ジャン・ムーラン
Jean Moulin, 1899 - 1943
(上) 40歳当時のジャン・ムーラン。1939年の冬に、友人のマルセル・ベルナール (Marcel Bernard) が、モンペリエで撮影した写真。
第二次世界大戦の開戦当初、ドイツは破竹の勢いでフランスに侵攻しました。当時のドイツは世界で最も科学技術が進んだ国であり、軍の装備も戦術もフランスに対して圧倒的に優れていました。普仏戦争のときと同様、フランスはドイツの敵ではなかったのです。第三共和政最後の首相フィリップ・ペタン
(Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain, 1856 - 1951) が率いるフランス共和国政府は、「1940年6月22日の休戦協定」(L'armistice
du 22 juin 1940) によって、実質的にナチス・ドイツに降伏し、ドイツ軍が国土の北半分を占領するのを認めることになります。占領されなかった南半分に関してはフランスによる自治が認められましたが、これは形式的なものであり、「フランス国」(État
français) 初代首相フィリップ・ペタンによるヴィシー政権は、ドイツの意向に逆らえない傀儡政権でした。
休戦協定が結ばれた 1940年6月22日から 1944年のフランス解放まで、フランス国内ではナチス・ドイツに対するさまざまな抵抗運動が行われました。この運動を総称して「レジスタンス」(la
Resistance) といいます。ジャン・ムーラン (Jean Moulin, 1899 - 1943) はレジスタンスの中心的指導者であり、レジスタンス史において最も有名な人物です。以下にジャン・ムーランの経歴を記します。
1. 誕生から 1938年まで
ジャン・ムーランは 1899年6月20日、モンペリエから南西約70キロメートルの小都市ベジエ(Bezier ラングドック=ルシヨン地域圏エロー県)に、大学教授の息子として生まれました。ジャン少年はデッサンが得意でした。ジャン・ムーランは絵を愛する心を生涯失わず、成人してからは親交のある詩人のために詩集に挿絵を描いたり、雑誌に風刺画を発表したりしています。またレジスタンスの時代には画商を装い、自身の雅号から取った「ロマナン」(Romanin)
という店名のギャラリーを、ニースに開いています。
1917年、18歳のジャン・ムーランは名門モンペリエ大学(現在のユニヴェルシテ・モンペリエ・アン l'Université Montpellier
1)法学部に入学し、父の紹介でエロー県知事官房の試補(実習生)となりました。当時のエロー県知事は、後に首相、大統領となるレモン・ポアンカレ (Raymond
Poincaré, 1860 - 1934) でした。レモン・ポアンカレは、ポアンカレ予想やトポロジーで有名な数学者アンリ・ポアンカレ (Jules-Henri
Poincaré, 1854 - 1912) の従弟です。
大学入学から数カ月後の 1918年4月17日、ジャン・ムーランは徴兵されます。当時は第一次世界大戦中でしたが、新兵訓練を終えたジャン・ムーランが配属先のメス(Metz メッツ)に向かう途中で、第一次世界大戦は終結しました。ジャン・ムーランはいくつかの任地で軍務をこなした後、1919年11月に除隊され、すぐにモンペリエに帰って、県知事官房の仕事に戻りました。若きジャン・ムーランは県知事官房での仕事ぶりを評価され、1920年の終わりに県知事官房長の補佐になりました。翌1921年、ジャン・ムーランは法学部を卒業しました。
この頃のジャン・ムーランは、非宗教共和青年会 (Jeunesses laïques et républicaines) に加入し、また全仏学生連盟
(L'Union nationale des étudiants de France, l'UNEF) のモンペリエ支部長も務めています。
ジャン・ムーランは学生生活を終えたばかりの若さにもかかわらず、1922年、イタリアと国境を接するローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県の県知事官房長に抜擢され、1925年から
1930年までは同県アルベールヴィル (Alberville) において国内最年少の郡長、1930年にはシャトーラン(Châteaulin ブルターニュ地域圏フィニステール県)の郡長を務めています。なおジャン・ムーランはアルベールヴィル時代の1926年に結婚をしていますが、二年後に離婚しています。
1932年、中道の共和政党である急進社会党(正式名称は「共和主義急進派・急進社会党」 Parti républicain, radical et radical-socialiste)の政治家で、当時フランス共和国の外務次官 (sous-secrétaire d'État aux Affaires Etrangères) であったピエール・コット (Pierre Cot, 1895 - 1977) に招かれて外務担当補佐官となり、1933年には航空大臣となっていたピエール・コットの下で大臣官房長として働くかたわら、スイスと国境を接するトノン=レ=バン(Thonon-les-Bains ローヌ=アルプ地域圏オート=サヴォワ県)の郡長も務めました。翌1934年にはフランス中部、モンタルジ(Montargis サントル地域圏ロワレ県)の郡長、次いで北フランス、ソンム県(Somme ピカルディ地域圏)で知事を補佐する県庁書記長 (secrétaire général de la préfecture) となりました。
