トレマ(分離記号、分音符)
tréma, diaeresis




(上) 「エヴァ」(ゾーエー) フレデリック・ヴェルノンによるプラケット 79.3 x 29.9 mm 当店の商品です。


 フランス語において、ノエル(Noël 降誕祭)やカマユー(camaïeu 単彩画)等の綴り字は、母音の上にふたつの点(¨)を付けて表記されます。ふたつの点はドイツ語のウムラウト記号と同じ形ですが、変音(Umlaut)を表すのではなくて、発音の分離を示すトレマ(仏 tréma 分離記号、分音符)です。


 自然言語は、各々に特有の正書法(発音と綴り字を対応させる規則)を有します。母音の字母は、それぞれが本来的に表す基本的な音価を保持しつつ、実際の使用においては各言語の正書法に従って、しばしば基本的な音価とは異なる読み方をされます。

 たとえばフランス語でオ(o)とウ(e)を続けて書くと、オとエの中間のような音[œ](註1)を表します。したがってノエル(Noël)にトレマが付いていなければ、ネル[nœl]としか読めません。しかしながらウの上にトレマがありますので、オ(o)とウ(e)が分けて発音され、ノエル[nɔɛl]と読まれます。

 またア(a)とイ(i)を続けて書くと、本来であればアイと読むはずですが、現代フランス語では、"ai" をエ([ɛ]または[e])と読みます(註2)。しかるにカマユー(camaïeu)のイ(i)の上にはトレマが付いていて、イをその直前のア(a)から分離して発音すべきことを示しています。したがって、"camaïeu" という綴り字は、このトレマがもしも無ければカメユ[kamɛø]と読まれるはずですが、イの上にトレマがあることにより、カマユー[kamajø]と読まれます。




(上) 「生命の水を飲むクロエー」 ダニエル・デュピュイによるプラケット 66.7 x 36.1 mm 当店の商品です。


 トレマを伴って表記される単語は、その語形と発音がフランス語の規則から外れているわけですから、たいていは外来語です。フォエベー(Φοίβη, Phoëbe, Phœbé ウラノスとガイアの娘、またはアルテミス)、ゾーエー(ζωή, Zoë, Zoé エヴァ、生命)、クロエー(χλόη, Chloë, Chloé みどり、デーメーテールのエピセット)、ノエミ(Noëmi, Noémie 「ルツ記」のナオミ)など、ギリシア語やヘブル語の人名を表記する際、しばしばトレマが必要です。カマユーの語源はいくつかの説がありますが、よくわかっていません。ノエル(Noël 降誕祭)はラテン語ナーターリス(NATALIS)に由来し、歴としたフランス語でありながらもトレマを伴う珍しい例です。


【フランス語以外の言語におけるトレマ】

 トレマはフランス語以外の言語でも使われます。ここでは筆者(広川)が良く知っている言語から英語とカスティジャ語を選んで例示します。


・英語の場合

 ラオコオーン(希 Λαοκόων)は英語で表記すると "Laocoön" で、レイオカオンまたはレイオコウオンのように発音します(註3)。もしもトレマが無ければ、ギリシア語のオミクロンとオメガが融合してレイオクーンになるでしょう。

 エミリー・ブロンテ(Emily Brontë, 1818 - 1848)の名前は、最後のイー(e)の上にトレマがあります。このトレマは、英語の正書法に基づく通常の発音規則に従わず、このイーを声に出して読むべきことを示しています。もしもこのトレマが無ければ、語尾のイーはその位置に従って黙字となり、エミリー・ブロントとしか読めません。


・カスティジャ語の場合

 カスティジャ語(スペイン語)ではトレマをディエレシス(diéresis)またはクレマ(crema)といい、用語の分野や品詞を問わず多用されます。

 いちばんよく使うのは、"güe" "güi" をゲ、ギでなく、グエ、グイと読ませるために、ウ(u)の上に付けるディエレシスです。たとえばピングイノ(pingüino ペンギン)、アンビグエダ・リングイスティカ(ambigüedad lingüística 言葉の両義性)、アグエロ(agüero 占う agorar の直・現・一・単)、ベルグエンサ(vergüenza 恥)など。

 さらに「弱母音(i, u)+強母音(a, e, o)」の綴りにおいて、弱母音にアクセントが無く、かつ二重母音ではないとき、弱母音にディエレシスを付けます。たとえばドゥエト(düeto デュエット)、ピアド(pïado ぴよぴよと鳴く声)など。

 その他、詩において二重母音や三重母音を分解し、音節を増やすためにディエレシスを使うことがあります。



註1 日本語で「お」と言うときの口の形で、「え」と発音した音。ケルン(Köln [kœln])の [œ]。音声学では円唇前舌半広母音と呼んでいます。

註2 フランス語における主要な二重母音の縮約は、古フランス語時代の十世紀頃には既に始まっており、十三世紀には概ね完了しました。十一世紀末の「ローランの歌」では、フェール(faire 為す)とテール(terre 土、地面)が既に韻を踏んでいます。

註3 ギリシア語ラオコオーン(Λαοκόων)は第三音節(-κό-)にアクセントがありますが、英語レイオカオン、レイオコウオン(Laocoön)は第二音節(cの前のo)にアクセントがあります。





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