Publius Vergilius Maro, B.C. 70 - B.C. 19)、 ホラティウス (Quintus Horatius Flaccus, B. C. 65 - B.C. 8) とほぼ同時代の人物です。オウィディウスの作品「メタモルフォーセース」はよく知られており、後世の美術や文学に大きな影響を及ぼしました。西ヨーロッパでは12世紀の詩人たちがオウィディウスを模範として盛んに詩作したので、この時代は「アエタース・オウィディアーナ」(aetas Ovidiana) すなわち「オウィデイウスの時代」と呼ばれます。


【オウィディウスの生涯】

1. 少年期から結婚まで

 オウィディウス (Publius Ovidius Naso, 43 B.C. - 17/18 A.D.) は紀元前43年3月20日、ローマの東方およそ90キロメートルにあるアペニン山中の町スルモー (SULMO)、現在のスルモナ(Sulmona アブルッツォ州ラクイラ県)に生まれました。オウィディウスの父は息子を法律家にしようと考え、高名な雄弁家たちのもとで優れた教育を受けさせました。弁論術の訓練を受けたことは、後の詩作に大きな影響を及ぼします。若き詩人オウィディウスはアテネに留学したほか、およそ一年の間シチリアに住みましたが、父の強い意向により、詩作から離れてイタリアに戻り、法律関係の官吏として働きます。しかしオウィディウスの心を惹くのは街遊びの楽しみと詩作であり、法律の仕事には喜びを見い出すことができませんでした。

 やがてオウィディウスは詩作に専念するようになり、有力な文学サロンを主催していたメッサッラ (Marcus Valerius Messalla Corvinus, B.C. 64 - A.D. 8) をはじめとする文芸関係者との交友を深めました。またオウィディウス自身の詩も高く評価され、作品の愛好者が詩人の周囲に集まりました。

 オウィディウスの初期の作品はほとんどすべてが恋愛を主題としています。オウィディウスは気に入らない作品を後になって自ら破棄し、それ以外の作品で三巻の短い詩集「アモーレース」("AMORES" 「恋の歌」)を編みました。「アモーレース」に収録されているのは、紀元前19年から紀元前2年頃までに創作された作品です。その多くはおそらく想像上の女性「コリンナ」(CORINNA) への愛を主題にした作品で、恋する者が経験しうるあらゆる感情や状況を謳っています。同様の作風は、ほぼ同時期の「ヘーローイデース」にも見られます。詩集の題名「ヘーローイデース」("HEROIDES") はラテン語で「女傑たち」「(神話や伝承の)女主人公たち」という意味で、オウィディウス作品の内容は、神話や伝承に登場する女性たちが夫や恋人に書き送った書簡という体裁を採った詩集です。

 この頃のオウィディウスは三回結婚しています。このうちの三度目の結婚相手は、コンスルやプロコンスルを務めた有力者パウッルス・ファビウス・マークシムス (Paullus Fabius Maximus, ? - A.D. 14) の血縁に当たる娘でした。パウッルス・ファビウス・マークシムスは詩を愛好し、オウィディウスやホラティウスの庇護者でした。オウィディウスには娘が一人いましたが、この娘が何度目の結婚によって生まれたかは知られていません。

 なおオウィディウスの両親は、紀元8年にオィディウスが流罪になる直前に亡くなっています。オウィディウスの流罪については次に詳述します。


2. 流罪

・「歌と過ち」

 紀元8年、皇帝アウグストゥス (Augustus, B.C. 63 - A.D. 14) はオウィディウスに流罪を申し渡し、オウィディウスはローマから6カ月の旅の後、ポントス(黒海沿岸)のコーンスタンティア (Κωνστάντια) に到着しました。

 オウィディウスが流罪となった理由について、詩人自身はコーンスタンティアへの途上で書いた「悲歌」("TRISTIA") 第二巻 207行から 212行で、次のように語っています。和訳は筆者(広川)によります。

207 Perdiderint cum me duo crimina, carmen et error, ... ふたつの罪、すなわち歌と過ちが私を破滅させたのだが、
208 alterius facti culpa silenda mihi: そのうちの一方に関する罪を、私は語るべきでない。(註1)
209 nam non sum tanti, renovem ut tua vulnera, Caesar, 皇帝陛下、陛下の御傷口を再び開ける資格は、私には無いのです。
210 quem nimio plus est indoluisse semel. 陛下がただ一度だけ苦痛を感じ給うただけでも、大変なことなのです。(註2)
211 Altera pars superest, qua turpi carmine factus [ふたつの罪のうち]もうひとつのほうですが、私がしでかした事のこの部分に関して、私は不道徳な歌で
212 arguor obsceni doctor adulterii 恥知らずの不純な行いを教える者と非難されています。(註3)