1936年、航空省官房長に任命されたジャン・ムーランは、内戦状態にあったスペインに航空機を派遣して、人民戦線政府を支援しました。翌 1937年、ジャン・ムーランはミディ=ピレネー地域圏北東部にあるアヴェロン県
(Aveyron) の知事になりました。このときジャン・ムーランは38歳で、当時のフランスで最年少の知事でした。航空省でフランス空軍との関係を築いたジャン・ムーランは、1937年3月、空軍の主任伍長としてマルセイユ近郊マリニャーヌ(Marignane
プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県)の基地、翌年2月にはパリ近郊イシー=レ=ムリノー(Issy-les-Moulineaux イール=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県)の基地に配属されました。1939年、ジャン・ムーランはシャルトルがあるウール=エ=ロワール(Eure-et-Loir サントル地域圏)の県知事に任命されました。
ジャン・ムーラン
2. 第二次世界大戦開戦から知事解職まで
1939年9月1日、ドイツとスロヴァキアがポーランドに侵攻すると、9月3日にイギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が始まりました。ジャン・ムーランは機関銃手としての訓練を受けるべく、9月9日、内務省の指示に逆らってイシー=レ=ムリノー空軍基地に出向き、身体検査にいったん合格しましたが、視力が悪かったために翌日になって合格が取り消されてしまいました。ジャン・ムーランはそれでもあきらめずにトゥールの空軍基地に出向き、合格を勝ち取りましたが、内務省によって軍務を禁じられ、やむなくウール=エ=ロワール県知事の職に戻りました。
1940年6月、フランスが実質的に降伏し、コンピエーニュの森でドイツとの休戦協定が結ばれた直後、ウール=エ=ロワール県知事ジャン・ムーランは逮捕されました。当時ドイツ軍の爆撃によってウール=エ=ロワール県内の村人が死傷したのですが、ドイツはこれを自国軍によるものと認めず、フランス軍のセネガル人部隊の仕業であると主張しました。この事件に関して県知事ジャン・ムーランはドイツの言い分を虚偽と断じ、親独勢力と対立したのでした。捕らえられたジャン・ムーランは拷問を受けましたが、ドイツへの協力を頑として拒みました。このときの様子はジャン・ムーラン自身による記録で詳しく知ることができます。
なおジャン・ムーランはガラス片で喉を掻き切って自決しようとしましたが、辛うじて命を取りとめています。後にスカーフを愛用したのは、首の傷痕を隠すためでした。
ジャン・ムーランは急進社会党(正式名称は「共和主義急進派・急進社会党」 Parti républicain, radical et radical-socialiste)に属していました。急進社会党は極端な左派ではなく、どちらかというと中道の共和政党ですが、ヴィシー政権は知事ジャン・ムーランを危険人物と看做し、1940年11月2日に知事の職を解かれました。
3. 最初の渡英と、南フランスにおけるレジスタンス組織の統一
シャルル・ド・ゴール
1941年9月、ジャン・ムーランは「ジョゼフ・ジャン・メルシエ」(Joseph Jean Mercier) という偽名を使い、スペインとポルトガルを経由して、独力でロンドンに渡りました。当時ロンドンでは、祖国を脱出したシャルル・ド・ゴール将軍
(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle, 1890 - 1970) が亡命政府「自由フランス」(la
France libre) を結成していました。ロンドンでド・ゴールに会ったジャン・ムーランは、資金や武器の供与をはじめとするフランス国内のレジスタンスへの援助を要請しました。
当時、フランス国内のレジスタンスは独立したいくつもの組織に分かれ、ばらばらに活動していました。そのなかで最大のものは、アンリ・フルネ (Henri
Frenay, 1905 - 1988) が率いる「コンバ」(Combat) と呼ばれる組織でした。ド・ゴールはこれらの組織をひとつにまとめる仕事をジャン・ムーランに任せました。ド・ゴールの狙いは、自由フランス政府に従う一枚岩のレジスタンス軍を作ることでした。
ジャン・ムーランは自由フランス政府から資金をはじめとする全面的援助を受け、その指揮下に入りました。こうして1942年1月1日夜、ジャン・ムーランは南フランスのエクサンプロヴァンス付近、正確にはサンタンディオル(Saint-Andiol プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県)から15キロメートルの山中に、落下傘で降下しました。
