青色エマイユによる「上智の座」の聖母 キリスト教信仰の核心を表す美麗ロザリオ 全長 32 cm


ロザリオの全長  32 cm

クルシフィクスを下にしてロザリオを吊り下げたときの、ロザリオ上端からセンター・メダル上端までの長さ  20 cm

クルシフィクスのサイズ  38.7 x 22.0 mm

ビーズの直径  4 mm (概寸)


フランス  1920年代



 1920年代頃のフランスで制作されたシャプレ・ド・ラ・ヴィエルジュ(chapelet de la Vierge 聖母のロザリオ)。第一次大戦がもたらした混乱も徐々に終息し、ヨーロッパで華やかな文化が花開いた時代にふさわしく、ロザリオの全体に良質の金めっきが施されています。クール(センター・メダル)には若きマリア(聖母)の横顔を浮き彫りにしています。ロザリオの全長は 32センチメートルで、金具を付加せずにネックレスとして使うことはできません。





 本品のクルシフィクスは、左右対称の幾何学的デザインによるアール・デコ様式の十字架に、別作のコルプス(キリスト磔刑像)をカシメ留めしています。十字架の縦木と横木の中心軸に沿って二ミリメートル幅の凹部が設けられ、青色ガラスのフリットを用いたエマイユが施されています。凹部の底には直線と円による彫金が施されています。エマイユ越しに見えるこの幾何学パターンは、アール・デコのエマイユ・シュル・バス・タイユとして装飾的機能を担うとともに、ガラスが十字架表面にしっかりと融着するために役立ち、エマイユの剥落を防いでいます。





 フランス語で「クール」(cœur 心臓、ハート)と呼ばれるセンター・メダルは楕円形で、若きマリアの整った横顔を浮き彫りにしています。マリアは軽く目を閉じて神との対話に沈潜していますが、顔はまっすぐに前を向いています。これは天使ガブリエルから受胎を告知された後、神の摂理を無条件に信じて恐れず進もうとする信仰深い少女の姿でしょう。

 マリアの左にメダイユ工房の刻印 (AP)、右にメダイユ彫刻家のサイン (Bouix)、下部に「フランス」(FRANCE) の文字が見えます。上部左の環にある四角いマークは金めっきの品質を保証する刻印でしょう。1920年代の金めっきは現代のエレクトロプレートとは異なって、金の板をベースメタルに張り付けたものです。そのため現代の金めっきに比べると、摩耗に対する強度は格段に優れています。本品の十字架、クール、ビーズ、チェーンの金にも、肉眼で判別できるようなめっきの剥がれは認められません。





 本品の色使いは金色を基調とし、十字架も金色です。しかしながらイエスを抱く部分だけに青色エマイユが施されています。本品におけるエマイユの青色には意味があるのでしょうか。

 誰にでも分かる第一の意味として、見た目の美しさが挙げられます。青と黄色は色相環上でほぼ正反対の位置にあり、この二色を並べるとたいへん鮮やかな装飾効果が得られます。ジュエリーの場合も、市販品では青い宝石に対して銀色の金属(銀、ホワイト・ゴールド、プラチナ)を取り合わせたものがほとんどですが、当店でジュエリー製作をご注文いただく場合は、青い宝石とイエロー・ゴールドの組み合わせをお勧めしています。





 第二の意味はキリスト教美術の伝統に関係します。上の写真はアヤ・ソフィアのモザイクで、天の栄光を表すために金色が多用されています。聖母の衣は青で表されています。聖母の上方左右にはギリシア語アルファベットによるアクロニム風の略記(ΜΡ ΘΥ)がありますが、これは「メーテール・テウゥ」(希 Μήτηρ Θεοῦ 「神の母」)を表します。




(上) 「ノートル=ダム・ド・ラ・ベル・ヴェリエール」(Notre-Dame de la belle verrière 美しき大ステンドグラスの聖母) シャルトル司教座聖堂


 アヤ・ソフィアのモザイク画はビザンティン美術ですが、西ヨーロッパにおいても「青」の地位は十二世紀に劇的に向上し、以前は無意味な色であったものが、「聖母を象徴する色」とされるまでになりました。この歴史的大転換が起こった経緯は「青」の歴史のレファレンスで簡略に論じましたが、かいつまんでいえば、サン=ドニ修道院長シュジェ (Suger de Saint-Denis, c. 1080 - 1151) が修道院付属聖堂(現サン=ドニ司教座聖堂)を飾るステンドグラスに美しいスマルト(コバルトガラス)を使って以来、青の美しさが注目され、各地の聖堂においてステンドグラスや祭具のエマイユに「青」が採り入れられ、中世からルネサンス期の聖母像は青い衣を着るようになったのです。