 ここでオウィディウスは、自分が流罪となったのは「歌と過ち」("TRISTIA" II, 207) が皇帝の怒りを買ったせいである、と述べています。「歌」(CARMEN) は単数形です。

 単数形で言及されている「歌」とは、詩人が紀元1年に書いた「アルス・アマートーリア」("ARS AMATORIA" ラテン語で「愛の技法」)を指すと考えられています。この作品には露骨な性描写が多く含まれていました。詩人は上に引用した211行、212行で、「私は不道徳な歌で恥知らずの不純な行いを教える者と非難されています」と述べています。


 しかしながら、先に見たように、オウィディウスは若い頃から法律関係の学問と仕事に携わっていましたから、「アルス・アマートーリア」に性的描写が多いとしても、法で処罰されない限度内に抑えるべく注意を払っていたはずです。したがって「歌と過ち」のうちの「歌」(「アルス・アマートーリア」)の猥褻さはオウィディウスが流罪になった原因の一つではあっても、実際にはもうひとつの原因のほうこそが重大で、その「過ち」こそが流罪を決定的にしたと考えられます。「悲歌」("TRISTIA") 第四巻十章、89行と90行で、詩人は次のように歌っています。和訳とルブリケイションは筆者によります。


scite, precor, causam, nec vos mihi fallere fas est, / errorem iussae, non scelus, esse fugae.

諸兄には何とぞ間違えないでもらいたい。流罪(jussa fuga 直訳「強いられた逃避」)の原因が、[詩の中で神々に猥褻な行いをさせた]瀆神ではなく、過ちであることを、どうか知ってもらいたい。


 オウィディウスが言う「過ち」(ERROR) とは、「アルス・アマートーリア」、「ヘーローイデース」、「恋の妙薬」("REMEDIA AMORIS") に見られる当てこすりのことです。詩人はヘレネーとパリス(註4)について謳うという体裁を採りつつ、当時のローマ人が読めば明らかに分かる当てこすりによって、皇帝への反逆者として刑罰を受けたアウグストゥスの娘ユリアとその愛人を援護し、アウグストゥスの養子であり後継者であるティベリウスを痛烈に批判したのです。


・アウグストゥス、娘ユリア、その夫ティベリウス、ユリアの愛人ユッルス・アントニウス

 皇帝アウグストゥスの実子は娘ユリア (Julia, B.C. 39 - A.D. 14) のみで、後継者となる男の子に恵まれませんでした。いっぽう自身の再婚相手リウィア (Livia, B.C. 58 - A.D. 29) には男の子である連れ子ティベリウス (Tiberius, B.C. 42 - A.D. 37) がいました。そこでアウグストゥスは、紀元前11年、娘ユリアとティベリウスを結婚させ、さらにティベリウスを養子にして、自身の後継者と定めました。紀元14年にアウグストゥスが亡くなると、ティベリウスはアウグストゥスを継いで第二代ローマ皇帝に即位し、優れた統治を行うこととなります。


 ところでアウグストゥスの娘ユリアは常々身持ちが非常に悪く、「姦婦」「淫婦」として悪名高い女性でした。紀元前6年、ユリアと不仲になった夫ティベリウスがローマを離れてロードス島に引き籠ると、ユリアは夫の留守を良いことに多数の男と性的放埓に耽り、なかでもユッルス・アントニウス (Iullus Antonius, B.C. 43 - A.D. 2) と特に親しい関係となります。

 ユッルス・アントニウスは、オクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)に攻められてクレオパトラとともに自殺したマルクス・アントニウス (Marcus Antonius, B.C. 83 - B.C. 30) の息子です。しかしながらアウグストゥスはユッルス・アントニウスを厚遇し、姪と結婚させて親族の一員にしていました。これまで幾多の男と不倫関係を結んできたユリアは、このユッルスを新しい愛人に選んだのでした。ふたりは肉体関係を結ぶとともに、アウグストゥスを批判する政治的意見をも共有していました。(註5)

 紀元前2年、ユッルス・アントニウスとユリアの親密な関係と反アウグストゥスの策動が明らかになると、アウグストゥスは二人が謀反を企てたとしてユッルスに死罪を申し渡し、また娘ユリアを夫ティベリウスと離婚させたうえで、パンダタリア島(註6)に配流しました。数年後、ユリアの身柄はイタリア半島の長靴のつま先にあたるレギウム・ユリウム (Rhegium Julium)、現在のレッジョ・ディ・カラブリア(Reggio di Calabria カラブリア州レッジョ・カラブリア県)に移されましたが、ローマへの帰還を許されることなく、紀元14年に亡くなりました。