(上) エクサンプロヴァンスにある大きな野外彫刻。落下傘で降下するジャン・ムーランを表しています。
マルセル・ルイ・モーリス・クルビエによる1968年の作品。
「1940年6月22日の休戦協定」が結ばれた当時の「フランス国」は、ドイツ軍の占領下にある北半分と、ドイツ軍に占領されていない南半分に分かれており、北半分は「ゾーン・ノール」(la
zone nord)、南半分は「ゾーン・リーブル」(la zone libre 自由地域)あるいは「ゾーン・シュド」(la zone sud 南地域)と呼ばれていました。しかしながら
1942年11月以降、ドイツによる占領地域は南フランスへと拡大してゆき、1943年10月にはフランス全土がドイツに占領されることになります。
ジャン・ムーランはまず南フランスのレジスタンスをまとめるために注力し、1942年11月27日、リヨン近郊の村コロンジュ=オ=モン=ドール (Collonges-au-Mont-d'Or) で、レジスタンス組織間の連絡委員会を作りました。この委員会は南フランスで活動する三つの主要なレジスタンス組織、すなわち「コンバ」(Combat)、 「リベラシオン=シュド」(Libération-Sud)、「フラン=ティルール」(Franc-Tireur) と共産主義勢力との連携を目的とし、1943年1月26日に「統一レジスタンス運動」(les Mouvements unis de la Résistance, MUR) が生まれる先駆けとなりました。ジャン・ムーランは「統一レジスタンス運動」において、「コンバ」を率いるアンリ・フルネ、「リベラシオン=シュド」を率いるエマニュエル・ダスティエ・デ・ラ・ヴィジョリ (Emmanuel d'Astier de La Vigerie, 1900 - 1969)、「フラン=ティルール」を率いるジャン=ピエール・レヴィ (Jean-Pierre Lévy, 1911 - 1996) の間に立ち、意見調整に腐心しました。
なおジャン・ムーランが画商を装って、ニースにギャラリー「ロマナン」(Romanin) を開いたのは、この頃のことです。
4. 二度目の渡英と、レジスタンス国民会議の設立
南フランスにおいてレジスタンスの連携が進んでいる状況をド・ゴールに報告するため、1943年2月、ジャン・ムーランは再びロンドンに渡りました。このときはシャルル・ドルストラン
(Charles Delestraint, 1879 - 1945) がジャン・ムーランに同行していました。シャルル・ドルストランは上述の三つのレジスタンス組織で構成されるド・ゴール直属の秘密軍「ラルメ・スクレート」(l'Armée
Secrète, AS) を率いるべく、各レジスタンス組織とド・ゴールによって選ばれた軍人です。レジスタンス組織の指導者たちはジャン・ムーランの役割を政治家的なものと見ていたため、軍事行動を実行するレジスタンス闘士の代表として、シャルル・ドルストランを同行させたのでした。
「自由フランス」軍を視閲するシャルル・ド・ゴール将軍、1940年7月14日、ロンドンで撮影。
ロンドンでジャン・ムーランを迎えたド・ゴールは、
ロレーヌ十字をデザインした「解放勲章」(l'Ordre de la Libération) を授与するとともに、ジャン・ムーランを自由フランス政府が設けた「フランス国民委員会」(le Comité National Français) の閣僚とし、フランス本土において「フランス国民委員会」を代表する唯一の人物と認めました。ド・ゴールはジャン・ムーランに、フランス全土のレジスタンスを統合する組織、「レジスタンス国民会議」(le Conseil National de la Résistance, CNR) を組織する仕事を委ねました。
1943年3月21日、再びフランスに潜入したジャン・ムーランは、「レジスタンス国民会議」の創設に取り組みました。ジャン・ムーランはレジスタンスの全組織によく知られているわけではなかったので、この仕事は困難を極めましたが、同年5月27日、「レジスタンス国民会議」の第一回の会合がパリで開かれました。
ジャン・ムーランは「レジスタンス国民会議」の最高指導者でしたが、「レジスタンス国民会議」を一枚岩の組織に育てるのは簡単ではありませんでした。「レジスタンス国民会議」をドイツに対するフランス唯一の抵抗勢力と認めていたのは、ド・ゴールと同じ立場に立つ人たちのみであったからです。しかるに共産主義勢力は、ド・ゴール直属の「レジスタンス国民会議」が唯一の抵抗勢力であるべきだとは考えず、ド・ゴールの指揮を受けない大規模なゲリラ軍を、イタリアとの国境に近いヴェルコール山塊に展開する計画を立てて実行しました。共産主義勢力以外のレジスタンス組織はこれに反対しましたが、ヴェルコール山塊の共産ゲリラは、1944年の初め、実際にドイツ軍の大規模な掃討を受けて壊滅しました。
5. ジャン・ムーランの逮捕と死