 したがって本品の青は聖母を象徴しています。十字架上のイエスに聖母の青を重ねた意匠は、愛するわが子とともに苦しみ給うた聖母の愛を表すとともに、キリストによって達成された救世が、その救世を受け容れたマリアの信仰を前提としていることをも表しています。神は救いを強制し給わず、救いを受け容れるかどうかは少女マリアの自由意思に任されました。無条件の信仰ゆえに神に選ばれたマリアは、人の知恵では受け容れがたい受胎の告知を素直に受け容れ、救い主を産みました。マリア自身は救い主ではありませんが、マリアはその信仰ゆえに救い主の母となり、そのおかげで人類は救われたのです。

 本品は天使祝詞の回数を数えるのに使われる「シャプレ・ド・ラ・ヴィエルジュ」(仏 chapelet de la Vierge 聖母の数珠、ロザリオ)です。本品に用いられている金と青の配色は、これを用いて祈る人に、マリアに倣って救いを受け容れる信仰を促しています。ケルビム(智天使)の色でもある青は「智慧」の象徴であり、本品においては救いを受け容れたマリアの「信仰の智慧」を表しています。




(上) シャルトル司教座聖堂西側の南入り口にあるタンパンと、二段のまぐさ石


 コルプスの下にある青色エマイユは、「セーデース・サピエンティアエ」(羅 SEDES SAPIENTIAE 「上智の座」)なる聖母をも表します。また青色エマイユ上に取り付けられたコルプスは、現代においてもミサの度ごとに新たに受難し給うキリストの御体(聖体)の秘蹟を表しています。

 このことを理解するには、シャルトル司教座聖堂西側の南入り口で、タンパン彫刻とまぐさ石を飾る彫刻群が役に立ちます。この作品において、タンパンと二段のまぐさ石の中央を貫く垂線上には常にイエスがいます。すなわちまぐさ石下段において、幼子イエスは聖母が横たわるベッドの上方、祭壇の上に寝かされています。まぐさ石上段において、幼子イエスは神殿の祭壇に立っています。タンパンにおいて幼子イエスは聖母の膝の間にすわっていますが、聖母の膝も祭壇との類似性を有します。それゆえこの彫刻群はイエスが祭壇に捧げられたアグヌス・デイ(神の子羊)であることを表すとともに、「上智の座の聖母」と「祭壇」を類比的に重ね合わせることにより、十字架上及び教会の祭壇上に受難し給うイエスを救い主と告白する「信仰の智慧」をも象徴しています。




(上) Fra Filippo Lippi (1406 - 1469), Madonna and Child Enthroned with Two Angels, 1437, tempera and gold on wood, Metropolitan Museum of Art, New York


 上の絵はフィリッポ・リッピが 1437年に描いた「上智の座の聖母」で、ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されています。聖母の膝で本を持つ幼子イエスは「サピエンティア」(羅 SAPIENTIA 「上智」「智慧」)を象徴します。聖母子の向かって左にいる天使はラテン語が書かれた巻物を持っています。これはヴルガタ訳「集会書」24章26節の聖句で、「われを欲する汝等は皆、われに来(きた)りて、われの産み出すものにて満たされよ。」 (VENITE AD ME OMNES QUI CONCUPISCITIS ME ET A GENERATIONIBUS MEIS IMPLEMINI) と書かれています。新共同訳聖書において、この箇所は「シラ書」 24章 19節に当たります。


 Il graffito di Alessameno


 キリスト教は非常に特異な宗教です。イエスが十字架に架かっておられる御姿を、我々は普段からさまざまな図像で見慣れていて、それが普通のことであるように錯覚しています。しかしながら旧約時代から待望された救世主が王の位に就くのではなく、重罪を犯した非ローマ市民にのみ適用される方法で処刑されたのです。これを現代に当てはめれば、拘置所で絞首索からぶら下がっている刑死人を、救世主として崇(あが)めるようなものです。このように考えれば、キリスト教信仰はまったくの気違い沙汰と言われても、返す言葉がありません。

 上の写真はローマで見つかった「アレッサメーノの落書き」で、二世紀頃のものと考えられています。この落書きでは向かって左下に描かれたキリスト教徒(アレクサメノスという名前の男性)が、十字架上の驢馬を礼拝しています。「アレクサメノス・セベテ・テオン」(᾿Αλεξάμενος σέβετε θεόν ギリシア語で「アレクサメノスが神を拝んでいるところ」)と書き殴られています。

 しかしながらキリスト者は自らの信仰の特異性に気付いていないのではなくて、キリスト教が尋常の宗教でないことを分かったうえで、イエスを救世主と信じているのです。イエスを救世主と信じる智慧(サピエンティア)に関連し、使徒パウロは「コリントの信徒への手紙 一」 二章六節から十二節において次のように語っています。ギリシア語テキストはドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版、日本語訳は新共同訳によります。