・オウィディウスの詩に籠められたユリア援護とティベリウス批判

 ギリシア神話が語るところによると、絶世の美女であったスパルタの王妃ヘレネーはトロイアの王子パリスに攫(さら)われ、パリスと愛し合うようになります。(註4を参照)

 オウィディウスは「アルス・アマートーリア」第2巻において、愛する女性に自分の姿を日々、日夜見せるように勧め、「しかし姿を見せないと女性が会いたがるであろうという自信があるならば、ひと休みするのも良い」と語った後で、夫(スパルタ王メネラウス)と会わないうちにパリスに心を移したヘレネーの例を引いて、不倫の愛に陥ったヘレネーとパリスではなく、むしろヘレネーの夫であるスパルタ王メネラウスを責めています。

 該当箇所(第2巻 357 - 372行)のラテン語テキストを下に引用いたします。和訳は筆者(広川)によります。オウィディウスのテキストは韻文ですが、筆者の訳文はラテン語の意味を正確に訳出することを主眼としたため、韻文になっていません。文意が通じやすいように補った言葉は、ブラケット [ ] で囲んで示しました。

sed mora tuta brevis: lentescunt tempore curae
vanescitque absens et novus intrat amor:
dum Menelaus abest, Helene, ne sola iaceret,
hospitis est tepido nocte recepta sinu.
... しかしひと休みの期間は短いのがよい。関心は時[の経過]によって弱まるのだ。
そして不在の[者への]愛は消え、新しい愛が登場する。
メネラウスがいない間に、ヘレネーは独り寝をしなかった。
夜になると、客の温かき胸に迎えられた。
quis stupor hic, Menelae, fuit? tu solus abibas,
isdem sub tectis hospes et uxor erant.
accipitri timidas credis, furiose, columbas?
plenum montano credis ovile lupo?
メネラウスよ、これはなんという愚かなことであったのか。汝ひとりが[家を]離れ、
客と妻が同じ屋根の下にいたのだ。
狂った男よ。汝はか弱き雌鳩を鷹に預けるのか。
羊でいっぱいの家畜小屋を、山の狼に預けるのか。
nil Helene peccat, nihil hic committit adulter:
quod tu, quod faceret quilibet, ille facit.
cogis adulterium dando tempusque locumque;
quid nisi consilio est usa puella tuo?
quid faciat? vir abest, et adest non rusticus hospes,
et timet in vacuo sola cubare toro.
ヘレネーが罪を犯したのではない。このパリスが姦通を犯したのでもない。
パリスがする事は、汝もするであろう事、誰もがするであろう事なのだ。
時と場所を与えて、姦通を無理やり惹き起すのは汝だ。

若きヘレネーは汝の勧めに従っただけのことだ。(註7)
ヘレネーはどうすればよいのだ。夫が離れており、洗練された都会人の客が側にいる。
そしてヘレネーは空(から)のベッドに独りで寝ることを恐れている。
viderit Atrides; Helenen ego crimine solvo:
usa est humani commoditate viri.
アガメムノンがトロイアを攻めようと構わない。(註8) わたしはヘレネーに無罪を宣告する。(註9)
[ヘレネーは]親切な夫の思い遣りを利用しただけなのだ。


 この詩において、オウィディウスはあたかも同時代の人物に対するかのように神話のスパルタ王メネラウスに語りかけ、「狂った男よ」(furiose) と、こきおろしています。いっぽうヘレネーに関しては、まるで裁判官のように威厳ある態度で無罪を宣告しています。

 大プリニウスが伝えるように、アウグストゥスの娘ユリアとユッルス・アントニウスは、アウグストゥスの帝政に不満を持っていました。このふたりは反逆の罪を問われ厳罰に処せられましたが、オウィディウスはユリアとユッルス・アントニウスに同情的であったのです。そこでオウィディウスはユリアをヘレネーに、ユッルス・アントニウスをパリスに、妻をローマに残してロードス島にひきこもったティベリウスをメネラウスになぞらえて、痛烈な皮肉を詩にしました。夫ティベリウスがユリアから離れ、代わりにユッルス・アントニウスが傍にいたという状況は、スパルタ王メネラウスと妃ヘレネー、及びパリスの神話によく似ていましたし、ティベリウスは幼時にスパルタに滞在し、かの地にゆかりが深い人物であるというおまけまでついていました。(註10)