1943年2月にジャン・ムーランとともにロンドンに行って以来、秘密軍を率いていたシャルル・ドルストラン は、同年6月9日、パリでゲシュタポ(ナチの秘密警察)に逮捕されました。ドルストランの後任を決めるため、1943年6月21日、リヨン近郊カリュイール=エ=キュイール(Caluire-et-Cuire ローヌ=アルプ地域圏ローヌ県)の民家でレジスタンス指導者の会合が行われました。
この会合にはジャン・ムーラン、アンドレ・ラサーニュ (André Lassagne, 1911 - 1953)、アルベール・ラカーズ (Albert
Jean Lacaze, 1884 - 1955)、レモン・オブラック ( Raymond Aubrac, 1914 - )、ブルーノ・ララ
(Bruno Larat, 1916 - 1944)、エミール・シュヴァルツフェルト (Emile Schwarzfeld, 1885 - 1944)、アルベール・ラカーズ
(Albert Lacaze, 1884 - 1955) が出席していました。秘密であったはずのこの会議をゲシュタポが急襲し、ジャン・ムーランをはじめとするレジスタンス指導者たちは逮捕されました。(註1)
ジャン・ムーランはリヨンのモンリュック刑務所に連行され、ゲシュタポの大尉クラウス・バルビー (Klaus Barbie, 1913 - 1991)
による尋問を受けたあと、パリに移送されて、ゲュタポ本部で激しい拷問を受けました。その後さらにベルリンに移送されることになりましたが、ドイツに向かう列車の車中で絶命しました。
ジャン・ムーランが死亡した状況について確かなことは分かっていませんが、日付は 1943年7月8日または9日、場所はドイツとの国境に近い町メス(メッツ Metz ロレーヌ地域圏モーゼル県)のあたりと考えられています。本人と同定できる遺体は残っていません。
ジャン・ムーランと「デュグジョン医師の家」。フランスの記念切手。
ジャン・ムーランの逮捕現場となったカリュイール=エ=キュイールの民家は、家主であった医師の名前を取って「デュグジョン医師の家」(maison
du docteur Dugoujon) と呼ばれています。「デュグジョン医師の家」は 1990年に文化財 (monument historique)
に指定され、現在はレジスタンス記念館となっています。
フレデリック・デュグジョン医師 (Frédéric Dugoujon, 1913 - 2004) は自身もレジスタンスの闘士でもあり、この家をレジスタンス活動家たちに自由に使わせていました。デュグジョン医師はジャン・ムーランたちが逮捕されたときに一緒に逮捕されましたが、結局免訴となり、翌年1月17日、アルベール・ラカーズとともに釈放されました。
ジャン・ムーランがパンテオン入りした際の式典。
当店の商品、「パリ・マッチ」 821号(1965年)の表紙より。
フランス解放20周年である 1964年の12月19日に、パンテオンにジャン・ムーランの記念碑が作られました。2004年12月19日には、ジャン・ムーランのパンテオン入り40周年を記念して、「デュグジョン医師の家」の近くに全身像が建てられました。
ジャン・ムーランの友人であった彫刻家マルセル・ルイ・モーリス・クルビエ (Marcel Louis Maurice Courbier, 1898
- 1976) は、ジャン・ムーランに捧げた作品をフランス各地に製作しています。下の写真はシャルトルにあるジャン・ムーランの記念碑で、彫刻はクルビエの作品です。
ジャン・ムーランは最も有名なレジスタンス活動家であり、数多くの学校や通りがその名前を冠しています。下のメダイユはメダイユ彫刻家シルヴァン・ブレ
(Sylvain Bret, 1937 - ) の作品で、パリ近郊ヴァンセンヌにあるリセ、「リセ・プロフェシオネル・ジャン・ムーラン」(lycée
professionnel Jean Moulin ジャン・ムーラン商業高校)のために製作されたものです。
当店の商品です。
註1 この会談には共産党員のルネ・アルディ (René Hardy, 1911 - 1987) が呼ばれていないのに姿を見せ、さらに逮捕を免れたことで、レジスタンス指導者たちから裏切りの疑いを掛けられました。
アルディが疑われるのは無理の無いことでした。アルディはこの直前、6月7日に、リヨン=パリ間の列車内で逮捕され、6月10日にクラウス・バルビーに引き渡された後、釈放されていたのです。したがってアルディの身分と居場所はゲシュタポに把握されており、その行動は厳重に監視されていたはずです。そのような状況の中で秘密会議の場に姿を現すことは、控え目に言っても致命的なミスと断じざるを得ません。
レジスタンス指導者たちはアルディの対独協力を確信して、何度も暗殺計画を立てましたが、うまくゆきませんでした。また戦後になって、ルネ・アルディは対独協力の罪で二度に亙(わた)り起訴されますが、有罪の証拠が見つからずに結局無罪となりました。事の真相は不明のまま、アルディは
1987年に亡くなりました。
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