     6Σοφίαν δὲ λαλοῦμεν ἐν τοῖς τελείοις, σοφίαν δὲ οὐ τοῦ αἰῶνος τούτου οὐδὲ τῶν ἀρχόντων τοῦ αἰῶνος τούτου τῶν καταργουμένων: 7ἀλλὰ λαλοῦμεν θεοῦ σοφίαν ἐν μυστηρίῳ, τὴν ἀποκεκρυμμένην, ἣν προώρισεν ὁ θεὸς πρὸ τῶν αἰώνων εἰς δόξαν ἡμῶν: 8ἣν οὐδεὶς τῶν ἀρχόντων τοῦ αἰῶνος τούτου ἔγνωκεν, εἰ γὰρ ἔγνωσαν, οὐκ ἂν τὸν κύριον τῆς δόξης ἐσταύρωσαν. 9ἀλλὰ καθὼς γέγραπται, Ἃ ὀφθαλμὸς οὐκ εἶδεν καὶ οὖς οὐκ ἤκουσεν καὶ ἐπὶ καρδίαν ἀνθρώπου οὐκ ἀνέβη, ἃ ἡτοίμασεν ὁ θεὸς τοῖς ἀγαπῶσιν αὐτόν. 10ἡμῖν δὲ ἀπεκάλυψεν ὁ θεὸς διὰ τοῦ πνεύματος: τὸ γὰρ πνεῦμα πάντα ἐραυνᾷ, καὶ τὰ βάθη τοῦ θεοῦ. 11τίς γὰρ οἶδεν ἀνθρώπων τὰ τοῦ ἀνθρώπου εἰ μὴ τὸ πνεῦμα τοῦ ἀνθρώπου τὸ ἐν αὐτῷ; οὕτως καὶ τὰ τοῦ θεοῦ οὐδεὶς ἔγνωκεν εἰ μὴ τὸ πνεῦμα τοῦ θεοῦ. 12ἡμεῖς δὲ οὐ τὸ πνεῦμα τοῦ κόσμου ἐλάβομεν ἀλλὰ τὸ πνεῦμα τὸ ἐκ τοῦ θεοῦ, ἵνα εἰδῶμεν τὰ ὑπὸ τοῦ θεοῦ χαρισθέντα ἡμῖν: (Nestle-Aland 26. Auflage)     しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 (新共同訳)





(上) アンティーク・フォトグラヴュア ルイ・ソゼ作 「殉教する愛娘を励ますキリスト教徒」 202 x 250 mm 1880年代 当店の商品です。


 トマス・アクィナスは「スンマ・コントラ・ゲンティーレース」("SUMMA CONTRA GENTILES" 「対異教徒大全」)第一巻第六章で次のように述べています。ラテン語テキストは 1874年のルドヴィクス・ヴィヴェス書店版、日本語訳は筆者(広川)によります。

     Quibus inspectis, praedictae probationis efficacia, non armorum violentia, non voluptatum promissione, et, quod est mirabilissimum, inter persecutorum tyrannidem, innumerabilis turba non solum simplicium sed etiam sapientissimorum hominum ad fidem christianam convolavit; in qua omnem humanum intellectum excedentia praedicantur, voluptates carnis cohibentur, et omnia quae in mundo sunt haberi contemptui docentur.    武器の暴力に曝されても、さまざまな快楽の約束を与えられても、また最も驚くべきは迫害者たちの暴虐の中にあっても、教養無き者たちのみならず、最も知恵ある人々までもが数えきれない群れとなってキリスト教信仰へと馳せ参じた。キリスト教信仰においては、人間の知性全体を超越する諸々の事柄が明らかにされ、現世のさまざまな快楽が制御され、地上にあるすべての事物が蔑まれるべきであると説かれる。
     Quibus animos mortalium assentire et maximum miraculorum est, et manifestum divinae inspirationis opus, ut, contemptis visibilibus, sola invisibilia cupiantur.
   死すべき者たちの魂がこれらのことに賛同するのは驚くべき諸事のうちの最大事である。可視的諸事物が蔑(さげす)まれ、不可視のものだけが欲せられるのは、神による示し(イーンスピラーチオー)の明らかな御業(みわざ)である。
         
      (Thomae Aquinatis "SUMMA CONTRA GENTILES" Liber I, Caput VI)    



 したがって本品のクルシフィクスは、ナザレのイエスこそがキリスト(救世主)であるという信仰告白を象徴しています。シャプレ(数珠、ロザリオ)にクルシフィクスが付いているのは本品に限らず当たり前の事ですが、本品においては青色エマイユが「上智の座」の聖母を象徴し、その上にコルプスを置くことによって、キリスト教信仰の核心である「信仰の智慧」「上智」を表しています。この智慧をパウロは「隠されていた、神秘としての神の知恵」(希 θεοῦ σοφίαν ἐν μυστηρίῳ, τὴν ἀποκεκρυμμένη)と呼び、トマスは「神による示し」(羅 DIVINA INSPIRATIO)と呼んでいます。





 本品は百年近く前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、特筆すべき問題の無い良好な保存状態です。金色と青の組み合わせは見た目に美しいのみならず、古代以来のキリスト教思想とキリスト教美術の歴史を受け継いで、信仰の核心に迫る深い意味を表しています。





本体価格 21,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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