 引用と解説があまり長大にならないように、ここでは上記の引用箇所に留めますが、オウィディウスはヘレネーを巡る故事にかこつけて、その作品のあちこちでユリアとユッルス・アントニウスを援護し、アウグストゥスの後継者であるティベリウスを痛罵しています。これは皇帝アウグストゥスから見れば重大な反逆に他ならず、皇帝が激怒したのも当然のことでした。


 したがって「アルス・アマートーリア」が猥褻な内容を含んでいたことは、オウィディウスが流罪になった表面的な理由に過ぎません。事実オウィディウスは偉大な先達であるウェルギリウスの作品中の猥褻な箇所を指摘してアウグストゥスに赦免を嘆願しましたが、アウグストゥスは決してオウィディウスを赦しませんでした。オウィディウスは紀元17年頃、流刑先のコーンスタンティアで客死しました。



【オウィディウスの作品と後世への影響】

 既に挙げた作品以外のオウィディウスの著作としては、「メタモルフォーセース」("METAMORPHOSES" 「変身」)、「ファースティー」("FASTI" 「祭暦」)、「エピストゥラエ・エクス・ポントー」("EPISTULUS EX PONTO" 「ポントスからの手紙」)、「イービス」("IBIS" 「トキ(鳥)」)が残っています。

 このなかで群を抜いて有名なのは、オウィディウスが紀元8年に書いた連作、「メタモルフォーセース」です。(註11) 「メタモルフォーセース」は人間やニンフ、半神、神々が、多くの場合もとの人格、気質を保ったまま、姿かたちを変え、あるいは変えられる物語をテーマに作った長大な叙事詩の集成です。全15巻で構成されており、第一巻から第十二巻まではギリシア神話に取材した作品、あとの三巻はローマ史に取材した作品となっています。

 「メタモルフォーセース」各巻の主な内容は次の通りです。変身した神や人物の名前はラテン語式の発音をカタカナで表記し、ラテン語の綴りを大文字のラテン文字で示しました。また丸括弧内にギリシア語を添えました。

第一巻 コスモゴニア(創世)
人間の諸時代
巨人族
月桂樹になったダフネー DAPHNE (ダフネー Δάφνη)
ユーノーによって牛に変えられたイーオー IO (イーオー Ἰώ)
第二巻 太陽神の子ファエトーン PHAËTON (ファエトーン Φαέθων) (註12)
ユーノーによって熊に変えられたカッリストー CALLISTO (カッリストー Καλλιστώ)
牛に変身してエウローパを攫(さら)ったユピテル JUPPITER (ゼウス Ζεύς)
第三巻 蛇になったカドムス CADMUS (カドモス Κάδμος)
ディアナによって鹿に変えられたアクタエオーン ACTAEON (アクタイオーン Άκταίων)
こだまになったエーコー ECHO (エーコー Ἠχώ)
ネメシスによって水仙に変えられたナルキッスス NARCISSUS (ナルキッソス Νάρκισσος)
テーバイ王ペンテウス PENTHEUS (ペンテウス Πενθεύς)
第四巻 ピューラムスとティスベー PYRAMUS ET THISBE (ピューラモスとティスベー Πύραμος καὶ Θίσβη)
ヘルマフロディトゥス HERMAPHRODITUS (ヘルマフロディトス Ἑρμαφρόδιτος)と、サルマキス SALMACIS (サルマキス Σαλμακίς)
ペルセウス PERSEUS (ペルセウス Περσεύς)と、アンドロメダー (アンドロメダー Ἀνδρομέδα)
第五巻 (工事中)
第六巻
第七巻
第八巻
第九巻
第十巻
第十一巻
第十二巻
第十三巻
第十四巻
第十五巻


 「メタモルフォーセース」はオウィディウスの全作品中で最もよく知られ、二千年に亙って芸術のあらゆる分野に強い影響を及ぼし続けています。ルネサンス期やバロック期の美術や文学も、「メタモルフォーセース」に取材した作品は枚挙にいとまがありません。よく知られているところでは、シェイクスピアの「ア・ミッドサマー・ナイツ・ドリーム」("A Midsummer Night's Dream", c. 1590 - 96) において、「ピラマスとシスビー」(「ピューラムスとティスベー」)の劇中劇が演じられます。また「ロミオとジュリエット」("Romeo and Juliet", c. 1591 - 96)は、作品の全体が「ピューラムスとティスベー」の翻案です。


註1 直訳「為されたる一方の事についての罪は、私にとって、秘されるべきである。」 "silenda" は gerundivum(動形容詞、未来受動分詞)。


註2 すなわち "quem indoluisse semel nimio plus est." quem (= Caesarem) は indoluisse の対格主語。


註3 すなわち "qua [parte] factus (gen.) turpi carmine obsceni adulterii doctor arguor. この factus は第四変化名詞 "factus, -us"(= factum 行為、事実、事件)の属格。


註4 パリス (Πάρις) はトロイアの王子です。

 アキレウスの両親(父ペーレウスと母テティス)が結婚するときに、「争い」(Ἒρις 争いの女神エリス)だけは祝宴に招かれませんでした。これに腹を立てた「争い」は祝宴に現れて金のリンゴを示し、「最も美しい女神にこれを与える」と言いました。これがきっかけになってヘーラーとアテーナーとアフロディーテーの間に争いが起こりました。



(上) Claude Lorrain, "Le Jugement de Pâris", 1645/46, huile sur toile, the National Gallery of Art, Washington

 ゼウスの指示により、女神たちはパリスに審判を仰ぐことになりました。アフロディーテーはパリスに「地上で最も美しい女を与える」ことを約束して金のリンゴを獲得し、パリスは「地上で最も美しい女」、すなわちスパルタの王妃ヘレネーをトロイアに攫(さら)いました。これに怒ったスパルタ王メネラオスはアガメムノーンとともにトロイアを攻め滅ぼしました。

(下) Jacques Louis David, "Les Amours de Pâris et d'Hélène", 1788, huile sur toile, 180 x 147 cm, Musée du Louvre, Paris




註5 大プリニウスは「ナートゥーラーリス・ヒストリア(博物誌)」第7巻46章でアウグストゥス帝が経験した難事を列挙し、ユリア、及びその娘小ユリアについても言及しています。


註6 パンダタリア島 (ISLA PANDATARIA) はティレニア海に浮かぶポンツィアーネ諸島のひとつで、現在はヴェンッテーネ島 (Ventotene) と呼ばれています。ポンツィアーネ諸島は、ローマがあるのと同じラツィオ州の南端、ガエタ(Gaeta ラツィオ州ラティナ県)の沖合に浮かんでいます。


註7 すなわち "quid nisi consilio tuo usa est puella?" 直訳「若き女は汝の勧め以外の何を援用したであろう。」


註8 "viderit Atrides." 直訳「[ヘレネーは]アトリーデース[の姿]を目にすることになる。」 "viderit" は直説法未来完了。

 アトリーデース (ATRIDES) は「アトレウス (ATREUS) の子孫(男性)」の意味ですが、特にトロイア戦争におけるギリシア全軍の将アガメムノーン (AGAMEMNON, Ἀγαμέμνων) を指します。


註9 "Helenen ego crimine solvo." オウィディウスはここであたかも権威ある判決文のような表現をしています。


註10 ティベリウスの同名の父ティベリウス・クラウディウス・ネロ (Tiberius Claudius Nero, B.C. c. 85 - b.C. c 33) は共和主義者で、若き日のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)と対立し、紀元前41年にペルシア Perusia(現在のペルージャ Perugia ウンブリア州ペルージャ県)でオクタヴィアヌスに対する蜂起があったときも、これに参加しました。蜂起が鎮圧された後、一家は各地を逃亡する生活を長らく強いられました。


註11 「メタモルフォーセース」("METAMORPHOSES") という作品名は、ギリシア語由来のラテン語で「変形」「変容」「変身」を意味する「メタモルフォーシス」(METAMORPHOSIS) の複数形です。

 なお「変形」「変身」を表すギリシア語は、単数形が「メタモルフォ-シス」(μεταμορφώσις)、複数形が「メタモルフォ-セイス」(μεταμορφώσεις) です。


註12 ファエトーン PHAËTON の表記について。

 ギリシア語の人名や地名をラテン語式に転写する場合、ギリシア語の「アィ αι」はラテン語では概ね「アェ AE」となります。これはギリシア語において「アィ αι」、ラテン語において「アェ AE」が二重母音であって、両者が互いに対応することによります。

 しかるに太陽の子のギリシア語名は「ファイトーン」ではなく「ファエトーン Φαέθων」です。すなわちアルファ (α) にたまたまエプシロン (ε) が続いているだけであって、「アエ」は二重母音ではありません。そもそもギリシア語には「アェ」という二重母音はありません。したがってこれをラテン語に転写する際、"PHAËTON" の "AE" が二重母音のように発音されるのを避け、"E" が直前の "A" から独立してはっきりと発音されるように、トレマ(仏 tréma 分離記号)が添えられているのです。

 トレマを伴う文字は、その文字本来の音価で発音されます。たとえばエミリー・ブロンテは "Emily Brontë" と綴りますが、"Brontë" の "e" にトレマが付くのは、"Bront"(ブロント)のように発音されないためです。



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